魔界サイド④:禁忌の怪物、推定レベル約一億
魔界の王城。黒曜の玉座の間は、三年前からずっと凍りついた湖面のように静かだった。
声を落とせば氷が鳴り、息を強くすれば亀裂が走る、そんな錯覚を抱くほどの静寂。
亀裂が生じた先からは、底の底で待つ“何か”が覗き返してくる。
そんな予感が、訪れた者たちの背骨に棘として刺さり続けている。
かつてここは、大魔王ヴァルグレイドが名だたる魔王・魔将を従え、魔界史上初の統一王朝を打ち立てた場所だった。
大魔王ヴァルグレイド。
レベル九千九百九十九という、前人未踏という言葉すら生ぬるい、絶対の数値を持つ覇者。
彼の登場により、魔界は力による秩序の頂点を知った。
今、この大広間に残るのは墓標だけだ。
玉座は空だ。空席ではない。空洞だ。
“あそこに座っていた”という事実そのものが、形を失ってもなお棘として残り、近づく者に怖れを抱かせる。
誰も、玉座へ近寄りたがらない。
誰も、あの日を語りたがらない。
三年前。魔界統一を果たした大魔王は、人間界と天界への侵攻計画を全土に布告した。
大魔王を筆頭に、千や二千を超える魔王たち。レベル百を超える兵士からなる千万の軍勢。
三界大戦――かつての魔族の無計画・無秩序・自滅の代名詞――を、今度こそ“夢物語”で終わらせない。
あの時までは誰もが、そう確信していた。
だが侵攻の直前、大魔王は崩御した。
“戦死”でも“暗殺”でもない。もっと滑稽で、もっと恐ろしい、説明しようのない消え方で。
その死に様を見た魔王たちは、いっせいに領地へ引き返し、城門を閉ざし、口を閉ざした。
空位の玉座を狙って、序列も道理も弁えぬ愚か者が「我こそは」と声を上げることもあった。
その度に、沈黙していた魔王たちは一斉に動き、即座に叩き潰した。
忠義ゆえではない。新たな権力闘争の相手の出現を警戒してのことでもない。
ただ――騒がしいものを黙らせ、また穴へ戻って息を潜めただけだ。
それは強者の姿ではなかった。
飢えた凶獣をやり過ごすために穴倉へ身を押し込み、毛を逆立てて震える小鼠のようだった。
やがて魔王たちは、互いに示し合わせたかのように同じ文面の律令を公布した。
まるで、誰かに台本を渡された役者のように。
――解析魔法、使用禁止。
――人間界への渡界、禁止。
この律令には、公にされない“もう一行”がある。
――禁忌の名の口述、記述、思念投影、いずれも禁ず。
公には秘されたこの一行こそが、律令の核であり、最も重い戒めだった。
禁忌は知ってはいけない。
そして何よりも、禁忌に“知られる”ことこそが最も恐ろしい。
だからこそ、この一行は決して公に出来ないのだ。
解析魔法の禁止は、魔界の文化そのものを凍らせた。
魔族にとって「レベル」は、ただの数ではなくなっていた。
血統より確かで、武勲より公平で、誓約より残酷な世界の秤だ。
誰が上で、誰が下か。誰の声が通り、誰の刃が折られるか。
解析によって浮かぶ数字ひとつで、無意味な闘争は始まる前から終わる。
数字を見れば、相手の軍門に下るか、相手を上回る為に鍛錬や策略を練るかを選べる。
魔族はレベルという秤を得たことで、力による序列を求める本能を御してきた。
その秤を――見るなと禁じることの意味。
魔界は今、目隠しをされたまま暗い獣の檻に放り込まれたようなものだ。
互いの爪の長さが分からない。牙の鋭さが分からない。
分からないから笑えない。吠えられない。噛みつけない。
あいつは本当は俺よりレベルが高いのではないか。
手下の数とレベルはいくつだ、何人集めれば勝てる?
一度得た指標を封じられたことで、魔族は身動きが取れなくなってしまった。
※※※※※
ある魔王の城。下級魔族の書記官は、羊皮紙を握り潰しそうになりながら律令を書き写していた。
指先が震えるのは寒さではない。火鉢は赤々としている。
震えは、もっと内側から来る。
禁忌の名。
口にするな。
考えるな。
まして解析の光で“探す”な。
三年前のあの日。栄光の玉座の間から意味の分からない叫びが響いたこと。
九千九百九十九の頂が、砂の城のように崩れたこと。
そして自分の主が、追い立てられた野犬のような有様で領地へ逃げ戻ってきて、半狂乱に籠城を命じたこと。
書記官は噂と断片でしか知らない。
だが、この条文を見ると、皮膚の下がザワつくような怖気を覚えた。
背後で扉が静かに開いた。
入ってきたのは自分の上役だった。鎧ではなく儀礼用の黒衣。歩き方は刃物のように無駄がない。
「写しは終わったか」
「は、はい。すぐに……」
「余計な字は足すな。余計な線も引くな。余計な考えもするな」
上役は机上の写本を一瞥した。
禁忌の一行――公には布告されないその部分だけ、インクが乾ききらないように見えた。
文字の震え、インクの滲み、公文書としては失格だが、何も言わない。
この律令が発布され、実効力を得たとき、魔界はどうなってしまうか。
本能に支配された魔獣のように、互いを喰らい合う無秩序な時代に逆戻りするのではないか。
書記官は堪えきれず、声を落とす。
「……なぜ、なのですか」
自分の声が、自分のものに聞こえない。
知りたい。知りたいが、知った瞬間に終わる気がする。
上役はまばたきひとつせず、書記官を見下ろした。
「理由を知りたいのか」
「い、いえ……ただ……」
言葉が続かない。
上役は吐息ひとつ分だけ声を落とした。
「知らなくていい。知るな。知ったところで、何もできない」
その言い切り方が恐ろしかった。
“できない”と言い切るのは弱者の言葉ではない。強者が、強者としての結論を捨てた声だ。
「……魔王様方は……怯えているのですか」
言ってから、胃がひゅっと縮む。
禁句に触れた気がした。
上役の瞳が薄く細まる。
その二文字を反芻するだけで、空気が冷える。火鉢の赤が遠のく。
「怯えではない」
上役はゆっくり首を振った。
「理解したのだ」
理解。
九千九百九十九が“無意味になった”ということを。
そう、あの日、あの場にいた魔王たちは――大魔王が解析魔法の光で“覗いた”何かの、照り返しを恐れて逃げ出した。
だが彼らとて、レベル千、二千を超える魔王だ。無能でも無策でもない。
彼らは大魔王が行った解析魔法の残滓を掘り起こし、砕け散った核の痕跡から、間接的に“向こう側”の規模を割り出そうとした。
そして――ある数値に行き着いた。
999,999
ありえない、と断じられ、分析を担当した魔導師は処刑された。
複数人の検証班が組まれ、一年かけて再計算が行われた。
9,999,999
主任魔導師は発狂し、更迭された。
さらに一年。あの場にいた魔王自身が加わり、痕跡の読み取りからやり直した。
99,999,999
約一億。
九千九百九十九の覇者の、万倍。
その瞬間、彼らは理解した。
秤は壊れたのではない。――秤ごと、掌で握り潰せる“規格外”が在るのだと。
「秤を信じていた者ほど、秤が壊れた時に立っていられない」
上役は淡々と言う。
「今の魔界は、息を潜めねばならない時なのだ。刺激するな。探すな。呼ぶな。思い出すな」
「……刺激、とは」
唇が震える。
上役は答えない。答えないまま、写本の禁忌の一行へ指を置いた。
紙の上を押さえるというより、紙の向こう側――“ここではない何処か”を押さえ込むような仕草だった。
「解析は、光だ」
上役はようやく言った。
「光は闇を照らす。闇は、照らされたことに気づく」
背筋に冷たいものが走る。
闇が――気づく。
誰も見ていないと思っていたのに、見られている。
こちらが見ようとした瞬間、向こうもこちらを見る。
上役は写本を持ち上げ、黒衣の裾を翻して出ていく。
「明日、全領に配れ。違反者が出たら――」
言いかけて、上役は一瞬だけ言葉を切った。
その“間”が、何より雄弁だった。
「――見せしめにする。例外はない」
扉が閉まる。
書記官は、ひとり火鉢の前に取り残される。
薪が爆ぜた。
炎の音ではない。骨が折れる音に聞こえた。
この三年、魔界に新しい戦争は起きていない。
侵攻もない。反乱もない。玉座争いもない。
理由は単純だ。
“世界の外側にいる何か”が、魔界の秩序を握り潰せると知ってしまったから。
その何かの名を、呼んではいけない。
呼べば、口がその形になった瞬間に位置を教える。
解析すれば、探した光が向こうを照らす前に、こちらが照らされる。
だから禁ず。
禁じて沈む。
沈んで呼吸する。
凍りついた王城で、魔族たちは今日も息を潜める。
生き延びることだけを選び、誰も知らないふりをする。
――禁忌の名の正体が、人間界の、辺境の村の、少女のものだということを。




