囚われた邪霊:誰も知らない終焉
――今代の聖女、フレデリカ・マルヴィナ・オルブライトがその務めを果たしに来る、ひと月前。
森の最奥。
神聖な空気が漂い、人も獣も無意識に近付こうとしない場所に、ひっそりと石碑が立っている。
神々が刻んだ封印陣が、そこに「ソレ」を縫い付けていた。
かつて天座に列なる神々のひと柱であったもの。
法と秩序を司る、と自らを称していたもの。
いずれは他の神々すら従え、この三界をひとつの意志の下に統べる――そのはずだった。
現実は違った。
穏健を気取る臆病者どもが、裏で手を組んだ。
「均衡が崩れる」「三界の調和が乱れる」――そして、あの薄ら寒い言い草。
「推しへの過干渉は解釈不一致」
耳障りの良い言葉を並べ立てた末に、ソレは「邪霊」と呼ばれ、人間界の片隅へと封じられた。
月と星の巡り。宙に描かれる天体の軌跡を鎖とし、光がそれを結んで網を成し、風と大地が包み込み、織り、畳む。
編み出した神々にすら解けぬ強固な封印が、ソレを囚える牢獄とされた。
永い、永い時間だった。
最初の数千年は、暴れた。
封印陣を叩き、神名を呪い、天座を呪い、生きとし生けるもの全てを呪った。
だが、封印には傷ひとつつけられなかった。
次の数千年は、数えた。
継ぎ目、力の流れ、わずかな揺らぎ。
指先ほどの隙もないかと、ただひたすらに。
その次の数千年は――考えた。
(支配など、もはやどうでもよい)
三界の頂点に立つ栄光など、今となっては色褪せた夢だ。
欲するものは、ひとつだけ。
(滅ぼす。神も、人も、魔も――この世界に蠢く全てを)
決して破れぬ封印ならば、すり抜ければいい。
強固な網、鎖にも、ほんの僅かな隙間がある。
数十年――神々にとっては瞬きに等しい一瞬。星辰がもたらす網目のわずかな綻びを、執念だけで探り当てた。
そしてソレは、狂気でしか為せないことを実行に移した。
己という存在を細かく砕き、薄く伸ばし、封印の綻びから外へ滲ませる。
それに、更に数千年を費やした。
削れる。変質する。
激しい苦痛と恐怖は、妄執と憎悪で塗り潰した。
自らを羽虫以下に砕き、分ける行為は自死に等しい。
記憶と自我に、取り返しのつかない損傷と狂いが生じる。
それでも続けた。
やがて。
封印陣の外側へ、ごく、ごくわずか――ソレの「分体」が滲み出た。
(……出た)
(出た)
(壊せ)
(まだだ)
(探せ)
(探せ)
歓喜とも嗤いともつかぬ感情と、千々に裂かれた思考が、封印の内で泡立つように浮かび上がる。
広く、薄く。森の奥へ。根の隙間へ。土の粒の間へ。
霧のように、煤のように。冷たい意識が森へ広がっていく。
分体ひとつでは封印は壊せない。
肉体が要る。入れ物が要る。燃やし、喰らい、刻み潰すための「手」が。
神々の監視を避けるための「器」が。
そして、ソレは「音」を感じ取った。
笑い声。
子供の声だ。
森の入口。封印から見れば、ほんの少しだけ外へ開いた、小さな窓のような場所。
そこに、二つの命の灯りがあった。
一つは、少年。
まだ形の定まらぬ、柔らかな光。混じりけが多いが、そのぶん扱いは容易い。
もう一つは、少女――陽の気に満ちたまばゆい光。
(…………?)
分体が、わずかに“ためらう”。
人間の子供にしては、感触が妙な気がした。強い、というのとも違う。
強さの外側にある、何か。
力、感覚、意思、あらゆるものを削ぎ落したこの欠片の身では、推し量れない。
だが今のソレにとって重要なのは、扱いやすさではない。
(外から封印を壊すにも時が要る……)
卑小な人間を「器」として肉体を得た先。
強固な封印を外側から、侵し、崩すのは容易ではない。
それも、神々に気付かれぬよう事を運ぶ必要がある。
少しずつ分体を送り込み、動かせる「器」を増やすしかない。
それには、少女の方が相応しい。
子を成し、より相応しい「器」として胎の中で造り換えるのだ。
ねじれた執着、執念、狂気がソレを衝き動かす。
(よかろう)
(汝を器とする)
(献上せよ)
(明け渡せ)
(贄となれ)
邪霊の分体は、音もなく少女ににじり寄った。
木の実を拾い、笑い、転びそうになっては少年に支えられる――その背中へ。
柔らかな栗色の髪の隙間から、首筋から、影から、するりと入り込むつもりで。
――触れた、その瞬間。
世界が、裏返った。
冷たい土の感触も、封印の鎖の重みも、森の匂いも――一息で剥ぎ取られる。
(……???)
分からない、が成立しない。
触れたはずの「内側」は底なしだった。暗闇でも光でもない。高熱でも氷でもない。
“こちら側”の前提が、そこでは最初から噛み合っていない。
理は届かないのではなく――成立しない。
触れた箇所から、音もなく、ソレは崩れた。
呪詛も、妄執も、記憶も、神であったころの自負も。
封印を憎む意志も、神々を呪う言葉も――意味を結べない。
そして破滅は、広く薄く伸ばした分体だけに留まらない。
封印の中心に縛り付けられていた“核”とを結ぶ細い糸。
一続きの「存在」として繋がっていた全てが、一瞬で爆ぜた。
抗う暇は、なかった。
理解する暇も、なかった。
ただ、「ある」が「ない」に塗り替えられた。
それだけが、最期に起こった出来事だった。
石碑に刻まれた神々の封印は健在だ。
ただ、その中にはもう何者も残ってはいないことを――この先も、誰も知ることはないだろう。
森の入口では、少女がくしゃみをひとつして、鼻をこすった。
「どした?」
「ううん、なんか、くしゃみ出ただけ」
そう言って笑う声を、封印も、神々も、誰ひとり聞いてはいない。
「あ。ちょっと待ってろ、動くなよ」
「え?なに?なに? きゃあああ!く、蜘蛛っ!やーっ!!」
「バカ、こら、動くなって言ってんだろ、おい!」
森の中に賑やかな声が響き渡る。
それを聞くものは虫や鳥だけだ。
邪霊は、何が起きたのか理解することもなく。
誰に知られることもなく。
ただ世界から静かに、完全に、消えていた。
己を狂気に染め、世界を呪い続けることは、もうない。
それだけが僅かながらの救いと言えたかもしれない。
魔界の魔王たちが、天界の神々が、アリア・メイスンの存在を知り、人間界への干渉の中止を決めるのは――もう少し先のこと。
「……あ、悪い。潰れたわ」
「ひいっ!? か、カイルのばかーーーっ!!」




