魔界サイド⑦:私たちは“レベル”を捨てた
エルナ村に滞在して最初の数日は、私にとって“稽古”だった。
村長の家の客間。粗末だが清潔な部屋。勇者たちが泊まったという部屋。
窓の外にあるのは畑と、洗濯物と、煙と、日暮れに飛ぶ鳥の群れ。
魔界なら、客人はまず“値踏み”される。
どこの誰で、どの程度の力で、何を持ち、何を奪えるか。
その目が先に来る。笑顔は後だ。
だがこの村は違った。
「おや、べっぴんさんな旅人じゃのう」
「勇者様のお知り合いだって本当かい? ご無事だといいねぇ」
「必要なものがあったらフローレンス商店に行けばいいよ」
言葉が軽い。気安い。
こちらの事情や真意を見極めようともしない。
私は戸惑った。警戒した。裏があると思った。
けれど、裏がない。――それが一番、足元を揺らした。
ユリは当たり障りなく、にこやかにそれらを受け止め、流し、私へと引き継ぐ。
頭を下げる角度も、声の柔らかさも、程よく、皆が彼女を快く受け容れる。
村に来る以前もそうだった。
人間界では、配慮や礼儀が武器になるのだと実感した。
そんなユリのやり方から、私は思いついた。
アリア・メイスンをより近くで観察する方法を。
「友達になってみようと思うの」
「危険すぎます」
当然、反対された。
だが強硬手段が論外である以上、私たちに残された道は少ない。
手探りで接触を重ね、交友を結ぶ――それしかなかった。
※※※※※
三日目の昼。森の入口で木の実を拾う彼らを見つけ、私は一度呼吸を整えてから声をかけた。
「ねえ、アリア。よかったら、一緒に散歩でもしない?」
アリアの手が止まり、次にカイルが止まった。
二人が“いつも一組”であることを、私はもう知っていた。
声をかけたのはアリアだが、来るなら二人だろう――そう読んでいた。
アリアは一瞬、カイルを見る。
不信だけではない。「一緒じゃなきゃ嫌だ」という素直さが透ける。
そして意外にも、カイルからは僅かに挑むような気配を感じた。
この数日の私の接触の仕方が、彼にも不信感を与えてしまっていたようだ。
「いいね。森の方に良いところがあるから――案内するよ」
断られないことに安堵し、私は彼の背中を追いながら森の匂いへ意識を移した。
湿った土。腐葉土。水の気配。魔力の薄い空気が、逆に落ち着かない。
会話は拍子抜けするほど普通だった。
森の道、薪拾い、キノコ、毒の見分け方。
私は“踏み込まない角度”を選び続けた。輪郭だけをなぞるように、けれど関心は隠さずに。
私は、アリアの“ぎこちなさ”にも気づいていた。
私が話しかけるたび、返事が半拍遅れる。
笑っても硬い。目線がちらりとカイルへ逃げる。
敵意ではない。もっと子どもっぽいもの――自分の場所が揺らぐ不安だ。
嫉妬。
報告書には書かれていなかった。
正体不明の怪物の動機、価値観、感情。
現実では、“怪物のはずの存在”が、あまりにも普通の心で揺れている。
私は他愛ない話を続けた。
輪郭だけをなぞり、嫌われない角度で距離を詰める。
それを自然にやってしまう自分に気づいて、少しだけ嫌になった。
私は結局、“戦うための社交”しか知らないのだと。
けれど食べ物の話になった瞬間、彼女の明るさが戻った。
好きなものを語る熱。得意げな頷き。言い訳の潔さ。
(レベル一億の怪物が、バターで火傷なんてする……?)
私は改めて報告書に積まれた数字へ疑念を抱いた。
※※※※※
小川に出ると、木苺が赤い点々となって茂みにぶら下がっていた。
アリアが弾んだ声を上げ、次の瞬間には私たちにも差し出した。
「こっちのが赤い」
宝物を分けるみたいに。
彼女が自然に笑い、自然に“ちゃん”をつけた時、胸の奥が少し緩んだ。
そんな呼び方をされたことは、ユリにすらない。距離の詰め方は乱暴で唐突だ。だが、不快ではなかった。
私はしゃがむことに躊躇った。服の裾ではない。
地面の近さに慣れていないだけだ。
するとアリアが葉を押さえ、棘を避ける掴み方を教えてくれた。
「……ありがとう」
言葉が、思ったより真っ直ぐ出た。
木苺は甘いものも酸っぱいものもある。
外れを引いて顔をしかめ、同じ枝から取ってまた外れ、耐えきれずに笑った。
私が眉間に皺を寄せると、ユリが静かに別の枝を選び直し、甘い実を差し出した。
アリアは素直な言葉でユリを褒める。
私は、それが誇らしかった。
ユリはレベルが低い。だが賢く、気遣いに長け、機転も効く。
魔界では、その良さが正当に評価されることが少なかった。
だから、評価してくれる誰かが現れたことを、私は嬉しいと感じたのだ。
その瞬間、悟った。
ここには秤がない。勝ち負けの前提がない。
それでも関係は結べる。むしろ、だからこそ結べる。
私は“観測者”の顔を、ほんのひととき下ろした。
木苺の赤さと、水の冷たさと、笑い声だけが残った。
※※※※※
畑に出たのは、私のわがままだった。
“友達になろう”と決めたのなら、観察のために近づくだけでは足りない。
同じ時間を過ごすべきだと思った。――言い訳だ。
実際は、手を動かしていないと頭が余計な計測を始めるから。
「私にも、やらせてほしいの」
カイルは一瞬だけ驚いた顔をして、それから「いいけど」と言った。
断らない。気取らない。見栄を張らない。
この少年は強さの話をしないのに、変な“安定”があった。
鍬を渡され、持った瞬間に分かった。
力は足りる。足りるどころではない。鍬が軽い。
だがそれは、正しい動かし方を知っていることとは別だ。
刃の角度がずれる。深すぎる。反動が手首に返ってくる。
私は眉をしかめた。下手だと分かってしまうことが、魔界の私には屈辱になる。
――レベルに見合った成果を出せない。
その矛盾は、魔界では嘲りの種だ。
けれどカイルは笑わなかった。
呆れた顔もしない。まして、値踏みもしない。
「力入れすぎ。刃こぼれするし、手も痛める」
ただ、それだけ。
事実だけを言い、やり方を見せる。
私はそのまま真似をした。
不思議だった。真似をすることに抵抗がない。恥とは感じなかった。
土が返る。匂いが上がる。湿った黒が、爪の間に入る。
その汚れが、なぜか嫌ではなかった。
横でアリアが笑っている。
「ミーナちゃん、顔、真剣!」
“ちゃん”。距離の詰め方が早い。
早いのに圧がない。ただ嬉しそうに笑うだけだ。
私は返事の間を少しだけ遅らせた。
あの子を見ていると、こちらの内部が勝手に揺れる。
怖いからではない。怖いはずなのに、怖さが形にならないから。
作業の終わり、私は土のついた手を見つめた。
誰に向けるでもなく、ぽつりと漏れた。
「皆、これを毎日続けられるのね」
軽視されていたとはいえ、私は大魔王の息女だ。暮らしに困ることはなかった。
人間界に来てからも、ユリが旅を支えてくれた。
けれど、ここでは誰もが生きるために土を耕し、家畜を育てる。
勝つためではなく、暮らすために続けている。
アリアが笑いながら言った。
「毎日じゃないよ。雨の日は土を触ったらダメなんだよ」
禁止が、罰ではなく知恵として口から出る。
私は思わず訊ねた。
「雨の日は何をしているの?」
アリアは目を輝かせて語りだした。
屋根の下でやる仕事、繕い物、薪の手入れ、乾かす場所の話。
どうでもいいことばかりで、どうでもいいことだからこそ、生活の密度が見えた。
ユリがその横で、目を細めて聞いている。
魔界では価値にならない話を、価値のあるものとして。
※※※※※
翌日、アリアに連れられてフローレンス商店へ行った。
カラン、と鳴るドアベル。店の中は香りが濃い。
乾いた香草、甘い茶葉、蜂蜜の匂い。
棚の並びが整っていて、村の中なのに“街”の気配がする。
「あら、いらっしゃい。今、村じゃあなた達の話で持ちきりよ」
ハンナという女は、軽薄さの下に目敏い観察眼を隠している。魔界でも見るタイプだ。
彼女はアリアを見て揶揄する。
「全員連れてきて相談事? ずいぶん大胆になったのねぇ」
アリアが顔を真っ赤にして前に出る。
本気で腹を立てているわけではなく、照れからくるものだと分かる。
「きょ、今日はそういうんじゃないから! しないから! お友達になったから来ただけ!」
けれど、友達、と自然と呼ばれたことに、私は一瞬答えに詰まった。
――彼女は父の死の元凶、理外の怪物だとされている。
それでも。私は頷いた。
「……そうね。友達、だと思う」
それだけでアリアが少し安心する。その安心が、私には眩しかった。
出された菓子は素朴で甘い。噛むと歯にまとわりつく。硬いのに温かい甘さ。
アリアは秒で機嫌を直した。分かりやすすぎて、思わず目が緩む。
カイルが自分の分を半分、アリアへやる。
当然みたいな動きで、躊躇がない。
魔界なら、食べ物の分配は“力”の証明になる。
奪うか、与えるか、貸しを作るか。
けれどこの少年は、ただ「欲しそうだから」分ける。
そしてアリアは「大好き!」と言う。
その軽さが、嘘ではないと分かってしまう。
――この村の関係は、秤の外にある。
秤の外にあるのに、崩れない。
※※※※※
私は遅れて“勇者の足跡”も聞き始めた。
村人は嬉々として語った。話を盛っているのだろう。
その魔物が本当に来ていたなら、村の半分は消し飛んでいる。
だが私は、指摘も訂正もしなかった。
正確さよりも、楽しませようという温度が優先されているのだ。
解析なしで知る、というのはこういうことなのだと学ぶ。
曖昧で不正確で、だからこそ人の輪郭が残るやり方。
そのたびに、私はアリアを見た。
禁忌の怪物が、村人の輪の中で笑っている。
得体の知れないものへの恐怖は消えない。
だが、恐怖だけではこの子を語れない。――それが私には苦しい。
だから私は、もう少しだけ、この村で過ごした。
※※※※※
出立の朝。見送りの輪がほどけていくのを、私は一歩だけ外側から眺めていた。
乾いた土の道。赤い屋根。畑の匂い。煮炊きの煙の名残。
魔界の城の回廊に満ちていた重い魔力は、ここには一欠片もない。
代わりにあるのは、人の声と、手の温度と、雑な優しさだ。
そんな場所で、禁忌は平凡な日常を過ごしている。
それがなんだか無性に可笑しく思えた。
私はここに何をしに来たんだったか。
ユリアーナを巻き込んで、魔界を捨てさせてまで来たのは何故か。
だから私は、カイルに質問を投げた。
「……もし、自分より圧倒的に強い相手が、すぐ傍にいると気付いてしまったら。あなたなら、どうする?」
言い終えた瞬間、息が浅くなる。
答えが怖いのではない。答えが、私の中の何かを壊してしまうのが怖い。
ユリの背筋がほんの少し硬くなる。
ここを去る前に、聞かずにはいられない――彼女も分かっている。
カイルは少し考えた。
空を一度見て、地面に戻す。
村の子の顔をしたまま、変に大人びた距離を取る。
「どうするって……そいつがどういう奴かによるだろ」
正論だ。生存のための当然。
「殴りかかってくるなら、逃げる。危ない奴なら、距離を取る」
ここまでは、私が“期待していた答え”だった。
期待している時点で、私はまだ秤の側にいる。
――だが、次が来た。
「でもさ。相手にその気がないなら、別に……普通に付き合えばいいんじゃね」
“普通に”。
その言葉は軽すぎて、そして重すぎた。
圧倒的な差があっても?
相手の気分次第で踏み潰されるかもしれないのに?
心の中の秤が軋む。
魔界では、差が齎すのは恐怖か隷属か支配だ。それ以外を見たことがない。
血の繋がりすら、差の前には情が吹き飛ぶ。
けれどカイルは、秤の外側で答えを出した。
綺麗事ではないことを、私はこの数日で知ってしまっている。
彼は一度も“強さ”を語らずに、畑を起こし、薪を割り、幼馴染と喧嘩し、仲直りをした。
生活の厚みが、薄っぺらい言葉を拒んでいた。
そして――彼は、わざと話をずらした。
目の前のアリアへ。
「なあ、アリア。もしさ。もし、お前に手の一振りで山を吹っ飛ばすくらいの力があったら、どうする? 壊すか?」
ユリの呼吸が止まった。私も止めた。
――あまりにも危うい。
だがアリアは、怖いお伽噺を聞かされた子どもみたいに眉を寄せて首を振った。
「なにそれ、こわい。するわけないでしょ」
即答。
「住んでる動物も困るし、麓の人も困るじゃん。絶対怒られるでしょ」
困る。怒られる。
その言葉が、私の中で鈍い音を立てて転がった。
力を振るう前提ではなく、暮らしを守る前提で世界を見ている。
それが、こんなにも自然に口から出る。
私は肩から力が抜けるのを止められなかった。
ユリも同じだった。息が戻るタイミングが重なる。
私たちは滑稽なほど分かりやすい“緊張の解け方”を晒してしまった。
そして思う。
魔界は、いつからこんなふうに息ができなくなったのだろう、と。
魔族は力を得た。父は戦乱を終わらせた。
――平和だ。少なくとも、かつてよりは。
なのに私たちは、平和の中でも互いを測り続けた。
測って、比べて、序列を確かめて、見下し、見下され、支配し、諦観した。
魔界は、秤が折れたら、何も手元に残らない社会だった。
この村には、秤が最初からない。
それでも暮らしが回っている。回っているどころか、温かい。
父は魔界の価値観のまま、人間界に攻め入ろうとして自滅した。
父は人間を知ろうとはしなかった。戦うための材料として測った。
結局、アリアの何が父を死に至らしめたのかは分からない。
だが、少なくとも彼女にはその自覚がない。動機も、理由もない。
もし、知ってしまえば、むしろ大いに傷つくだろう。
それは私の望むところではない。
私は笑ってしまった。綺麗に作った笑いではなく、少し不格好な笑い方で。
「……そう。そうよね」
自分の声が少し震えている。
「あなたと友達になれて、よかった」
アリアは目を丸くした。突然だと言いたげだった。
突然にしたのは、私がその言葉に慣れていないからだ。
私は友誼を“取引”としてしか扱えない魔界で育った。
友達という概念は、レベルの近い者同士でしか成立しない――そう教わってきた。
なのにここでは、幼馴染が、隣人が、村の子どもが、当たり前にそれを使う。
そして当たり前に守る。
私の口から出た「友達」が、初めて秤を介さないものになった気がした。
※※※※※
村道を離れて街道に出ると、風が一段冷たくなった。
土と煙と煮炊きの匂いが、背中から剥がれていく。
ユリは私の半歩後ろを歩く。いつもの位置。
けれど、村に来る前と同じではない。
私は言葉を探しながら歩いた。
探す、という行為自体が以前の私にはなかった。魔界では、言うべきことは秤が決めたからだ。
「……ユリアーナ」
「はい」
「私、このまま魔界には戻らないかもしれない」
ユリの歩みが一瞬だけ止まりかける。
止まりかけて、止まらない。彼女はその程度では崩れない。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
「人間界を巡ってみたいの。測れないものを、測らずに見てみたい」
自分でも驚くほど声は落ち着いていた。
「ここは魔力が薄い。弱いものばかりに見える」
事実だ。私の目にはそう映る。
だがここで私は、“弱さ”の別の形を見た。
「なのに協力して暮らしてる。守るために生きてる。力を振るう前提じゃなくて」
ユリは黙って聞いている。否定しない。遮らない。
私を支える時の呼吸だ。
「私、勇者に会ってみるのはどうかしらと思うの」
言った瞬間、ユリの表情が硬くなる。
「危険です」
即答。迷いがない。
その迷いのなさが、私には少し嬉しかった。
彼女が私を“守る側”としてここに立っている証拠だから。
「危険、というのは……力の話?」
「力だけではありません。勇者と聖女は天界の加護を受けた代行者です。近づけば、こちらの正体が露見する可能性が上がります」
冷たいほど正しい。
私は目を伏せた。
――私は今、勇者を“敵”として見ていない。
それが魔界の私からすれば異常だ。
だから妥協案を口にした。
「じゃあ、直接会うのはやめる。代わりに足跡を辿って評判を聞いていきましょう」
解析ではなく、人の口と目で確かめる。
ユリは少しだけ息を吐き、頷いた。
「……それでしたら」
「承知いたします。危険を避け、情報を集め、必要なら撤退します。――そこは従っていただきますから」
侍女の言い方ではない。
強制してくるわけでも、下剋上でもない。
あえて言うなら――相棒のそれだ。
言葉は徹底的に合理的だが、こちらに向ける表情は以前よりずっと穏やかなものだ。
私は小さく笑った。
「お願いね、ユリ」
「はい、ミーナさん」
偽りの名で呼ばれるのが、少しだけ優しく感じた。
それはきっと、人間界の軽い空気のせいだ。
レベル百にも満たない私たちには、息がしやすい世界だと感じた。
※※※※※
――後に。
彼女たちは人間界を旅し、その記録をまとめた。
畑の土の匂い、井戸端の笑い声、狼の遠吠えの夜、パンの硬さ、茶の甘さ。
強さだけでは測れないものばかりを書き留め、感想を記した。
表紙には連名があった。
ヘルミーナ・アストラ・ヴァルグレイド。
ユリアーナ・ドロテア・グライオス。
大魔王ヴァルグレイドの息女と、魔王グライオスの息女。
血と序列の名を、あえて隠さずに置いた。
人間界ではまだ広く知られていない魔王の名は見過ごされ、その紀行文は人から人へ伝わり、やがて魔界にも流れ着いた。
魔界でそれは禁書になった。
秤を疑う文字列は、秤の上に立てない。
秤を禁じ、渡界を禁じた今、二重の禁に触れる悪書とされた。
けれど禁じたものほど、低い場所から広がる。
レベルの低い者たち――測られ、軽んじられ、声を持てなかった層が、あの文字を拾った。
拾って、回して、擦り切れるまで読んだ。
彼らは初めて知ったのだ。
測れない世界でも、暮らしは回る。
測らなくても、人は隣に立てる。
その小さな知恵が、閉塞した魔界に、ほんのわずかな風穴を開けた。
すぐには変わらない。変わるには時間が要る。
けれど、あの村の風は確かに魔界へ届いた。
――彼女たちが、秤を捨てて歩んだ旅路が。




