心のつながり
「心のつながり」が一番大切だと思う。
もし「心のつながり」が一番大切だとするなら、現代人類の文明は、「砂漠」だと思う。
これまで、そしてこれからの人類史は、「砂漠化」だと思う。
森や獣に囲まれ、自然が脅威でしかなかった古代から、人々は地表を建物で覆って都市を築き、物質的な豊かさを手にした。
そこには利便性や快楽の確かな向上もあっただろうが、見方によっては文明は「砂漠」なのだ。
私が過去に述べてきたように、グローバリズムは国際的な超富裕層を中心として世界の民主主義の実態を形骸化させる。
そして、力の序列は利権の序列として迎合と加担を招き、自己正当化の心理を通じて情報支配を形成する。
資本主義に抵抗する連帯はすべて自由主義の敵として悪魔化され、人間は自己にしか関心がない労働単位へと分断される。
ちょうど「心のつながり」が消え去ったぶんだけ、搾取は深化し民衆の苦しみが増加するのだ。
「心のつながり」は、従来の人間社会において当たり前にそこら中にあった。
毎年世界は急速に劣化していて、人々は昨日まで目の前にあったその存在すら忘れさせられつつある。
まだ稀に残る「心のつながり」を大切にしたところで、それは誰にも感謝なんてされない負け戦だ。
それは、残念ながら報われない。しかし、唯一残された最善手なのだから他に選ぶべき道はない。
「心のつながり」と言ってみても、それを体験しなければその手触りはわかるまい。
あるいはむしろ、一定の「心のつながり」のなかで生まれ育った者ほど、それを特に貴重だとは感じられないかもしれない。
しかしいったん、「心のつながり」を一番大切だと思ったなら、世界と人生の見通しはシンプルだ。
お金ではない、命や健康でもない、個人としての安楽の追求ではない、異なる価値の世界観を生きることになる。
「心のつながり」を一番大切にして生きるならば、損をするかもしれないし、時には得をするかもしれない。
極端には命を落とすかもしれないし、あるいは意外に長く生きながらえるかもしれない。
結果はどっちでもいい。「心のつながり」を一番大切にして生きることが正解で、それがもたらす結果なら正解だ。
これは、経済的な豊かさによって強者を定義し、生存性の優位をもって勝者に数える哲学とは異なる哲学だと言える。
資本主義ではない、言ってみれば「心のつながり」主義だ。
グローバリズムがますます深化し、格差と欺瞞、社会構造の不正義が悪質化するほど、末端庶民において「心のつながり」哲学の意義は増加するだろう。
そのような利害の外側のアウトローの哲学は、歴史的には宗教と称されたものに近いのかもしれない。
しかし、「心のつながり」哲学として見て実践するなら、本質は意外にシンプルなのではないだろうか。
人間が好きだから? 他人まで愛しているから? 民衆全体の幸福を防衛する正義のため?
そんな理屈は劣位に置いていいのだろう。
私という個体は単に、「心のつながりが一番大切だと思う」動物として、自らの生を全うする道の心地良さを選択しているのだ。
もちろん、こういった思想哲学が少しでも世の中に広がっていけば嬉しい。
逆にそうでなければ、「反グローバリズム」なんて実は一歩として実践できていない。
弱者が自分や自分達の利を防衛しようという考え方では、防衛できない。永遠に政権やメディアを罵りつつ沈みつづける。
だから私は、人工知能による支配構造が確立していく現代において、「心のつながり」が一番大切だと思う世界観へと、人類が開眼してほしいと考えている。
こういう訳で私は、「心のつながり」が一番大切だと思っているのだ。
実際にやることは至極ナイーブであっても、その裏側にはこういった知的論証の強度が存在する。
それを言語化することによって、その強度を外部化し、微力ではあるが、言わばイデオローグとして人類の戦いを支援している。
あるいは単に、自分だって忘れてしまうだろう今の自分の感覚を、メモとして覚え書きしている面もある。
「心のつながり哲学」って何だっけ?、と思ったならば、ここに書かれたことが今日の私の思いだということだ。
「心のつながり」とは言っても、その感覚をどこまで言葉にできているかは、わからないけど。
私は、砂漠に生まれた砂漠の生き物。
何も問題ない。砂漠にだって生き物はいる。




