勇者アルヴィン:平和な村の小さな同志
――勇者アルヴィン一行がエルナ村を出立する前日の夜。
神殿から要請された務めを果たし、村へ戻ったのは夕暮れ時だった。
森の匂いをまとったまま村長宅に上がり、客間に通される。
余計な物音ひとつない静けさに、ようやく肺の奥の力が抜けた気がした。
村長夫妻は、昨日と同じく離れの家屋へ移っていた。
家主が家を明け渡す必要などない、と何度も断ったが「どうしても」と譲られなかった。
警戒心や忌避感からではない。むしろ、信仰心からくる距離感だと分かっている。
僕とフレデリカは光の女神の加護を受けている。聖剣と奇跡がそれを証明してしまう。
だから僕は「勇者」と呼ばれ、彼女は「聖女」と呼ばれる。
いつの間にか、“一個人”ではなく、“役目の器”として扱われることが増えた。
信仰心に篤い土地ほど、その傾向は強い。畏れ敬われるのは仕方がない。
けれど同時に、会話の温度が一段下がる感覚もある。
……それも、加護を授かった者の定めだと割り切ってきた。
レイアとリィエもまた“加護持ち”だ。
だが、僕やフレデリカほど大々的に知られないよう、彼女たちは意図して伏せている。
名声は盾にもなるが、同じくらい枷にもなる。その枷の重さを、彼女たちはよく知っている。
僕の務めは、三界大戦の終結後に人間界に取り残された魔族の末裔のうち平和を乱す者や、魔界から流れ込む尖兵、そして魔物を討ち、世界の平穏を保つことだ。平和な土地ばかりを巡っているわけではない。
薪の爆ぜる音が、夜の呼吸みたいに一定の間隔で鳴る。窓の外では虫が鳴き、遠くで家畜の寝息が混じる。
王都の宿にある喧騒も、戦場跡に残る張り詰めた気配もない。ただ、生活が続いている音だけが薄く広がっていた。
僕は机の上に地図と小さな木箱を置いた。箱の中には祭儀に用いた札と、聖女の徽章へ通じる光の細糸――神殿から預かった、今回の務めに用いる祭器が収められている。
「……封印は、問題ありませんでしたね」
言葉は確認の形を取っているのに、実際は溜めていた息を吐き出すためのものだった。
エルナ村へ来た目的は、村長へ説明した通り神殿からの要請だ。
代々の聖女が務めてきた役割で、長い周期を経て巡ってくる――そこまでは事実。
ただし、村長へは明かしていない事情がある。
三界大戦より遥か昔。“神々の戦争”と呼ばれる時代があった。
村に面する森の奥深くには、その古の戦いで封じられた邪霊が眠っているという。
神々による封印は極めて強固で、破られた記録は一度もない。
だからこそ、儀式は何百年も「異常なし」を積み重ね、半ば形骸化している。
それでも、誰かが見に行かなければならない。
封印の“無事”は、確認され続けて初めて“無事”でいられる。
苔と木々に埋もれながらも欠けひとつない石碑には、今も神聖な気配が漂っていた。
祭器の反応は記録通り。綻びはない。今日もまた、務めは無事に“無駄足”で終わった。
フレデリカが湯飲みを両手で包み、ほっとしたように微笑む。
「ええ。神々の封印には綻びひとつありませんでした。祭器の反応も、過去の記録の通りです」
何もなかったことを、本心からありがたいと思っている声だ。
務めを任された者として、僕以上にこの務めに緊張感を抱いていた筈だ。
レイアは壁際に背を預け、腕を組んだまま短く言う。
「何もないなら、それでいい」
彼女は長い旅と戦いの中で、“何事もない夜”がどれほど貴重かを知っている。
リィエは火鉢の上で揺れる湯気を眺め、瞬きの回数を節約するみたいに静かに言った。
「……静か。良い村」
それだけで、彼女の感想は完成していた。
独特な感性で世界と向き合う彼女の言葉は時に奇妙で、時に矢のように鋭い。
僕は微苦笑して頷く。
「本当に……こういう村に泊まると、少し悪いことをしている気分になるよ」
「悪いこと、ですか?」
フレデリカが首を傾げる。
「ああ。僕たちが来れば、どうしても緊張させてしまう。……この村に“戦い”を思わせるものを持ち込むのは、ね」
視線が、壁に立てかけた聖剣へ吸い寄せられる。
先代の勇者だった父が光の女神から授かった唯一無二の剣。
家族を、隣人を、大切な者を守りたい、失くしたくないと祈り、願い、加護と共に引き継いだ。
けれど剣は剣だ。魔物も魔族も、これで斬ってきた。
刃に残るものは洗い流せても、目に焼き付いた血の色は消えない。
平和で穏やかな村に、似合う色ではない――そう思ってしまう。
「わたくしは、大切なことだと思います」
フレデリカは柔らかく否定した。
「この平穏を守るために、わたくしたちは務めを果たしています」
「ですが、守る者と守られる者の間にも、互いの顔を知り、言葉を交わす機会が必要です」
「わたくしは、この村の“いつも通り”に触れられて、良かったです」
その“いつも通り”を聞いて、レイアが鼻で息を抜く。
「聞き慣れた言い方だな」
「“まあまあ”、ですか?」
フレデリカがふっと笑う。
「カイルさんが言っていましたね。大体、まあまあで、と」
「……面白い子」
リィエがぽつりと言った。
僕は湯飲みを口に運ぶ。素朴な茶の香りが鼻を抜ける。
神殿の香草茶より雑味があり、その分だけ土に近い。この村の味だ。
「カイルくん……」
名前を口にした瞬間、自然と表情が緩むのが分かった。
遺跡から戻ったあとも、彼は門のあたりにいた。
村長に呼ばれて荷運びを手伝い、僕と目が合うと即座に半歩引く。
子どもらしからぬ礼儀――視線の避け方が“慣れている”。
人に気を遣うことに慣れている避け方だと感じていた。
「不思議な子だったね」
僕が言うと、フレデリカが頷く。
「ええ。年の割に落ち着いていらっしゃいます。子どもらしくない、というのは……良い意味でも、悪い意味でも」
レイアが短く切る。
「用心深い」
「そうだね。用心深い、が一番近い」
初めて会ったときのことを思い出す。もっと警戒されるか、質問攻めに遭うかと思っていた。
だが、彼は冷静にこちらを見定め、必要以上の詮索をしてこようとはしなかった。
“案内しますね”と言ったときの顔。
親切心で走り出す子の顔ではない。
巻き込まれたくない。でも放っておけないから自分が動く――そんな顔だった。
「こちらを“歓迎”しているというより……事故が起きないように、早く終わらせたい、という感じがした」
僕がそう言うと、フレデリカは少し眉を下げる。
「怖がらせてしまったのでしょうか」
「違う」
レイアが即答した。
「怖がってるなら避ける。あの子は逃げなかった」
「……そうですね」
案内の間も彼は一定の距離を保って歩き、こちらが村のことを聞けば答える。
答え方は誠実で的確。けれど深入りをどこか嫌がっているようにも見えた。
リィエが火を見つめたまま言う。
「……目が、遠い」
湯飲みを置く音が、小さい。
フレデリカがその言葉に反応した。
「遠い、ですか」
「……子どもの目じゃない」
レイアが微かに眉を寄せる。
「親に問題があるのか?」
「それなら、もっと匂いがするでしょう」
フレデリカは優しく否定した。
「この村の家族は皆、穏やかです。隠している“何か”があるなら、もっと空気が硬いですもの」
僕も同意する。
「そうだね、とても良い村だと思う」
だからこそ、カイルくんの落ち着き方が少し浮いて見える。
皆も言葉にせずとも同じようなことを感じているのだと思う。
怪しんでいるわけじゃない。不憫な事情が無いかを心配している。
もし、そうだったとしても、勇者、聖女だからと言って手助けができるとも限らない。
沈黙が一拍入る。薪が爆ぜる。
「あと、フレデリカの胸、じっと見ない子は珍しい」
「リィエさん……」
リィエの空気を読まない発言に、フレデリカが恨みがましい視線を向けた。
さっきとは意味合いの違う沈黙が落ちた。
パーティ構成上、仕方がないことだが、こういう話題はなかなか肩身が狭いものだ。
その沈黙を割ったのはレイアだった。
「……アリアの方は、本当に分かりやすい子だったわね」
途端に、部屋の空気が少し軽くなる。
僕もこの話題であれば気兼ねなく加われるので乗っかることにする。
「ええ。とても素直で好奇心がいっぱいで……世界を広げたいという目をしていた」
「かわいい」
リィエが即答する。表情は乏しいのに、言葉だけは迷いがない。
レイアは腕を組んだまま、少しだけ口元を緩めた。
「厄介でもあるわ」
「レイアさん」
フレデリカがたしなめるように名を呼ぶと、レイアは肩をすくめる。
「……目の届かないところで突っ走って、痛い目に遭わないかが冷や冷やするから」
言い換えた言葉は不器用だが、優しい。
僕は思い出す。アリアが村長宅に飛び込んできたときの勢い。
小さな体が風みたいに走ってきて、呼吸が乱れ、頬が赤く、それでも目が輝いていた。
――そして、あの場面。
『……カイル。楽しそうだね』
子どもらしい嫉妬と不安混じりの声だった。
怒りだけでなく怖さと悔しさと、少しの寂しさの混合物。
「嫉妬してたわね」
レイアが即断する。
フレデリカがくすっと笑う。
「ええ。とてもはっきりと」
リィエが付け足す。
「……独占欲」
「言い方」
レイアが短く突っ込む。
僕は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「あの子は、僕たちに……外の世界に憧れている」
フレデリカが頷く。
「憧れと、嫉妬と、独占欲を心の同じ場所で捉えてしまう年頃ですもの」
「十歳で?」
レイアの声には半分の驚きと半分の呆れが混じる。
「十歳だから、ですよ」
フレデリカの声は穏やかだ。教義を語る時より柔らかい。
「まだ“自分の言葉”を持ちきっていないから、気持ちがそのまま出てしまう。だから可愛いし、だから危うくもあります」
危うい――その意味を僕は考える。
この村に危険があるわけではない。封印は健全で、森は静かで、魔物の気配も薄い。
危ういのは、子どもが“外の世界”を見てしまうこと。
そして、外の世界が“子どもを見てしまう”こと。
「僕たちが来たことで、余計な夢を見せてしまったかもしれない」
僕の言葉に、フレデリカはすぐ首を振った。
「夢は、悪いものではありません」
「でも、夢は時に、人を焚きつけてしまう」
僕は剣の柄に触れ、無意識に指先を落ち着かせる。
「焚きつけられた先が、必ずしも幸せとは限らない」
レイアが短く言う。
「最終的に道を選ぶのは自分よ。背中を押されたって、歩き出さなきゃ進まない」
それも真実だ。しかし、道を自分で選べる強さがあっての言葉でもある。
フレデリカは湯飲みを置き、穏やかな顔で続けた。
「だから私は……今日、アリアさんがこちらを見たとき、少しだけ安堵しました」
「何を?」
「“取られる”と思った目だと感じました」
フレデリカの声が小さくなる。
「カイルさんを、誰かに。外の世界に。……そして、私たちに」
レイアが鼻で笑う。
「取る気はない」
「ええ。もちろん」
フレデリカは頷く。
「アリアさんにとって、カイルさんは――夢を膨らませることと同じか、それ以上に大切なのだと思います」
夢見がちなだけではなく、地に足のついた考えも持っていると言いたいのだろう。
僕は、アリアがカイルの袖を掴んで離さなかった瞬間を思い出す。あれは力ではない。必死さだ。
「……カイルくんは、どうだろう」
僕が言うと、レイアが即答した。
「困ってた」
「困っていましたね」
フレデリカも頷く。
「でも、突き放してはいませんでした。アリアさんを傷つけないように、言葉を選んでいました」
「十歳のくせに」
レイアがぼそっと言う。
「十歳のくせに、ではありません」
フレデリカは咎めるでもなく言った。
「十歳だからこそ、身近な人を傷つける痛みを知るのです。大人は、痛みを知っていても、慣れてしまう」
リィエがぽつり。
「……両方知ってそう」
「カイルくんが?」
僕が問うと、リィエは首肯する。
「ん。カイルはやさしい」
レイアが短く笑う。
「だから頭をかき回したのか」
「……かき回してない。撫でた」
「エルフがそんなに雑だとは知らなかった」
レイアが即座に突っ込む。
フレデリカが口元を押さえて笑う。
「でもカイルさん……困っているときほど、じっと耐える方のようでしたね。自分からは助けを求めない」
僕は頷く。
「それでいて、人のことを放ってはおけない」
村の入口で行商を待っていたという彼。母の用事を抱えたまま、見知らぬ旅人を村長へ案内した彼。
そういう責任感の強い者が、戦場で倒れるのを何度か見てきた。
彼らは勇敢ではないが、自分の務めを果たそうとして逃げない。
客間の空気が少しだけ重くなる。
だからフレデリカは、意図的に明るい話題へ舵を切った。
「それでも、二人は似合っていましたね」
「……何が」
レイアが聞く。
「アリアさんとカイルさん。片方が空を見上げて、片方が地面を見ている。そんな風に見えました」
僕は、その比喩がぴたりと来るのを感じた。
「彼女が質問している間、カイルくんは何度も彼女の方を見ていた。あれは……置いていかれないように、ではなく。置いていかないように、という目だったね」
フレデリカが微笑む。
「素敵な目です」
レイアは、ふん、と短く鼻を鳴らす。
「子どもだ」
「子どもだから、素敵なんです」
フレデリカは優しく返す。
リィエが火の揺らぎを見つめたまま、ぽつりと言う。
「……この村、あたたかい」
僕は湯飲みを置き、窓の外の闇を見る。闇は深いが、恐ろしくない。
この向こうで誰かが眠っている闇。穏やかであたたかな闇。
「そうだね」
僕は静かに言った。
「だからこそ、僕たちは明日ここを出る。……この村の日常に、これ以上、僕たちの影を落とさないために」
フレデリカは頷く。
「私たちは旅人ですもの。通り過ぎるのが役目」
レイアは短く言う。
「残る理由もないわ」
リィエは言う。
「……でも、覚えておく」
その一言が、妙に胸に残った。
僕は笑って、湯飲みを置く。
「ああ。忘れずにいよう。エルナ村の、”まあまあ”な日々を」
フレデリカが気に入っていたフレーズを口すると、彼女はふわりと微笑んだ。
「ええ。女神様もきっと、この平穏を見守ってくださいます」
「……別に、また来る理由がないわけでもないわ」
レイアが言う。
「……どっちが目当て?」
リィエが言うと、レイアは目を逸らした。
「目当てなんてない」
フレデリカが肩を震わせ、笑いを堪える。
彼女の素っ気なさと不器用な殻の中に、やわらかい心根があることを、僕たちは知っている。
封印は健全だった。邪霊の気配もなかった。村は平和だ。
だから今夜は、剣を抱いて眠らなくてもいい。今夜だけは、明日を恐れずに眠れる。
「……寝ましょうか」
僕がそう言うと、フレデリカが頷き、レイアが立ち上がり、リィエが火鉢の炭を整える。
神々の加護と使命を受け、世界の命運を背負っている。
それでも今夜は、ただの旅人として、辺境の村の静けさに身を預ける。
その静けさの中で、最後に脳裏に残ったのは――
袖を掴んで離さない小さな手と、
困った顔で逃げずにそこにいる、十歳の少年の横顔だった。
――この平和の中で、守りたいもののために、彼もまた戦っている。
小さな同志を得たような満足感と共に、僕は眠りについた。




