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魔界サイド⑤:”不肖の魔王女”ヘルミーナ、禁忌に挑む

 ――魔王城、離宮の一室。


 分厚い絨毯と重い天蓋が、ここが「王族の部屋」であることだけを主張している。

 けれど実態は、空位の玉座が魔界全体に重たい沈黙を生み出す“前”から、権力とは無縁の空虚な場所だった。


「――で。結局」


 ソファに沈んだ魔族の少女が、眉間を指で押さえたまま言った。


 長く艶やかな黒髪、紅玉の瞳。額の双角はまだ発育途中で、顔立ちにも幼さが残る。

 彼女の名は、ヘルミーナ・アストラ・ヴァルグレイド。


「お父様は、人間界の“村娘”のレベルを測ろうとして……死んだ。で、話は終わり?」


 ヘルミーナは三年前に崩御した大魔王ヴァルグレイドの息女のひとり――「魔王女」と呼ばれる立場だ。だが、呼ばれ方のわりに王城での存在感は薄い。


 ヘルミーナのレベルは九十九。正規兵の足切りの線にすら届かない。

 魔界の序列は血ではなくレベルがものを言う。

 血統がどうあれ「弱い」の一言で片づけられてしまう。


 ヘルミーナは鍛錬と研鑽を重ねた。

 それでも、レベル九十九という数値が彼女の限界だった。

 そして父王ヴァルグレイドは、この“不肖の魔王女”から静かに関心を引き剝がしていった。


 ヘルミーナはテーブルの上の書類束をひっ掴み、投げ捨てるように置いた。


「へ、ヘルミーナ様……」


 向かいで姿勢を正す侍女ユリアーナが、喉を鳴らした。

 その書類は、父の死の真相に関する調査報告書の写しだ。ユリアーナが実家の伝手でかき集めてきたものだった。


 紙の上には、前代未聞の死因が整然と並んでいる。


 ――解析魔法の反響による魔力核の崩壊。

 ――対象のレベルは約一億と想定。

 ――反響魔力は対象レベルの一万分の一程度。

 ――反響魔力が大魔王の魔力核の波長と共鳴し、位相の反転を招いて自己崩壊。


 言葉だけは、いかにも“説明”の顔をしている。だが読めば読むほど、説明になっていない。


 対象のレベルは最初は百万、次は一千万、最後は一億。

 増え方があまりにも乱暴だ。積み上げた理論ではなく、結論に追いつくために数字を膨らませているだけ――そんな臭いがする。


 要するに、大魔王を“余波”で殺す怪物など、誰も相手にしたくないのだ。


「挙句、解析魔法の禁止と、人間界への渡界の禁止。破った者は問答無用で処罰、ね」


 ヘルミーナは、律令の書かれた紙を掴むと、くしゃりと握り潰して放り投げた。


「魔界は人間界の村娘“アリア・メイスン”に、戦う前から敗北。全面降伏――って、そう書けばいいじゃない」


「へ、ヘルミーナ様!? い、いけませんっ! その名を口にしては……っ!」


 ユリアーナが身を乗り出し、悲鳴のような声をあげた。


 その瞬間、燭台の炎が一度だけ沈んだ。

 風はない。窓も閉まっている。なのに、部屋の空気が薄くなるような錯覚が走る。


「……禁忌の名、でしょ」


 ヘルミーナは平然と――平然を装って言い、塗り潰しの箇所を指でトントンと叩いた。


「呼んだ。けど私は死んでない。……滑稽よ。名前を口にしただけで“知られて殺されるかもしれない”から禁止、って。魔界の律が、村娘ひとりの機嫌伺いで出来上がるなんて」


「そ、それは……」


「私はレベル九十九。一億なんて怪物からすれば砂粒以下。お父様の百分の一にも満たない。……そんな私が口にした程度で気付かれるなら、とっくに魔界は滅んでるわ」


 自嘲混じりの言葉に、ユリアーナが押し黙る。


 彼女もまたレベルの低さゆえに蔑まれ、“不肖の魔王女”に侍女として押し付けられた身だ。

 冷遇され、父王の死の真相すら知らされない主のために――ユリアーナはあの写しを持ち込んだ。


 ヘルミーナのこの態度は、諦観と開き直りだ。

 ユリアーナは主の気質を知っているからこそ、声を落として諌める。


「……気付かれる、気付かれないの問題ではございません。禁は“こちら”の秩序のために敷かれております。破れば――」


「厳罰?」


 ヘルミーナは笑った。笑いは軽いのに、瞳は冷えている。


「厳罰って、誰が私を罰するの? 皆、震えて穴倉にいるのに」


 ユリアーナは言い返せなかった。

 言い返せないというより――言い返したくない。


 報告書も律令も、不自然を通り越して異常だった。

 それでもユリアーナがあえて見せたのは、開き直りでも構わないから、主の現状を変えたかったからだ。


 大魔王が崩御し、今は政情の混乱で放置されている。だがいずれ、名目だけの婚姻で血だけが利用される。避けようがない。

 この魔界では、レベルが低いということは、生き方を選ぶ余地が少ないということなのだ。ユリアーナも同じ絶望を抱いている。


※※※※※


「――よし。決めた」


 ヘルミーナがソファから身を起こし、立ち上がる。目の奥の赤が、燭の炎のように揺れた。


「人間界へ行くわ」


 ユリアーナが息を呑む。これは薬が効きすぎた。


「い、いけません、そ、それに渡界禁止の律令が……!」


「誰が私を止めるの?」


 即答だった。


 私に逆らえる者はいない、という強弁ではない。むしろその逆。


 王城の誰も、ヘルミーナを“重要案件”として扱っていない。

 だから監視も薄い。皮肉なほどに、それが自由を生む。


「お父様が頓挫した侵攻を、この私がやってやろうじゃない。……まあ、攻め入るわけじゃないけど」


「人間界に行って、何を……」


「アリア・メイスンに会ってくる。本当に怪物なのか。魔界を滅ぼす気があるのか。確かめる」


「ご、ご無理を仰らないでください! 危険すぎますっ!!」


 ユリアーナは今度こそ言い返した。

 これは口を出さずにいられない。開き直りが、無謀へ育ってしまった。自分が焚き付けたせいで。


「その危険の大元を放置してる方がよっぽど危険じゃない?」


 ヘルミーナは吐き捨てるように言った。


「そいつの気まぐれでいつ滅ぼされるか分からないまま、穴倉の奥で震えてるのが魔族? 笑えないわ」


 魔界の空気が三年前から凍り付いているのは、寒さのせいではない。

 誰もが、何かに触れたくないのだ。触れた瞬間、父のように“いなくなる”かもしれないから。


 この三年、国体が瓦解していないのが不思議なほど、魔界全土が萎縮している。

 史上最強の大魔王の突然の死を、誰も受け入れられずにいた。


 死んだのは大魔王ではなく、レベルという概念そのものなのかもしれない。


「ヘルミーナ様……」


 ユリアーナはもう止める言葉が、足りない。

 見誤っていた。これは開き直りではない。


 魔族の矜恃だ。


 レベルは及ばずとも、彼女は大魔王の息女――魔王女としての誇りで、強大な怪物に向き合う最初の一人になろうとしている。


「もし、もし本当に、その村娘が……“触れただけで消えるもの”なら」


「その時はそうなる前に引くわ」


 ヘルミーナはあっさり言った。


「魔界ごと滅ぶのも御免。復讐したいわけでも、宣戦布告に行くわけでもない。これは外交よ」


 現実的だ。現実的な言葉が、逆にユリアーナを黙らせる。


 ヘルミーナは窓際へ行った。離宮の窓から見える王城は、巨大な墓標みたいに黒い。

 かつて歓声が満ちた回廊が、いまは呼吸だけを繰り返す洞穴に見える。


「手を貸して、ユリ」


「……何を、どこまで」


「人間に化ける。仮の身分を作る。地図を用意する。言葉遣いを詰める。……あとは」


 ヘルミーナは振り返り、ユリアーナを見た。

 紅玉の瞳に挑戦的な輝き。その奥に、隠しようのない不安と恐れがあることを、ユリアーナは見落とさない。

 それを見て、気付いてしまったからには、もう。


「あなたの“伝手”が必要だわ」


 ユリアーナの肩が、ほんの少しだけ震えた。怖い。

 だが、怖い以上に――主をこのまま放っておけない。


「かしこまりました」


 その返事は、忠誠というより共犯の響きだった。


 魔王女の口元が、ほんの少し引きつった笑みの形に歪む。

 長く蔑ろにされた者の笑み。再起の機会を、ずっと待ち続けてきた者の。


「準備を整えて。まずは――人間界の状況を探るところから」


 命令に、ユリアーナは頭を垂れた。


 大魔王の不肖の娘、ヘルミーナ。

 数多の魔族から軽んじられてきた魔王女が、レベル一億の怪物と相対することを決意したのだった。

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