エルナ村のアリア①:私と幼馴染の何事もない日々
朝いちばんの空気は少しひんやりしていて、胸の奥まで吸い込むと頭がしゃっきりする。
アリア・メイスンは、まだ誰も通っていない庭の土を踏みしめながら、苗畑の雑草をちまちまと抜いていた。
土の匂い。夜のうちに落ちた露で、葉っぱが少しだけ湿っていて冷たい。
隣の家の屋根の向こうから、そろそろ一番鶏の声が聞こえるはずだ。
(今日こそ、木苺いっぱい採りに行きたいなぁ)
頭の中ではもう、森の入口の小川のことを考えている。
この前、ハンナお姉ちゃんが言っていたのだ。
「今年はたぶん木苺がよくなってるわよ。いっぱい採ってきたら、お小遣いあげる」
ハンナお姉ちゃんのお店に、木の実や木苺を持っていくとお小遣いがもらえる。
「子どものうちからお金の扱いには慣れておきなさいね」ってことらしい。
お姉ちゃんはそれをジャムやお菓子にしてお店に並べる。
それが、どうしてか家で作るものよりずっとおいしくて、結局もらったお小遣いを使ってしまう。
けれど今は、欲しいリボンがあるから我慢して貯めている最中だ。
髪を二つにくくるのに今は紐を使っているけれど、あの赤いのを使ったら、きっと可愛い。
(お祭りにつけていったら、気付いてくれるかな)
そう思ったところで、ふと振り向いた。
いつからそこにいたのか、向かいの家の庭にカイルが立っていた。
同い年の幼馴染。
藁みたいなくすんだ金色の髪。
夕日の反対側に広がる暗い空の色の目。
いつもは寝癖でボサボサの頭を掻きながら眠そうに声をかけてくるのに、
「……」
今日はなんだか、びっくりしたみたいな表情で固まってる。
こっちを見ているようで、なんだか見ていないような。
あ、目を合わせてくれていないんだ、と気付いた。
いつもより上の方を見ているみたいな……。
おでこ? 前髪? 頭を見てるの? なんで?
(な、なに? わたし、泥でもついてる?)
慌てて額を擦り、前髪を払ってみるけれど、特に変な感触はない。
というか、毎日同じくらい泥はついている。今に始まったことじゃない。
「カーイルー!」
とりあえず手をぶんぶん振ってみる。
いつも通り、「おー!」とか「おはよー!」とか返ってくると思っていたのに——
「あ、……お、おはよう」
返ってきた声が、いつもより少し固い。
そのまま、なぜか目をそらされる。
(あれっ?)
胸の中に、小さな棘みたいなものがひっかかった。
それでも今日は木苺のことで頭がいっぱいだ。アリアはぱっと表情を明るくして声を張る。
「ね、ね! 今日さ、小川の近くまで行ってみようよ! あの辺、木苺もなってるんだって!」
いつもなら「いいな、それ」で、すぐ乗ってくるはずだ。
ところが——
「……悪い、今日ちょっと用事ある」
一拍置いて返ってきた答えは、それだった。
「えー、またぁ?」
思わず口を尖らせる。
「また」と言ったのは、昨日も似たことがあったからだ。森にどんぐりを拾いに行こうと誘ったら、「手伝い」と言って断られた。
もちろん畑仕事も大事だし、手伝いをサボっちゃいけないのは分かっている。
でも今まではもっと、遊ぶ約束をするとき、いそいそとついてきてくれたのだ。
「カイル、昨日も手伝いって言って断ったじゃん」
「ほんとに用事なんだって。父さんの手伝いとか、いろいろ」
言い訳みたいに聞こえた。
アリアはじっとカイルの顔を見る。数秒、見つめ合う。
カイルの視線は、すぐにふいっと横を向いた。
(……なんか、やだ)
胸の奥が、きゅっと小さくつままれたみたいになる。
嫌いになったのか、とか、そこまで大げさな言葉は浮かばない。
ただ、今までと違うということだけは、どうしようもなく分かる。
けれど、ここでしつこく食い下がったらカイルが困るのも分かっていた。
だから——
「じゃあ、日暮れ前に用事が終わったら呼びに来てね!」
そう言って笑った。
本当に呼びに来てくれるかどうかは分からない。
でも「来てね」と言っておけば、何も言わないよりは、来やすいはずだ。
「あ、あぁ……終わったら、な」
返事は曖昧で、アリアは少しだけ頬を膨らませた。
それでも、背中を向けて歩き去るその姿を、しばらく見送ってしまう。
さっきまで見られていた分、今度はこっちが見てしまう番みたいだった。
※※※※※
その日、カイルは本当に一日中畑で働いていた。
朝、苗畑の雑草を抜きながら何度か振り返ってみたけれど、向かいの家の前にカイルの姿はない。
昼前、井戸のあたりで水汲みをしているときにちらっと見かけたけれど、肩に鍬を担いで父さんと一緒に歩いているところだった。
夕方になっても森の入口に現れる気配はない。
代わりに、隣の畑から父さんの笑い声と、カイルの「うわ、重っ!」って声が聞こえてきて、アリアは落ち葉を足先でいじりながら小さく息を吐いた。
(本当に手伝い、してたんだ……)
そう思ったら責める気持ちは少し弱まった。
だけど、小さな寂しさは逆に強くなった。
森の入口の木陰は、いつも二人で座っておやつを食べた場所だ。今日は、片方しかいない。
籠の中の木の実はそれでもちゃんといっぱいになったのに、帰り道の足音がひとつ足りない。
家に帰ると、ハンナお姉ちゃんに「お、よく頑張ったじゃん」と頭をぐしゃぐしゃ撫でられた。
嬉しいのと同じくらい、「いつも一緒に帰ってくるカイルの足音」がしないのが、変な感じだった。
※※※※※
次の日も、その次の日も、少しずつ「何か」がずれていく。
カイルはよく働くようになった。それ自体は良いことだ。
でも、働きながら変なところに顔を出す。
村長の家で何やら真面目な顔で話を聞いていたり。
ハンナお姉ちゃんの店先で、街や旅の話を根掘り葉掘り聞いていたり。
バートンさんのところに行って、「森の奥ってどれくらい危ないんですか」とか「街道の先ってどうなってるんですか」とか聞いていたり。
(なんか……)
外の話ばっかりしているように見える。
村の外。遠くの街。王都。
アリアだって、勇者の話とか旅の話は好きだ。昔話を聞くときはいつも真っ先に前のめりになる。
でも、それは「面白い話」としてであって、「自分がそこへ行くこと」を考えたりはしない。
カイルは今、どこを見ているんだろう。
朝「おはよう」って言うときも、なんだか別のところを見ている気がする。
(……どこか、行っちゃうのかな)
そんな言葉が喉の奥まで出かかって、飲み込む。
怖くて、口に出せない。
※※※※※
森の入口で木の実を拾う日。
他の子たちが先に帰ってしまい、森の入口にはアリアとカイルだけが残った。
籠はそこそこ重い。
ひと休みしようと、アリアは落ち葉の上にぺたんと座り込む。
隣ではカイルが、まだ地面の木の実を見ていた。
「ねえ、カイル」
気が付くと、口が勝手に動いていた。
「最近さ、ちょっと変だよ」
「何がだよ」
「カイルが」
正面からそう言うまでに、何日もかかった。
本当はもっと早く言いたかったけれど、言ったら何かが壊れてしまう気がして怖かった。
でも言わなかったら、それはそれでもっと遠くへ行ってしまいそうだった。
「この前も、遊ぼって言ったら『用事ある』って言って、村長さんとこ行ってたでしょ。
その前はハンナお姉ちゃんのとこで街の話聞いてたし。
あと、バートンさんにも、外の森とか街道の先がどうなってるか、いろいろ聞いてた」
自分でも、よく見ているなと思う。
でも、ずっと一緒にいたからこそ分かるのだ。
「……カイル、村のこと、嫌になっちゃったのかなって」
そこまで言って、慌てて口をつぐんだ。
(うぅ、バカ。わたしのバカ。なんでこんなこと言うの……)
カイルが困った顔をするのは分かっている。
それでも言ってしまった。言わないと、お腹の中でぐるぐる回って、もっと苦しくなりそうだったから。
「は?」
カイルの間抜けな声が返ってくる。
ちょっとだけ拍子抜けする。でも、すぐにまた不安が押し寄せてくる。
「だって、外のことばっかり聞いてたから。
もっと遠くの街とか、王都とか、他の村とか。
……もしかして、ここからどっか行っちゃうのかなって」
そこから先は言えない。
「わたしのこと、嫌いになった?」なんて、聞けるわけがない。
代わりに足先で黒い土をつつく。乾いた土がほろっと崩れる。
少しの沈黙。
「……別に、嫌になったわけじゃない」
カイルの声が降ってきた。
「ほんと?」
顔を上げる。
カイルはまっすぐこっちを見ていた。いつもみたいに、どこかぼんやりした目じゃない。
ちゃんと、「アリア」を見ている目だ。
「ほんと?」
もう一度聞いてしまう。
「ほんとに」
今度は、はっきり言い切った。
「ここで畑やって、こうして木の実拾ってさ。
そういうの、嫌じゃないし。
お前がいるなら、なおさらだ」
なおさら。
その言葉が胸のどこかにすとんと落ちた。
顔がじわじわ熱くなっていく。
「……なおさらって、なに、それ」
自分でも分かりやすいくらい、声がうわずる。
「そのまんまの意味」
カイルが視線をそらす。
その仕草が、どうしようもなくずるい。
(ずるい……)
何がずるいのか、うまく言葉にできない。
でも「なおさら」と「そのまんま」がぐるぐる回って、胸がこそばゆくてたまらない。
「……ねえ、カイル」
「なんだよ」
「じゃあさ。わたしと遊ぶの、やめたりしない?」
聞かなくても分かるはずなのに、聞いてしまう。
きっと、さっきの「なおさら」がなかったら、こんなことは聞けなかった。
「しないよ」
カイルは間髪入れずに答えた。
「たまに、ちょっと考え込んでるかもしれないけどな。
でも、それはそれ。そういうこともあるだろ」
「……よく分かんないけど」
本当に、よく分かんない。
でも——
「じゃあ、いっか」
口からこぼれた言葉は、自分でもびっくりするくらい軽かった。
分からないことを全部分かろうとすると、頭がぐるぐるしてしまう。
だったら「分かったところまで」で止めておけばいい。
畑のことも森のことも空のことも、全部分かるわけじゃない。
でも「雨が降りそう」とか「風が冷たくなってきた」とか、分かるところまでで何とかやっていく。
それで、今までちゃんと生きてこられた。
だから——カイルのことも、きっとそれでいい。
「よし、もうちょい拾ったら帰るか」
「うん!」
アリアは籠を持ち上げて、葉っぱのついた木の実を一つつまみ上げる。
カイルが少しだけ笑い返してくれたのが、妙に嬉しかった。
※※※※※
それから何日かして、アリアには一つだけ、どうしても気になることが出てきた。
——カイルが、やたらとこっちを見るようになった。
今までも、それなりに視線は感じていた。
隣同士の家だし、畑も近いし、一緒にいる時間が長いのだから当たり前だ。
でも最近のは、なんというか、その。ちょっと多すぎる気がする。
ある日、向かいのローレン家の台所で、エレナおばさんが大きな鍋を火にかけていた。
根菜と豆と干し肉の、あの好きな匂いが風に乗ってこっちまで流れてくる。
「カイル、スープ見ててくれる?」
おばさんの声が聞こえてきて、カイルはいつもの、ちょっと気だるそうな返事をしながら鍋の前に立った。
アリアは家の前の落ち葉を掃きながら、それをちらっと見ていた。
カイルは鍋の中をのぞき込んだり、ふっと窓の外に顔を向けたりして——
(……ん?)
目が合った。
慌ててそらされる。
(いまの、なに)
胸のあたりが、変にむずむずする。
落ち葉を集める手をせっせと動かして、気を紛らわせる。
ちょうどそのとき、家の中から声がする。
「母さーん、そろそろ火、弱めた方がいいと思う」
「あら、もうそんなに経った?」
その日、お隣からおすそ分けされてきたスープは、ちょうどいい具合に煮えていた。
豆も根菜も柔らかくて、味もよく染みている。
エレナおばさんは「今日のは上出来だわねぇ」と嬉しそうに笑いつつ、
「あの子、いつの間に煮加減なんか覚えたのかしら?」と首をかしげていた。
アリアはそれを口いっぱいに頬張りながら、こっそりカイルのことを考えていた。
(……なんか、前より、頼りになる……かも?)
外のことばかり考えているようで、ちゃんと家のことも村のことも見ている。
そう思ったら少し安心した。
でも、やっぱり落ち着かないものは落ち着かない。
(なんなの、もう……)
※※※※※
それからも、カイルが「偶然」こっちを見てることが何度も起きた。
森で木の実を拾いに行ったときも、空を見上げたら——先にカイルが空を見ていた。
そのあと「そろそろ戻るか」と言うタイミングが妙にぴったりで、しかも言う前に一度こっちを見ていた。
井戸で水を汲んでいるとき、ふと顔を上げたら、道の向こうからじっと見ている視線に気付いたこともある。
畑で草むしりをしているとき、横を向くとカイルがこっちを見ていて、目が合った瞬間、やっぱりそらされる。
(なに、それ)
最初は「たまたまかな」と思っていた。
でも「たまたま」が何回も続くと、さすがに気付かないわけにはいかない。
だから、ある日の午後。ハンナお姉ちゃんの店の前で、とうとう言ってしまった。
「ねえカイル。最近、なんか変」
「何がだよ」
「カイルが」
店先で荷物運びをしているとき、アリアはカイルを問い詰めた。
おさげの先っぽを指でくりくり弄りながら。落ち着かないとき、つい手が伸びる癖だ。
「さっきから、じーっと見てくる」
「見てないけど?」
「見てる!」
勢いで言ってしまってから、顔が熱くなる。
だって本当に、見られているのだ。ちらっと、じゃなくて、じーっと。
(そんなに変かな、わたし)
頬に泥がついてるとか髪が跳ねてるとかなら、言ってくれればいいのに。
そう思っていると——
「カイルはアリアちゃんが気になってしょうがないんだもんねぇ」
ハンナお姉ちゃんが、にやにやしながら割って入ってくる。
荷物を肩に担いだまま、悪い顔をしている。
「たぶん、アリアちゃんが気付いてるよりも、もっと沢山見られてるわよ」
「は、ハンナお姉ちゃんってば!!」
耳まで真っ赤になった。
そんなこと、考えたこともなかったのに。
カイルは妙に焦った声を出す。
「べ、別に、変な意味じゃ……」
「変な意味って、なに!?」
自分でも分かっていて、わざと聞き返してしまう。
カイルは「いや、その……」としどろもどろになり、ハンナお姉ちゃんは隣で笑いを堪えている。
(……もう!)
からかわれているような、そうじゃないような。
でもたぶん、ハンナお姉ちゃんの言う通り、カイルはなんか変だ。
それだけは、はっきりしていた。
(けど……やじゃないかも)
※※※※※
しばらくして、カイルは妙なことを言い出した。
「これからは、あんまり見ないようにするから」
夕方、洗濯物を取り込んでいるとき、何の前触れもなくそう言われたのだ。
「……やだ」
気付いたら口が勝手にそう答えていた。
「……は?」
「見ないとか、やだ」
ついでに胸も、どくん、と大きく跳ねた。
さっきの台詞を言ったカイルの顔が、どうしようもなく寂しそうに見えたからだ。
それを見ているうちに、「見られないのは嫌だ」という気持ちが、ふわっと湧いてきた。
変な意味かどうかなんて分からない。
でも「見ない」と言われたら、それはそれで、すごく嫌だった。
「だって、カイルがわたし見ないとか、なんか、やだ」
「いやいや、そういう意味じゃなくてだな」
「どういう意味?」
詰め寄ったら、カイルはまた「……まあ、そのうち分かる」とか、よく分からないことを言って逃げた。
「なにそれ、ずるい」
ずるいのだ。
大事なことはあまり教えてくれないくせに、「見ない」とか「そのうち分かる」とか、こっちだけ胸がざわざわする言葉を残していく。
それから何日かは、たしかに前より少し「じーっと見てくる」回数が減った気がする。
けれど、完全になくなったわけじゃない。
たまに、ふとしたときに視線がぶつかる。
鍋をかき混ぜているとき。井戸で水を汲んでいるとき。森の入口で木の実を拾っているとき。
そのたびにアリアは、胸のあたりを落ち着きなくさすってしまう。
(……ほんとに、何考えてるんだろ)
でも、聞いても教えてくれないのはもう分かっている。
だからアリアはアリアで決めた。
——分からないことは、分かるところまででいい。
カイルがどこまで村のことを考えているのか。
どこまで外のことを考えているのか。
想像が追いつかないところも、きっとある。
でも、「遊ぶのやめない」と言ってくれた。
「お前がいるなら、なおさら」とも言ってくれた。
だったら今のところは、それでいい。
分からないぶんのぐるぐるは、落ち葉と一緒に土の中へ埋めてしまえばいい。
※※※※※
避けられてるのかなって思ってた頃に、ちょっと強引に遊びに連れ出した日のこと。
手をつないだ瞬間のことは、よく覚えている。
森へ向かうあぜ道。
いつも通り「行こ」と言って手を伸ばしたら、カイルの手が一瞬だけびくっと震えた。
「!」
その反応に、アリアの心臓も一緒に跳ねた。
やっぱり嫌われてるのかなって思って、鼻の奥がツンとなった。
でもすぐに、カイルはいつものようにぼやいた。
「引っ張んなって、腕が引っこ抜けるだろ」
「あはは、なにそれー」
いつも通りの、今まで通りのカイルだった。
それが嬉しくて、安心して、笑いながらアリアは手をぎゅっと握る。
カイルの手は温かくて、ところどころ硬い。
自分の手とよく似ている。畑を手伝って、木の実を拾って、鍬を持って。
そうやって付いたマメの痕だ。
(これが、ずっと続くといいな)
毎日一緒にいるのが当たり前で。
同い年なのに、ちょっと背が高いからってお兄さんぶってきたりもして。
朝になったら「カーイルー」と呼んで。
昼になったら「今日はどこ行く?」って言って。
夕方には「また明日ね」と手を振る。
それが、いつか変わる日が来るのかもしれない。
でも今はまだ、そんな先のことまで考えたくなかった。
木の実を拾って、スープを食べて、お小遣いをもらって、リボンを買って。
そういう小さな「今」のことだけで、胸は十分いっぱいだった。
※※※※※
アリアは自分のことを特別だとは思っていない。
水桶を運ぶときはカイルより遅いし、力比べをしたら負ける。
蜘蛛が出たら本気で悲鳴を上げるし、森の奥で迷いそうになると不安になってカイルの袖をつかむ。
芋虫は平気で掴めるけど、百足は絶対無理だ。
猫舌なのに食い意地がはっていて、熱いスープで舌をやけどすることもしょっちゅうだ。
村では「明るくて元気なメイスン家の娘」と言われることが多い。
そのくらいの、どこにでもいる普通の女の子だ。
神様のことも魔王のことも、この世界のどこかに本当にいるのかどうか、よく分からない。
昔話の中の勇者に憧れているだけだ。
——そんなアリアにとって、「カイルが最近ちょっと変」というのは、この世界で一番大きな出来事だった。
空の色よりも。
森の木の実の出来具合よりも。
村長が昔どんな兵隊だったかよりも。
遠くの街がどれだけ賑やかかよりも。
カイルが笑っているか、怒っているか、困っているか。
その時、自分がそこにいるか。
それが一番、気になる。
※※※※※
「……ねえ、カイル」
ある日の帰り道。
夕焼けが畑を赤く染めて、羊たちの影が長く伸びる頃。
「ん?」
「わたしね」
アリアは頬をかきながら言った。
「カイルが、どこまで外のこと考えてるかとか、よく分かんないけど」
「お、おう?」
「でも、わたしのこと嫌いになってないなら、それでいいや」
カイルは目を瞬いた。
「急に何言ってんだよ」
「分かんなーい!」
アリアは笑いながら走り出す。
カイルの返事を最後まで聞かない。
でも、背中越しに聞こえてくる足音は、ちゃんと追いかけてきている。
それだけで、今は十分だった。
どこか遠くの世界で、神様たちが何かを相談していることも。
魔界のどこかで、とんでもない誰かが消えたことも。
アリア・メイスンには何ひとつ関係がない。
アリアが知っているのは、エルナ村の空の高さと、森の匂いと、スープの味と、カイルの手の温度だけだ。
そして——
朝「カーイルー」と呼んだら、「おー」とか「おはよー」とか返ってくるかどうか。
それが、世界の全部なのだ。




