エルナ村のアリア②:フローレンス商店と、はちみつリンゴ味の相談事
ハンナお姉ちゃんのお店、フローレンス商店のドアベルの音は、アリアにとって、少しだけ特別な音だ。
「いらっしゃ──……って、あら、アリアちゃん」
カウンターの向こうから顔を出したのは、くるくるとまとめた赤茶色の髪に、いつものエプロン姿のハンナお姉ちゃんだった。二十代半ば、村の「若い大人代表」みたいな人。
「ハンナお姉ちゃん、こんにちは」
「はいこんにちは。今日はおつかい? それとも、また新しいリボンが欲しくなったとか?」
「えっと、その……」
アリアは、両手で抱えてきた空っぽの籠の持ち手を、ぎゅっと握りしめた。
本当は、おつかいでも、リボン目当てでもない。
ただ、ここなら少し、胸の中のもやもやを話せるかもしれないと思って来ただけだ。
ハンナはアリアの顔をちらりと見て、すぐに眉をひそめる。
「……うん。今日は“買い物の顔”じゃないわね」
「え?」
「お客さんの顔って、大体分かるのよ。『これを買わなきゃ』の顔か、『これ欲しい〜』の顔か。……今日のは『ちょっと聞いてほしい』の顔」
「そんな顔、あるの?」
「あるの」
きっぱりと言い切られて、アリアは思わず笑ってしまった。
けれど、笑っただけではごまかせなかったらしい。ハンナはカウンターから出てきて、店の奥の小さな丸テーブルを指さした。
「とりあえず座ろっか。特別にとっておきを出したげる」
「……うん」
促されるまま椅子に腰掛けると、ハンナは奥の棚から小さな陶器の瓶を出してきた。あけた途端、ふわっと甘い匂いが広がる。
「はい、ハンナさん秘蔵、はちみつリンゴジュース。ちょっとだけよ?」
「わぁ!ありがとう!」
コップに注がれた黄金色を、アリアは一気にぐいっと飲んだ。喉をすべって落ちていく、蜜と果物の甘さ。
「ぷはぁ……」
「あーあ、酒場でエール一気飲みしてるおじさんみたいな声出して」
「だって、おいしいんだもん」
頬をふくらませると、ハンナはくすくす笑いながら、自分の分をちびちび舐めるように飲んだ。
「よし。で──誰のこと?」
「えっ」
「“聞いてほしい”って顔して来る子の半分以上は、誰かの話なの。家族か、友達か、……そのへん」
「そのへんってなに!?」
アリアが突っ込むと、ハンナは肩をすくめて笑った。
「はいはい。じゃ、友達のほうね」
「……カイルのこと、なんだけど」
「はい、きました」
食い気味に返ってきて、アリアはさらに小さく肩をすくめた。
「最近ね、ちょっと、変だったの」
「ふむふむ」
ハンナは相づちだけ打って、黙って続きを待つ。
「なんか……わたしのこと、避けてるっていうか。話しかけたらちゃんと返事はしてくれるんだけど、前みたいに『行こー』って言ったらそのままついて来る感じじゃなくて。……用事あるって断られること、増えたし」
「うんうん」
「それで、わたしと遊ばないで、村長さんのとこ行ったり、バートンさんに外の森の話聞いたり、ハンナお姉ちゃんのとこで街の話聞いてたり」
「あー、最近やたら外の話、聞いてきたのはそういう」
ハンナは頷く。
「なんか、その……村の暮らし、嫌になっちゃったのかなって」
言葉にしてみた途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ここからどこか行っちゃうのかなって。……わたしのこと、嫌いになっちゃったのかなって」
「ふむふむ、だいぶ出てきたわね、本音」
ハンナは肘をついて顎に手を添え、アリアの顔を覗きこむ。
「で、そのあとどうなったの?」
「……森に、一緒に行ってくれた日があったの」
木の実を拾って、二人だけ残ったあのとき。
カイルが「村が嫌いなわけでもない」「お前が嫌いになったわけでもない」「ここで生きてくつもりだ」って言ってくれたこと。
「お前がいるなら、なおさらだ」なんて、ずるいことまで言ったこと。
「その日からは、前みたいに、一緒にいてくれるようになったの。森にも行ってくれるし、木の実拾いも、ちゃんと手伝ってくれて」
「じゃあ今は、“避けられてる感じ”はしないのね」
「うん。でも……」
アリアは、コップのふちを指でなぞる。
「なんで、あんなふうに急に変になってたのか、気になってて。わたし、何かしちゃったのかなって」
「なるほどねぇ」
ハンナはコップを置き、腕を組んだ。
「それってさ」
「うん」
「……“急に恥ずかしくなった”だけじゃない?」
「……………………え?」
頭の中で言葉がぐるっと回って、どさっと落ちる。
「は、恥ずかしい?」
「そう。『あれ?』ってなるやつ」
ハンナは指先でテーブルをとんとんと叩く。
「小さい頃はね、男の子も女の子も、あんまり気にしないのよ。泥まみれで走って、川に落ちて、一緒に怒られてさ」
「う、うん……」
「でも、だんだん大きくなるとね。ふと『あれ、この子……前とちがう?』って思う日があるの。背が伸びたとか、声がちょっと落ち着いたとか、笑い方が変わったとか」
アリアの頭の中に、最近のカイルがぽつぽつ浮かぶ。
いつの間にか自分より高くなった肩。
転びかけたとき、がしっと支えてくれた手の大きさ。
前より、声が少し落ち着いて聞こえること。
「でね、気にし始めると、急にどう接していいか分かんなくなるの。『今まで通りでいいのかな』って」
「…………」
「カイルくん、そういう時期だったんじゃない?」
さらっと言われて、アリアは固まった。
「アリアちゃんのこと、ちゃんと“女の子”だって思い始めてさ。だから変にぎこちなくなって、距離取っちゃう、みたいな」
「わ、わたしが……女の子だから?」
「そうそう」
頭がぽん、と音を立てて真っ白になる。
「で、でも……前から女の子だよ?」
「そりゃそうよ」
ハンナは笑った。
「でもね、自分の変化って、自分が一番気づきにくいの。毎日同じ顔で生きてるから」
「……?」
「周りはね、『あれ?』って気づくのよ。ほんとに急に」
ハンナはじっとアリアを見て、ふわっと目を細めた。
「アリアちゃんも最近、たまに“女の子の顔”するしね」
「えっ、な、なにそれ」
「さっきみたいに、話してて真っ赤になるとことか」
「なってないし!」
「さっきからずっとなってるし」
ぴしゃりと言われて、アリアはコップを持ったまま俯いた。
アリアが黙り込んだのに気づいて、ハンナは少しだけ真面目な顔になった。
「で、今のカイルくんはどう?」
「え?」
「最近は。前みたいに、避けられてる感じ、する?」
今朝のことを思い出す。
普通に「おはよう」って言ってくれた。
森に行こうって言ったら、「入口までな」って、ちゃんと一緒に来てくれた。
足を滑らせたら、何も言わずに手を伸ばして支えてくれた。
「……前と、同じ。たぶん」
「なら、いいじゃない」
ハンナはあっさりと言い切った。
「変なこと言われてるわけでも、嫌なことされてるわけでもないんでしょ?」
「うん、それは……ない」
「だったら、“ちょっとそんな時期だったのかな”でいいのよ。今はまた、いつも通り仲良くしてれば」
「そんなもので、いいの?」
「そんなもので、いいの」
ハンナは肩をすくめる。
「大人だってね、『あれ?距離感変かも』って時期、普通にあるの。仕事でも、友達でも。まして十歳なら、なおさらよ」
「そういうもの、なのかな……」
「そういうものなの」
そこまで言ってから、ハンナは少しいたずらっぽく目を細めた。
「それにもし、本当に“女の子として気になり始めた”って理由だったとしたら──アリアちゃん、それ、嫌?」
「っ……!」
胸の奥が、きゅっと縮む。
嫌かどうかなんて、考えたことがなかった。
ただ、避けられるのが寂しかった。隣にいてほしかった。
「……よく、分かんない」
絞り出すように、それだけ言うのが精一杯だった。
ハンナは、ふっと柔らかく笑う。
「なら、今はそれでいいわよ。急いで答え出さなくていいんだから」
「……うん」
「とりあえず、“理由の候補”としてね」
指を一本立てる。
「『カイルくんが急に恥ずかしくなりました』って線、覚えときなさい」
「覚えたくない……」
「覚えなさい」
ぴしゃりと言われて、アリアは、ぷっと吹き出した。
笑った瞬間、胸の中に溜まっていた重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
店を出ようとするとき、ハンナが背中に声をかけてくる。
「アリアちゃん」
「なに?」
「困ったら、またおいで。カイルくんのことでも、それ以外でも」
「……うん!」
扉の鈴が、軽やかに鳴った。
外に出ると、村の空は明るかった。
道の先に、小さな影が見える。いつもの、ちょっと眠たそうな顔をした少年が、籠を片手に歩いてくる。
(……急に恥ずかしくなった、かあ)
ハンナの言葉が胸の中でくるくる回る。考えるたびに顔が熱くなるから、本当はあまり考えたくない。
でも、頭のどこかに、その言葉を小さく丸めてしまったまま──
「カイルー!」
アリアは、いつも通りの声で呼んだ。
振り向いたカイルが、少しだけ照れたように手を挙げる。
その仕草を見て、アリアも手を振り返した。
答えは、今すぐ出さなくていい。
でも、そんなことを思いながら、今日もまた、二人並んで歩き出した。




