エルナ村のハンナ:フローレンス商店のとある一日
雑貨屋フローレンス商店のカウンターで、磨き終えたカップの縁を親指でなぞりながら、ハンナはふとカイルの顔を思い浮かべた。
店は今日もいつも通りだ。
砂糖壺の蓋はきちんと閉まっている。塩の袋は湿気ないよう上段へ。
針や小刀は子どもの手が届かない場所。
保存の効く木の実は殻のまま麻袋に詰めて、乾燥薬草は香りが混ざらないよう油紙で仕切る。
そういう“当たり前”を積み上げていく作業が、村の一日をつくる。
朝は卵が減る。昼には灯芯が短くなる。夕方には鍋の底が焦げる。
一番鶏が鳴き、夕暮れと一緒に羊が列を作り、今日もちゃんと腹が減るのだ。
勇者が来て、去って、村がほんの少しだけ騒がしくなって――それでも、その翌日には結局、同じように塩は要るし、布は擦り切れる。
カウンターの端に置いた帳簿をめくると、午前の売り上げの欄に細い字が並ぶ。
針二束。灯芯一本。干し肉少々。塩一袋。
“勇者様が去った次の日”でも、買い物はあって、硬貨が積み上がり在庫は減る。
そんな日常の中で、あの子は、ある時期から急に変わった――ような気がする。
背が伸びたとか、声変わりしたとか、そういう分かりやすい変化じゃない。
物の見方が妙に地に足ついている。十歳にしては、早く諦めを覚えたみたいな落ち着きがある。
(あたしが十歳のときなんて、もっとどうしようもなかったわよね)
思わず苦笑が漏れる。
あのころの自分は、村に偶然来た勇者や賢者に「こ、これは……!」なんて言われて才能を見出されて旅に出る――そんな話を、本気で夢見ていた。
十五になるころには、それが全部ただの夢だと嫌というほど思い知らされて、今度は街に夢を見て、向こう見ずに飛び出した。
結果は、まあ、目も当てられない。
どうしようもない男に引っかかって、青春をきれいに棒に振って、尻尾を巻いて戻ってきた。
借金や病気を持ち帰らずに済んだのが、せめてもの慰めだ。
だから今は、客の顔色が読める。品物の減り方で家の事情が透けるのも分かる。
夢の形をした焦りや油断が、どんなふうに人を転ばせるのかも。
(そういう“現実を見る目”を、カイルはもう持ってる気がするのよね)
子どもらしくない、と言えばそうだ。
それが良いか悪いかは、きっとこの先――どう生きるかで決まる。
ときどきカイルの目は、「諦め」を知っている目をする。
十歳が知っていていい種類のそれじゃない。
親とうまくいってないのかと勘ぐったこともある。
誰かにひどい目に遭わされたのかと、こっそり気にしたこともある。
けれど、様子を見ている限り、カイルの家はごく普通だ。
父親も母親もきちんとしている。アリアの家とも家族ぐるみの付き合いがあるから、何かあればそれとなく耳に入るはずだ。
何もない。
なのにカイルだけが妙に大人びている。
昨日の午前だってそうだった。
納品の干し果物の数を数えさせたら、包みの数と重さから、だいたいの総数を言い当ててきた
店番を任せてみれば釣り銭を渡すのも早い。しかも、間違えない。
天才ってほどじゃない。ひらめきで世界をひっくり返すタイプでもない。
ただ、堅実で、用心深くて、失敗しないように先に手を打つ——そういう“転ばない歩き方”を知っている。
ちぐはぐで、少し浮いていて。
本人もそれを気にしているのが見えるから、なおさらややこしい。
前に出ない。けど、必要なときには出る。出たあとで、半歩引く。
(でも、悪い子じゃないのよね)
村の子どもを現金に慣れさせるために採算度外視でやっている、木の実や木苺の買い取り。
大抵の子どもは得た小遣いを速攻で玩具や菓子、小物に消費する。
それでいい。そうやって金のありがたみや、稼ぐことの意味を知っていけばいい。
昼下がり、木の実の入った小袋を抱えてきた子どもたちが、カウンターの前で背伸びをする。
ハンナは重さを量って、殻の割れ具合を見て、硬貨を二枚、三枚と並べる。
硬貨が木に当たる音は、子どもにとっては小さな願いが叶う音だ。
一方、カイルはと言えば――稼ぎは良い。そして、全く使わない。
買い食いもしない。余計な小物も買わない。欲しがらない。欲しがる顔をしない。
村の商いは硬貨が巡ってこそなのだが、カイルに渡した硬貨は帰ってこない。
引き出しの奥で眠ったままの硬貨は、パンにもワインにもならないと言うのに。
”もしも”の為にとっておきたいのだろうが、釣銭や買い取り用の硬貨が乏しくなる一方だ。
※※※※※
ため息まじりにカップをひとつ置くと、木のカウンターに小さな音がした。
その音が静かな店内に吸い込まれていくのを聞きながら、ハンナは次にアリアを思い浮かべる。
一方のアリアは――分かりやすい。
とにかく分かりやすい。
うれしかったら飛び跳ねる。悲しかったら顔をくしゃっとさせてすぐ泣く。
怒ったら頬をふくらませるけど、ちょっとなだめればすぐ機嫌が直る。
村が好きで、家族が大事で。
勇者の話を聞けば胸をときめかせるだけの余白もちゃんと持っている。
夢見がちで、でも現実もちゃんと好きで――年相応で、まっとうな、いい女の子だ。
そこにカイルがいる。
物心つく前から一緒に育って、兄妹みたいにいつも隣にいて。
でも、もう“兄妹みたい”だけでは収まらない線が、二人の間に薄く引かれ始めている。
言葉にしないぶん、余計に分かりやすい線だ。
カイルの方もアリアを大事にしているのは見ていれば分かる。
距離を取ろうとしているようで、結局取り切れない。
あれだけまっすぐ好意をぶつけられて、完全に突き放せる子の方が珍しい。
(……バランスは、悪くないのよね)
アリアがふわっと浮き上がりそうになると、カイルが無意識に地面側へ引き戻しているような。
逆に、カイルが地面に貼り付きすぎるときには、アリアが「もっと上」を見せているような。
ちょうどいい揺れ方をしている。
危なっかしいのに、崩れそうで崩れない。
見ている大人が、つい手を出したくなる種類の、ぎりぎり。
使い終えた布巾をカウンターに置いて、ハンナは背筋を伸ばした。
外では、誰かが桶を運ぶ足音。鶏が一声。道の先で子どもが笑う声。
村の音はいつも、生活の音だ。
勇者たちが村に来たとき。
仲間の女たち――レイア、フレデリカ、リィエを見たときは、自分だって胸がざわついた。
若く、美しく、才能にあふれていて、ちゃんと自分の役目を背負って旅をしている女たち。
実力と実績を兼ね備えながら驕ったところがない、きれいな強さ。
アリアが憧れるのも無理はない。
でも、そこに至るまでにどれだけのものを捨ててきたのか。
どれだけのものを諦めてきたのか。
それを想像してしまう年齢になっている自分からすると――
村の中で「カイルはああいう人たちがいいのかな」なんて一人で勝手に嫉妬して、ミントティーを飲みながらうじうじ悩んでいられるアリアの方が、よっぽど贅沢な場所にいる。
(羨ましい、なんて言ったら、あの子、むっとするでしょうけど)
「子ども扱いしないで」と口を尖らせながら、
まだちゃんと“子どもでいられる”時間。
それは一度手放したらもう二度と取り戻せない貴重なもので、かけがえのない宝物だ。
誰かのことを考えて、勝手に不安になって。
勇者に取られるんじゃないかってひとりで悩んで。
でも結局、村の入り口で同じように見送って、同じ道を並んで歩いて帰る。
その当たり前を守ろうとしているカイルの“枯れ方”は、嫌いじゃない。
無理に夢へ飛び込ませない。けれど夢を笑いもしない。
あの子は、守るべきものの大きさだけは、もう知っている。
ともすれば、自分と同じ目線で見ているように思うことがあることがある。
「……やっぱり、あの二人、似合ってるのよね」
ぽつりとこぼした自分の言葉に、自分で苦笑する。
大人は、大人の位置からしか物を見られない。
昔に戻ることもできないし、今のあの子たちの位置に割り込むこともできない。
(見守るしか、できないんだけどね)
このカウンターは、村と外の世界の境目みたいな場所だ。
塩と針と、旅人の噂話と、子どもの悩みが、同じ木の上に並ぶ。
ここを通って旅人は出ていき、子どもたちは少しずつ大きくなっていく。
そのたびにハンナは、胸のどこかをきゅっと締め付けられながらも、笑って送り出すしかない。
羨ましさも、寂しさも、全部ひっくるめて。
カラン、とドアベルが鳴った。
あのベルは街から持ち帰ってきた唯一の品で、鳴るたびに感傷と落ち着きを同時に呼び起こす。
次に扉を開けるのが、アリアか、カイルか、まったく別の誰かかは分からない。
それでもハンナは、いつも通りに声を作る。
「いらっしゃい――」
声をかけ、笑みを向ける。
相手の顔を見て、カップをもう一つ、棚から取った。
相談事を抱えて来たなら、飲み物の選択が大事だ。
ついでに一品多く買ってもらうには、茶飲み話と相槌が役に立つ。
フローレンス商店の一日は、こうやって続いていく。




