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 小高い丘の上、隠れた絶景スポットとして知られているらしいこの場所からは、街の灯りが一望できた。


 暗闇を背景に、暖色の光を放つビル群が眩しく浮かび上がっている。その中でも、一際目を引くのは街のシンボルでもある超高層のタワー。世界有数の高さを誇るというその巨塔は、青や赤の光を散らしながら、夜空に突き刺さるようにそびえ立つ。

 遠くを走る幹線道路は、途切れることのない車のヘッドライトで白い帯を描き、川沿いにはオレンジ色の街灯が規則正しく並んでいた。


 夜空の星を地上に落とし込んだと言わんばかりの壮観な光景。

 大して外に出ず、狭い部屋の四角い画面ばかりを見てきた俺にとって、この瞬間はあまりに鮮烈だった。 グラフィックがどれだけ凝ったゲームでも味わえない、現実の光の奔流がそこにあった。


 冷たい風に頬を打たれ、遠くのざわめきが耳に届き、眼下で瞬く光が網膜に焼きつく――その全部が生きている実感を伴って迫ってくる。

 

「もう十一時だって言うのに。ブラック企業って、案外多いのね」


 感動に浸っていた俺を現実に引き戻す、抑揚のない声。

 夜の闇のように深い長髪をなびかせ、高柳さんは木製の柵にもたれかかる。

 街並みを見つめるくすんだ赤い瞳は、どこか虚ろで、冷たく白けていた。


「あはは......」

 

 返答の代わりに、ぎこちのない笑い声を漏らす。

 正直、俺は落胆していた。


 せっかく事前に場所を調べ、この通りの絶景を見せたというのに、高柳さんは喜ぶどころか、いつも以上に冷めた表情を浮かべている。 

 単純にショックだったというのもあるが、嘘でも構わないから一つくらい好意的な反応を見せてほしいという不快感の方が、心の中で大きく膨らんでいた。


 互いに口を開かないまま、気まずい沈黙の中で時間だけが過ぎていく。

 それから五分も経たない内に――


「帰りましょう。もう充分だわ」


 高柳さんは吐き捨てるようにそう言うと、柵から身を離した。俺を待つ気配もなく、さっさと来た道を引き返していく。


 残された俺の胸に、ただ一つの問いが渦を巻く。


 ——このままでいいのか?


 いいはずがない。

 今日一日、何一つとして思い通りにならなかった。

 高柳さんは、笑顔を見せるどころか、ずっと退屈そうな顔をしていた。

 

 やはり、最初からネットの記事なんかに惑わされず、自分の考えを貫くべきだった。

 そんな後悔が、今になって胸の奥からじわじわと込み上げてくる。

 とはいえ、他人の意見を参考にしたとはいえ、最終的に選択をしたのは紛れもなく俺だ。

 それに、この日のために必死で準備を重ねてきたという事実に、嘘はない。


 ——だからせめて、最後までやり切ろう。


「高柳さん!!」


 反射的に声が出ていた。

 背中がびくりと揺れ、彼女の足が止まる。


「......なに?」


 怪訝そうな声に、喉の奥が見えない手で握り潰されるように狭まった。

 それでも、ここで引くわけにはいかない。


「あの、その......渡したいものがあるんだ」



ーーー



「林太郎、ご飯できたわよ。早く降りてきなさい」


 下の階から母親が呼びかける。

 

「......ちッ」


 思わず舌打ちが出てしまう。

 どうして、親というのは全ての物事を自分のペースで進めたがるのだろう。

 人にはそれぞれの適正な速度やタイミングがあるということを、まるで理解していない。


「あっ」


 その瞬間、筋骨隆々のプロレスラーのラリアットを受け、赤いチャイナドレスに身を包んだ美少女の体が宙を舞った。

 画面には大きく『You lose』の文字が浮かび上がり、レートの数字が勢いよく減っていく。


「クソッ!!」


 反射的に机を叩きつける。力が入りすぎ、手にじんと痛みが走った。

 全部、あのクソババアのせいだ。

 アイツが変なタイミングで急かしてこなければ、この対戦にも勝てていたし、俺が痛い思いをすることもなかった。


 むしゃくしゃした気持ちをぶつけるように、電源コードを乱暴に引き抜く。

 しかし、画面が暗転してもまだ苛立ちは収まらない。


 ——牛丼でも食いに行くか。

 ストレスが溜まった時には、ジャンクなものを摂取するに限る。

 

***


 家から歩いて十分ほどの、行きつけの牛丼チェーン。

 行きつけとは言っても、特に味が抜群というわけでも、値段が安いというわけでもない。

 だが、家からそこそこ近く、注文や会計をすべて機械で済ませられるのが何かと便利だった。


 奥の方の二人席に腰を下ろす。

 周りにはほとんど客の姿はなく、厨房のざわめきだけが静かに響いていた。


 席に設置されているタッチパネルを操作して、”ねぎ玉牛丼”のメガ盛を注文する。

 この空き具合なら、五分もしないうちに注文の品が運ばれてくるだろう。 

 待ち時間を潰すため、スウェットのポケットからスマホを取り出して、画面をスクロールする。

 

 SNSのタイムラインを眺めていると、目に飛び込んできたのは、ブサイク陰キャの自撮り画像。

 画像に添えられた『初めて美容室で神切った。めちゃ良い感じ』という文章がなんとも笑いを誘う。

 叩いて下さいと言わんばかりの醜悪な髪型と顔、それを自撮りしてネットに上げる承認欲求、『神切った』などという使い古された表現を恥ずかしげもなく使うユーモアセンス。すべてがちょうどいい。

 

 『1000円カットを美容室とは言いませんよ』

 そう返信欄に打ち込んだ時、胸がすく思いがした。

 ”完全な下位互換”を見下している時間ほど、楽しいものはない。

 

 その時だった。

 目の前の通路を人が通ったような気配がした。

 顔を上げると、グレーのレディーススーツに身を包んだ、黒髪を一つに結んだ若い女がそこにいた。

 

 目鼻立ちは整っているものの、瞳に光はなく、生気が感じられない。その姿には、“会社疲れ”という言葉がよく似合った。

 にもかかわらず、スーツの胸元は今にもはち切れそうなほどに張っており、タイトスカートの下から覗くふくらはぎにも、程よく肉が付いている。 


 ——エロいな。

 俺は無意識の内に、その後ろ姿を目で追っていた。

 するとその女は、俺との間に一つ空席を挟んで、右隣のテーブルに腰を下ろした。


 こんなに席が空いているのに、女はわざわざ俺の近くを選んだ。

 ということはだ。

 少なくとも俺に対して嫌な印象は持っていないのだろう。

 もしかすると、多少なりとも好意的な印象を抱いているのかもしれない。


 そんな事を思いながら席に着いた女の方を眺めていると、タッチパネルに手を伸ばそうとしていた女が不意にこちらへと目線を向けてきた。


 切れ長で大きな目と視線が合う。

 その赤黒い瞳は、見る者を沼に引きずり込むかのような妖しさを感じさせた。


 そこで、はっとした。

 ジロジロと見ていたのがバレたのかもしれない。

 近くの席に座ったからと、つい調子に乗りすぎた。


 だが、ここで慌てて目を逸らせば、かえって不自然に見える。

 どうにもならなくなった俺は、観念してそのまま視線を合わせ続けた。


 女は表情ひとつ変えず、じっと俺を見つめ続けた。

 数秒間、視線だけが絡み合う沈黙が続く。

 やがて、女は何事もなかったかのように、目をタッチパネルへと戻した。


 その様子を見て、俺は確信した。


 この女は、俺に一目惚れしたのだ——と。


 たまたま目が合ったのであれば、すぐに逸らせばいい。

 それを、わざわざ何秒間も見つめてきたのだ。これを好意の表れと言わずしてなんと言おうか。


 自分で言うのもなんだが、俺はそこまで顔が悪いわけではない。

 今までモテたことはないが、それはメイクだの髪いじりだのといった女々しい真似をしなかったからだ。 

 素材だけでいえば、低く見積もっても上の下くらいはある。

 

 つまり、女に一目惚れされるくらいのことは、俺にとって別に不思議な話ではない。

 

 彼女候補として、改めて女の方を見てみる。

 ——悪くない。というよりか、むしろアリだ。


 まず、見た目はかなりいい線をいっている。

 特に黒髪なのと、細身のわりに出るところはちゃんと出ているのがいい。

 あえて欠点を挙げるなら、俺より背が高そうなところか。理想を言えば自分より小柄な方がいいが......まぁ、妥協できなくはない。


 それに、性格も今のところ見てとれる範囲では、決して悪くなさそうに見える。

 まず、大人しそうなところがいい。キャピキャピしたタイプは色んな意味で嫌いだ。

 それと、オタクっぽい雰囲気があるのも地味に高ポイントだ。ア○ドロイドのスマホを使っているあたりに、その気配を感じる。


 総合点でいえば、九十点くらい。

 正直、かなりの高評価だ。

 

「お待たせしましたー、ねぎ玉牛丼のメガ盛でーす」


 そんな事を考えていると、時代遅れのシイタケ型の刈り上げマッシュヘアーが、俺の机に牛丼を置いて行った。

 

 ——ここは一つ、俺の男らしさでもアピールしておくか。

 

 どんぶりを左手に抱え、口いっぱいに牛丼をかきこむ。

 当然、このままでは飲み込めないので、コップの水で無理やり胃に流し込む。

 

 かきこみ、流し込む。かきこみ、流し込む。かきこみ、流し込む。かきこみ、流し込む。


 食べ始めてから三分も経たないうちに、俺のどんぶりは空になった。

 大食いかつ早食い。我ながら、なかなかかっこいいところを見せられたと思う。

 

 反応を伺うように右隣へ視線を向けると、女はやはりこちらをまじまじと見つめていた。

 表情は相変わらず変わらなかったが、内心では俺の勇姿に見惚れているに違いない。

 

「あの」

 

 脳内で自画自賛に浸っていた俺の意識を、息交じりの澄んだ声が引き戻した。

 どうやら声の主であるらしい右隣の女は、たしかにこちらを向いている。勘違いではないらしい。


 突然の出来事に心臓が跳ねる。

 何と返せばいいのか分からない。親以外の人間と会話するのは、三か月ぶりだ。

 まごつき挙動不審の俺をよそに、女はすっと立ち上がり、一枚の紙を差し出してきた。


「これ、私のIDです。もし興味があったら後で連絡ください」


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