エルナ村のカイル⑫:イベントなんて無かった
案内するよ――なんて言った手前、俺が先頭で歩き出す。
向かう先は森だ。
いつも木の実を拾う森の入り口から少し先、小川を目指す。
森は村の裏口みたいな場所に口を開けている。
木立の影は涼しく、土は柔らかい。畑の土とは違う湿った匂いがする。腐葉土と水と、木の肌。
風が吹くとザァと葉擦れが鳴って、鳥の声が返事みたいに響いた。
この森で黙々と木の実を探す時間が好きだ。
畑より楽だから、だけじゃない。
アリアと喋って、拾った実の数を競って、くだらないことで笑ってきた場所だ。
「こっち。小川に出る」
俺が言うと、ミーナは「ふぅん」とだけ返して、横目でアリアを見た。
森の中の景色が気に入ったのか、ミーナとユリさんの雰囲気が少しだけ和らぐ。
歩き出してみれば、会話は驚くほど普通だった。
「この森、村の子はよく来るのかしら?」
「う、うん。結構、ね」
「風が心地良い、素敵な場所ですね」
森の話をして、木の実の話をして、薪拾いの話をして。
危ない枝を避けるみたいな、当たり障りのない会話。
なのに――「あなたに関心がある」ってことだけは、ちゃんと伝わってくる。
言葉の選び方も、間の取り方も、表情も。
隣のアリアは、というと。
……最初は分かりやすくぎこちなかった。
俺の斜め後ろを歩くミーナが話しかけるたび、返事が半拍遅れる。笑っても、ちょっと固い。
アリアは、やきもちは妬いても悪意まで行くことはまずない。
根が単純で、できるだけ良い方に捉えようとする。
だから、相手の方から歩み寄られると少しずつ“らしさ”が戻ってくる。
モヤモヤを引きずらない――と言うと違う。
引きずりたくないから、明るさで上書きしようとするんだ。
今日は、まだその途中だった。
「結構、道がしっかりしてるのね」
「みんな木の実拾いとか薪拾いでしょっちゅう入るし、キノコも採るから」
ミーナがアリアに投げる言葉は、確かに他愛もない。
森の道、木の種類、落ちている枝、川の音。
でも“他愛もない”って、実は一番難しい。
潜り込みすぎず、でも距離を詰める。
嫌われない角度で相手の輪郭だけをなぞる。
ミーナはそれを自然にやっている。
そして、ユリさんがさりげなくそれを補ってくる。
「キノコには有毒で見分けがつきにくいものも多いと聞きますが、大丈夫なのですか?」
「食べていいのはこれって決められてるの。あと、大体同じ木から採ってるから」
アリアの声はまだ少し硬い。明るく言おうとしてるのが分かる。
「……キノコ、バターで炒めると美味しいんだよねぇ!」
でも食べ物の話になると、アリアはすぐ調子を取り戻す。強い。食欲は強い。
「あ、でも熱々のやつ触ると痛いから気をつけて」
自分で言って、自分で「ううっ」て顔をした。
熱々のバターで痛い目に遭った記憶がちゃんと残ってるらしい。良かった。成長してる。
ミーナが驚いたように目を丸くして、それから小さく笑った。
「……あなた、そういう失敗をするのね」
「するよ! するに決まってるじゃん。だって美味しそうだったもん!」
その返しが、アリアらしい。言い訳が潔くて、変に格好つけない。
ミーナは茶化さずに頷く。
「そう。冷めた食事って味気ないものね……今度試してみようかしら」
俺もアリアも一瞬だけ固まった。
後ろでユリさんがクスリと笑う。
「では、私もご一緒に」
アリアは頬を掻いて、誤魔化すみたいに笑った。
「えへへ。きっと美味しいよ!」
――あ、戻ってきた。
その瞬間、ユリさんがほんの少し息を吐いた。
安心したみたいな呼吸で、タイミングが俺と同じだった。
森の道は緩やかに下って、湿った空気が少し濃くなる。
土の色が黒くなり、苔が増えて、靴の裏がふわっと沈む。
そこで、ふと思う。
俺、何を勝手に「イベントキャラ」とか「控え枠」とか思ってたんだろうな。
もし俺が誰かにそんなふうに見られてたら、たぶんムカつく。……いや、呆れる。
そもそも、当て馬とか噛ませ犬とか、そういう発想自体がバカだった。
関係って、そんな雑に剥がれるもんじゃない。
少なくとも俺たちが積み上げてきたのは、もっと泥くさくて面倒で、でも確かなやつだ。
隣の家で、畑で、川で、冬の薪割りで、夏の草むしりで。
何回くだらない喧嘩をして、何回仲直りして、何回笑って、何回ムッとしたか。
それが簡単に崩されるって思ってるなら――
俺は、アリアとの関係をその程度のものだと見てるってことになる。
(……最低かよ)
落ち葉を踏む。乾いた音。森の匂いが濃くなる。
ここは“ゲームの森”じゃない。
俺たちが生きてる森だ。
俺はずっと、勝手に「イベント」を探していた。
主人公、仲間、外れ、選ばれる、選ばれない。分岐、フラグ、強制力。
でも今ここには、選択肢なんて浮かんでない。
ミーナが怪しい勧誘をしてくることなんてない。ユリさんが誘導してるようにも見えない。
アリアも俺を置いてどこかへ行く気なんて、今のところ全く無い筈だ。
……それなのに、俺だけが頭の中で勝手に戦っていた。
大事な言葉ってのはある。言ったら戻れない言葉も。
でもそういう瞬間って、空から突然降ってきた選択肢じゃなくて。
普段の積み重ねの上に、乗っかってきて、選択を迫ってくるんだと思う。
川の流れみたいに、その当たり前がゆっくり俺の中を通っていった。
「ねえ、カイル」
ミーナの声が近い。
振り返ると、ミーナは歩きながら木の幹に指先を軽く当てていた。
木肌の苔の感触を確かめるみたいに指先が動く。
「この村の人って、森を怖がらないの?」
「怖がるよ。夜は入らない。イノシシとか出るし、狼の遠吠えが聞こえてくることもある」
「じゃあ、昼だけ?」
「昼でも、あんまり奥は行かない。行くとしても大人と一緒だな。迷うし」
俺が答えると、ミーナの視線がまたアリアへ移る。
「アリアはよく来るの?」
「うん、来るよ。えっと……カイルと来たり、みんなで来たり」
アリアの返事は、最初に比べてだいぶ自然になっていた。
「でも……森って、虫が多いんだよね」
アリアがぼそっと言う。
ミーナが少しだけ目を細める。
「虫、苦手?」
「えっと、蜘蛛は……ちょっと」
言い方は控えめなのに、顔が分かりやすく嫌そうで笑った。
実際はちょっとどころじゃない。
蜘蛛の巣に顔を突っ込むとパニックになるくらいは嫌がる。
「私も、あまり得意ではないです」
ユリさんがさらっと言った。意外だった。
アリアが少し驚いた顔になる。
「え、ユリさんも?」
「はい。……いても害にはなりませんが、進んで触りたいとは思いません」
「それ、全然珍しくないと思うよ。普通だって」
俺が突っ込むと、ユリさんは困ったように笑った。
「そうですね。そうかもしれません」
ミーナは何も言わない。
でもユリさんのことをちゃんと見ている気配がする。
……ああ、そうか。
この二人、やっぱり“コンビ”なんだな。お嬢様と侍女、って見え方は間違ってない。
だけどそれだけじゃない。
もっと互いを頼ってる感じで、一緒にいるのが自然って感じで。
――俺とアリアみたいに。
俺はようやく、二人のことを「イベントキャラじゃない個人」として見られた気がした。
勇者の追っかけだの、仲間になれなかった控えキャラだの、全部俺の妄想だ。
旅先で友達ができたからって、相手の暮らしを捨てさせてまで連れていこうなんて――普通は思わない。
……思わない。
そこで、遅れて“現実”が落ちてくる。
この世界で「魔族」って言葉は、たぶん俺が思ってるより重い。
子どもの頃から聞かされる昔話。夜に来るやつ、人を浚うやつ、村を焼くやつ。
そして前世と違って、この世界ではそれが「お話」じゃなくて、歴史で、現実だ。
勇者や聖女が尊敬される理由も、神様の加護が特別な理由も。
あのとんでもないレベルも――それだけ“敵”を倒してきたからだ。
その敵の中には、きっと魔族がいた。
――そんな立場の二人が、正体を隠して村にいる。
それって、相当な覚悟が要るんじゃないか。
ミーナがアリアに興味を示しながらも、腰が引けてる理由が分かった気がした。
もし、バレたら。
きっと今みたいにはいられない。
アリアが二人を魔族だと知った時。
二人が魔族だと知られた時。
それぞれがどんな顔をするのかなんて――できれば、見たくないと思ってしまった。
※※※※※
小川が見えてきた。水は細いが澄んでいて、石の間を滑るみたいに流れている。
岸辺の低い茂みに、赤い木苺が点々とぶら下がっていた。
「ほら、あそこ」
俺が指を差すと、アリアが小走りになりかけて――途中で我慢したみたいに速度を落とした。
さっきまでのぎこちなさが、まだ残ってる。
でもそれも、すぐに消えた。食欲は偉大だ。特に甘味は最強。
「わぁ……!」
アリアの声が弾む。
これだ。これが“本来の明るさ”だ。
「木苺、いっぱいある!」
「今ちょうど時期なんだ。鳥に取られる前に取っとけ」
俺が言うと、アリアは真面目な顔で頷いて、すぐにしゃがみ込んだ。
「ミーナちゃんも、ユリさんも、これ甘いよ! ほら、こっちのが赤い!」
“ちゃん”が自然に出た。
アリアの距離の詰め方は、やっぱりこれだ。警戒が溶ける瞬間。
ミーナは少しだけ躊躇ってから、しゃがんだ。
服の裾が汚れるのを気にしてる……というより、しゃがむこと自体に慣れてない感じ。
アリアがさっと手を伸ばして葉を押さえる。
「ここ掴むとトゲ痛いから、こうやって……」
「……ありがとう」
ミーナが小さく言う。
その「ありがとう」が、妙に真っ直ぐだった。
礼儀としての礼じゃなくて、ちゃんと言葉と気持ちを受け取った感じ。
俺はそれを見て、胸の奥がふっと軽くなる。
あるのは、木苺が赤いこと。小川が冷たいこと。
誰かが「ありがとう」って言って、誰かが笑うこと。
それだけだ。
ミーナは木苺を指先でつまんで、光に透かすみたいに見ている。
赤い実が、白い指に乗るとやけに目立つ。
「……甘い」
ミーナが口に入れて、ぽつりと言った。
感想は薄いのに、目だけがほんの少し緩んでる。
アリアがそれを見て、得意げに胸を張った。
「でしょ! これ、村の子どもたちみんな好きなんだ!」
――ああ、もう完全に戻ってるな。
小川の水面がきらっと光って、風で草が揺れる。
遠くで鳥が鳴いて、森の音が全部、柔らかくなる。
俺は木苺を一つ摘んで、口に放り込む。
酸っぱい。指先が少し赤くなる。
「すっぱ……」
俺が息を吐くと、アリアが木苺を摘んだ手で俺に一つ差し出してきた。
「あはは、カイル、はずれだ! はい。これ、絶対甘いから!」
「お、ありがと」
一噛み。
「すっぱ!」
「なら、これを試してみて」
今度はミーナが差し出してくる。
前世の記憶が蘇る前の、子どもの頃の俺の記憶が「魔族の触ったものなんて」って騒いだ。
けど、構わず食べた。果肉が潰れて果汁が舌先に触れて。
「すっっぱっ!!」
「……そんなに?」
ミーナは訝し気な顔をして、自らも同じ枝から一粒もいで食べた。
「っ……すっぱ……」
眉間に皺の寄った、なんとも言えない顔。
たぶん、俺と似たような表情。
「どれどれ! わたしも! わたしも――……すっっっぱぁっ! あはははっ」
アリアも真似して、同じように顔をしかめてから大笑いした。
ユリさんは二人をにこにこと眺めながら、別の枝から実をもいで俺たちに差し出してくる。
「お口直しにどうぞ。こちらはちゃんと甘かったですよ」
「ほんとだ、甘ぁい! ユリさん、選ぶのも上手!」
アリアが褒めると、なぜか本人ではなくミーナが得意げな顔をした。
その「ユリのことは私が一番わかってる」みたいな表情が、妙に人間くさくて。
俺は、少しだけ笑ってしまった。
二人は魔族で、なんで勇者の後を追ってるのか本当のところは分からない。
でも、正体が露見する恐れを抱きながら、旅先の出会いを楽しむゆとりもある。
それはたぶん、信頼する相手が隣にいるからこその強さだと思う。
だったら、今はそれを存分に楽しんでいってもらおう。
二人がこの村を立った後も、村の日常は続いていく。
――そして俺は、その日常の中で、逃げずに一歩進めるつもりだ。
またいつか、二人がこの村を訪ねてきたら、その時こそ見せてやろう。
俺たちコンビだって負けちゃいないってことを。




