第七章
「ついにここまできたな……」
カンとメイは、スマートAIを介してとあるウィンドウを視覚に共有していた。それは、ムーサのインターフェース情報だった。試行錯誤を繰り返し、ムーサは漸く一定レベルのパフォーマンスが出せるところまで到達した。
「でも、このままだとまだ不完全ですよね。ユーザーからのリアルタイムフィードバックがないと、これ以上のチューニングは難しい」
メイが冷静に分析する。彼女の言う通り、現段階では開発者側の想定範囲内でしか機能しない。真の創造性とは、想定外のイマジネーションから生まれるものだ。
「誰かにインストールしてもらって、実際の使用感を検証するしかないかなあ」
メイがため息混じりに提案する。
「だが、それは人体実験のようなものだ」
カンは眉を顰める。
臨床を行なう以上、本来は倫理委員会を通す必要性があるが、時間がかかる上、適任者をすぐに見つけられるとは思えない。
「そもそも、芸術分野に通じていて、スマートAIを既に移植していて、かつ私たちのモニタリングに協力してくれる人なんて、そう都合よく見つかるだろうか」
大学の関係者に頼むにしても、研究内容を伏せたまま説得するのは容易ではない。ましてや「人体実験」に等しい行為を素直に説明して同意を得るのは不可能に近いだろう。外部に募集をかけることも考えたが、時間とリスクの両面から見て現実的ではない。
その時、メイが突拍子もないことを口にする。
「じゃあ、私がやりましょうか?」
唐突の提案に、カンは息を呑む。
「バカなこと言うな。作った本人が実験台なんかになってどうする。お前は開発者として、ムーサの出力した情報を分析する必要がある。それに——」
その時カンは、咄嗟に言葉を喉に詰まらせる。それを聞いたメイは「それに?」と訊き返して容赦無く続きを促す。
「……君の身に何かあったら、リンはどうなる」
カンの口からリンの名前が出たことに、メイは少し驚いた表情を浮かべた。
メイには、もう直ぐ八つになる連れ子の娘がいた。もちろんカンは、その事情も、その経緯も、きちんと了解した上でメイとの婚姻を決めた。カンが初めてリンと対峙した時、メイから受け継いだ艶やかな黒髪を見て、彼は二人の間に流れる血筋を確かに感じていた。当初はリンとの接し方に悩んだ時期もあったが、今では三人で平穏に暮らしている。
するとメイは、ふっと笑みをこぼした。
「ああ、そうでした。でも大丈夫ですよ。その時は、カンさんがリンの面倒、見てくれるんでしょ?」
メイは屈託のない笑顔でそう告げる。そのあまりの自然さに、カンは二の句が告げられなくなる。メイがそこまでカンを信頼していることが嬉しくもあり、同時に彼女の自己犠牲的な思考が恐ろしくもあった。
カンはしばし俯いて黙りこくり、考え込んでから、静かに口を開いた。
「………解った。だが、慎重に進めるぞ」
こうして彼らは、秘密裏に研究を続けることを決めた。ノートらには、実際の進捗よりもやや遅れていることにして研究成果を報告した。
カンの自宅の一室。そこには、本来であれば正規ルートで借り受けるべき医療設備が設置されていた。装置の中心にはベッドが一つ。そしてそこに横たわるのは、メイ。
「準備できたぞ」
カンはデバイスの調整を終え、最後の安全チェックを行なっていた。リンは、彼らのいる部屋から最も遠い場所に位置する寝室で大人しく眠っている。
「うん。それじゃあ、お願いします」
メイは既にスマートAIを通じて笑気麻酔のような状態に入っていた。目を閉じたまま、ベッドの上に静かに横たわっている。
カンは装置のコントロールパネルの前で深呼吸をした。
「これからムーサのβ版を、スマートAI経由でお前の頭にインストールする。インストールしてすぐに何かが起こるわけではないが、もし変化があったときには直ぐに報告してくれ」
「解った」というメイの返答と共に、カンはゆっくりとインストールコマンドを実行する。画面に表示されるプログレスバーが静かに進行していく。
一〇%。二〇%。三〇%。
現時点では、何の異常も無く進行しているように見える。カンは緊張で握り締めた拳が汗ばむのを感じながら、スマートAIが宙に映す無機質なウィンドウを食い入るように見つめ続けた。
「もうすぐ半分だ。何か身体に異常はあるか?」
メイにそう問いかけると、メイはいつもの柔らかい声で「ううん、何も」と答えた。カンは胸を撫で下す。
五〇%。六〇%。七〇%。
未だ、メイの肉体に目に見える変化は無い。
彼女の呼吸や心電図は正常値を保ち続けており、スマートAIから送られてくるデータにも異常を示すサインは無い。
「順調だ。後少しで終わる」
八〇%。九〇%。そして——一〇〇%。
その数字が表示されると同時に、プッシュ通知音のような電子音が拡張聴覚に届く。
「インストール完了だ。今の感覚はどうだ?」
カンは早口で問いかけた。しかし、メイの返答は無い。
「おい、メイ?」
カンは椅子から立ち上がり、メイの傍に駆け寄った。顔を覗き込むが、彼女の瞳は閉じられたまま。呼吸は安定し、血圧も正常だ。しかし、微動だにしない様子は明らかに異様だった。
「なんだ、何が起こっている」
カンは急いでスマートAIの診断ログを呼び出した。一行ずつ、そのログを詳細に目で追う。すると中盤あたりに、不可解なエラーが記録されているのを発見した。
【Unprocessable volume of inform(処理不能な情報量)】
【Excessive load on the brain(脳への負荷超過)】
【Inconsistencies in personality(人格データの不整合)】
それは、不吉な単語の羅列だった。
「どういうことだ、これは……」
彼は震える指で操作を再開し、メイの意識へ直接アクセスを試みる。スマートAIを通じて呼びかけるが、何の反応も帰ってこない。
カンは何度もメイの名前を叫びながら、必死に彼女の神経系データを精査した。そこで彼が目にしたのは、異常な情報量によって脳の神経細胞がオーバーフロー状態に陥っている兆候だった。ムーサが生成した情報がスマートAIのフィルタリング機能を突破し、そのまま脳に直撃した結果、処理能力を超えてしまったのだ。
「クソッ……」
カンは無力感に苛まれながら、どうにかしてメイの意識を呼び戻そうと試行錯誤を繰り返す。しかしその甲斐もなく、彼の手の施しようはどこにも見当たらなかった。彼女の生命維持機能が停止することはなかったが、結局その夜、メイが目覚めることもついぞなかった。
集中治療室のモニターが静かに彼女のバイタルを刻み続ける中、男は壁際に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。窓の外に満ちる春の陽気とは対照的に、室内には冷たい沈黙が漂っている。
カンの姿は酷くやつれ果てていた。目の下には濃い隈が刻まれ、頬はこけ落ちている。白髪が増えた頭皮を掻き毟りながら、彼は虚ろな瞳で天井を見つめ、十秒おきに溜息を吐く。
もう、十日ほど、そうしていた。
彼は自責の念に苛まれ続けた。飯もろくに喉を通らず、声もろくに発さず、ただ無為に時間を浪費するばかりだった。
その後、メイは一度も目を開いていない。主治医の話曰く、メイは植物状態——自発的な呼吸は可能だが、意識は失われている状態だという。回復の見込みはゼロではないが、ムーサによる脳への影響は未知数の部分が多く、現時点では手の施しようが無いとのことらしい。
あの日から、彼が後悔しない日は無い。もしあの時、メイの提案を断っていたら。もしあの時、もう五分だけでもコマンドの見直しを続けていたら。もしあの時、倫理委員会に話を通していたら。もしあの時、十分な医療設備を整えていたら。彼が行なういかなるシミュレーションも、その先にはメイが今日も柔らかく笑う未来が続いていた。自らが下した一つひとつの愚かな選択が、彼自身を最も惨憺たる平行世界へと導いたことに、もう笑いさえ込み上げてきそうだった。
その時、病室の扉が控えめなノック音と共に開く。その音に、カンはゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、眼鏡を掛けた中年の紳士。それからその横には、小学生くらいの女の子がいた——ノートと、リンだった。
ノートは沈鬱な表情を隠そうともせず、病室に踏み入れた。
「失礼するよ、カンくん」
そう言って、一息置いてから「漸く、君に会えた」と付け足した。
ノートの言葉にカンは何か反応を示そうとするが、どんな言葉を発しても、どんな動きを起こしても、それが酷く不正解のように思われて、結局どうすることもできなかった。自分の元へ歩いてくる二人に、彼は目を合わせることさえ叶わず、ただノートの胸の辺りを見つめていた。
リンは、母の枕元へ恐る恐る近づいて、その手を握り、それから「ママ」と呼んだ。彼女の声は透き通っていて、けれどひどく震えているのが判った。そうして何度か呼びかけ、大声で泣いた。号哭と言うに等しかった。リンの発する言動の全部が、清々しいくらいに激しくカンの心を抉った。心臓の表面を掻きむしりたい衝動に駆られた。自身の胸に包丁を突き刺す方がよっぽど楽に思えた。リンがメイの身体を揺らす度、メイの黒髪に一筋走るルビーの色がサラサラと流れた。カンにはそれが、自身の浅はかな行動を責め立てるメイの血涙と見紛えた。
ノートは、泣き叫ぶリンを抱きしめてその小さな頭を優しく撫でる。随分と長い間、そうしていた。
やがてリンが少しばかり落ち着きを取り戻すと、ノートは立ち上がってカンの元へ近づく。「彼女たちを二人きりにさせてあげよう」と言って、カンを病室の外へ促した。病室の扉を引く彼の手と逆の手には、一封の茶封筒が携えられていた。
外の休憩スペースに二人腰掛け、しばらくの間無言が続いた。最初に沈黙を破ったのはノートの方だった。彼は静かに口を開く。
「……君には伝えておく義務がある。今回の件は、大学側でもかなり深刻に捉えられている。君たちが行なった違法実験によって、一名が重篤な障害を負ったことは明白だ」
カンは顔を背けたまま小さく頷く。弁明する気力すら湧かない。ただ、「当然だ」という感情だけが胸中に渦巻いていた。
「この件に関して、大学は先日、君の処分を決定した。今日はそれを伝えにきた」
ノートはそう言うと、例の茶封筒をカンに手渡した。彼はそれを無言で受け取る。中身を開くまでもなく、処分内容は火を見るより明らかだった。
彼は緩慢な動きでそれを開く。そこには、ただ一枚の薄い紙が封入されていた。彼は一つの動揺もなくその文書に目を通す。
『貴殿による当該研究活動に関する一連の行為について、厳重注意をもって学内処分を免除し、これをもって本件に関する一切の学内手続きを終了とする。本件の経緯及び特殊性、並びに貴殿がこれまで本学にもたらした学術的な貢献を総合的に鑑み、この度の決定に至った。』
カンは、その文言を三度読み直した。また、目をしばたたかせた後で、もう一度だけ読み直した。
「……これは?」
カンは思わずそう漏らす。その声は十日ぶりさながらの掠れ具合であった。
彼の問いに、ノートはあくまで淡々と答える。
「……大学側は、今回の件をもみ消すことにした」
ノートの発言が、カンには理解できなかった。
「そんなことが、あり得るのか」
「私の方が君よりよっぽど、大学側の判断を信じられない」
ノートは苦虫を噛み潰したような表情でそうこぼした。
「まあ、彼らの心情自体は理解できないでもないがね。つい昨年、崇高な理念を掲げて破天荒な合併を成し遂げたばかりの大学が、早速不祥事を起こしたとなれば、その社会的信頼とブランドイメージは地に落ちる。件の合併話は〝研究史上稀にみる汚点〟としての扱いを受け続けることになるだろう」
ノートは腕を組んで言った。
「もちろん彼らのやり方には賛同しかねる。が、少なくとも彼らは、学長に至るまで皆私よりも遥かに老獪だ。一介の教授が如何に抗議しようと、この決定が覆ることはもうあり得ない」
カンは暫くの間沈黙する。呆然とした表情で手元の文書を見つめていた。怒りも失望も感じない。ただ全てが現実離れしていて、まるで遠い宇宙で起きている出来事のように思えた。
絞り出して漸く呟いた言葉は、「そうか」という一言だけだった。
「とにかく、大学がこのような判断を下した以上、私が君をどうこうすることはできない。君は依然としてQIラボの学生だし、研究者だ。この先は君の好きなようにすればいい。君がどうしようと、私はそれを拒みはしない」
ノートはそう言いながら立ち上がると、「それと……」と言葉を繋いだ。
「メイくんの娘さんの件だが、彼女は一時的に私の方で預かるつもりだ。あくまで、君たちの友人としてだが。私は人の親にはなれないからね。だが今は、君にもその資格は無いと思っている」
その言葉にカンの胸は締め付けられる。当たり前だ。今の俺には、親になる資格どころか、人間としての資格もありやしなかった。
カンとメイは婚姻関係にあったが、カンとリンの間には未だ養子縁組が結ばれておらず、メイの障害によってリンには事実上親権者が不在だった。
「後日裁判所へ行って正式に後見人の申立てを行なうつもりだ。恐らく君にもいくつか書類にハンコを押してもらうことになるだろうが……それで良いかね」
カンに選択の余地は無かった。彼が小さく「ああ」と答えると、ノートは彼に背を向け、リンを連れて病院を後にした。
数日後、カンは自ら退学届を学校に提出した。彼の立場を考えれば、無理もなかった。メイと過ごした数少ない思い出だけを持ち出して、カンは仲間達の元から逃げ出した。それが、彼なりの贖罪だった。
カンがQIラボを離れてから一年ほどが過ぎた頃、彼は自室でいつものようにプログラムを組んでいた。
あれ以来彼は大学の名簿から姿を消したものの、裏ルートで入手した情報を利用して研究活動を続けていた。研究と言っても、その目的は〝心の所在〟の探究などという崇高なものではなく、むしろ卑劣とさえ言えるものだ。彼が取り組んでいるのは、自身の記憶に介入してメイに関わる一切の存在を抹消し、過去を偽造する法の模索だった。
カンが一息つこうと席を立ったその時、彼のデスクに、突然一輪の花が咲いた。机の一部は土壌となり、ピンと直立した茎が伸びていて、そこから複数本のすらりとした緑草の頭が放射状に外側へと項垂れ、ついには蕾が綻んで鮮やかな橙色がまるでそれ自体光を伴っているようにそこの空間を照らした。
花びらは、一枚ずつが百合よりもひどく外側に巻き込まれ、中心から雄蕊が空へと昇っていきたいように伸びている。
カンは思わず息を呑んで、その一輪をじっと眺めた。彼の無機質だった机上は今や、世界で最も美しい場所のように思われた。
名前も知らないその花に彼がすっかり夢中になっていた次の瞬間、花びらが一枚地面に落ちた。彼は思わず「あ」と声を漏らす。花びらは、次々に、萎むように朽ちては土壌にその身を落としてゆく。そうして最後には、花の全部が腐り果ててしまった。今やそこには無数の小蠅が集っている。一転して、そこはこの世の醜悪を象徴したような空間へと変貌していた。
彼は思わず目を背けたくなる。しかしそうするより先に、その無数の小蠅が、彼の顔を目掛けて一斉に飛びかかってきた。
「ああ、あああ」カンは生まれかたら一度も発したことのないような奇声を上げて、同時に全身の毛穴という毛穴に鳥肌が走り渡った。
彼は両手を顔の周りで必死に振りながら自室を飛び出す。その際机の端に脚をぶつけて、机上に設置されていた照明器具の倒れる音がしたが、カンの耳には届かなかった。
彼は腰が抜けて上手く立ち上がることも叶わず、フローリングを這いずりながら風呂場へと向かう。手探りでシャワーヘッドを手に掴み、その冷たさも知らないまま一思いに頭めがけて水を吹き出した。
シャンプーで三度髪を洗って、彼は漸く目を恐る恐る開く。あまりに強く瞑っていたので、目に映るものの全てがしばらくの間紫色に染まっていた。
少しばかり冷静さを取り戻したカンは、風呂場を出て、恐る恐る来た道を戻る。幸いにして、リビングまでの道中には小蠅は見当たらなかった。
彼は頃合いの殺虫剤を手に取って、手前に構えながら自室に近づく。そのままドア軽く押してわずかな隙間を作ると、間髪入れずにそこから殺虫剤を噴射した。上方から下方まで、背伸びしたり屈んだりして徹底的にガスを室内に充満させた。
やがて噴射音が止まると、彼は洗面所から持って来た突っ張り棒を使って、できるだけ離れた位置からドアを押した。そうして部屋の中を覗いてみる。が、そこには何の怪しさも漂っていなかった。小蠅のような浮遊物は一切見られず、それどこかその死体や、先ほどまで咲いていた花の残骸も無い。今やそこは、何の事件性も感じられないただの平凡で無機質な空間に戻っていた。
カンは困惑し、一体自分の身に何が起こったのかを考える。もっとも、そうするのとほとんど同時に、彼の脳内には一つの答えが浮かび上がっていた。これは、スマートAIの影響によるものに違いなかった。
その夜、カンはメイの病室へ訪れることにした。彼女に会うのはひと月ぶりだった。
例の一件以来、メイの容態にこれといった変化は無かった。生命維持機能は相変わらず保たれているし、意識は相変わらず戻らないままだ。
ただ、あれから新たに判明したこともあった。一ヶ月半ほど前、彼女の脳が一時的に高負荷な状態に晒されていたことが発覚したのだ。それは、脳に何か異常な情報処理が生じている証拠だった。もしかしたら、カンが行なった実験の副作用の一つなのかもしれない。いや、むしろそう推測することの方が自然だった。
そこから一週間ほど、病院は彼女の脳の状態をモニタリングし続けたが、特に不審な点は見られなかったという。
彼女をそんな状況に陥らせたことに、カンは未だに胸を痛めていた。
病室に入ると、彼はメイの傍に座って彼女を見つめる。カンにとっては久方ぶりの再会だったが、メイはあの日から時が止まったように眠ったままだった。それでもカンは彼女に語りかける。
「……久しぶりだな、メイ」
返事は無い。ただ傍にある心電図モニターがリンの鼓動に合わせて波打つばかりである。この静寂に、カンはまだ慣れることができない。
メイと過ごした記憶の全てにおいて、彼女は笑顔を絶やさなかった。映画史に残る名作を夜な夜な鑑賞した日、エンドロールが流れて二人顔を見合わせた時も、彼女は泣きながら笑っていた。あの時メイは、何を思っていたのだろう。自分が実験台になると言い出したあの時、本当は、何を考えていたのだろうか。最後に自分の力で口を動かした時、どうして彼女は笑っていられたのだろうか。
その問いに対する答えを聞くことは、もはや叶わない。メイの痩せこけた寝顔を眺めていると、そのことが新鮮に骨身に沁みて、その度にカンは胸が締め付けられるのだった。
「俺は今朝から、自分の頭の中がどこか痒い気がするんだ」
カンは、その日の朝体験した不気味な現象のことを思い出していた。今日の一日だけで、もう幾度となくその光景が脳裏にちらついていた。その度に、何か悪い夢を見た時のような後味だけが残った。
「お前は今、どんな夢を見ているだろう。幸せな夢なら良い」
彼は切にそう願って、メイの頭を手のひらで柔らかく包んだのだった。
そろそろ帰宅しようかと考えていたその時、病室の扉が開く音が聞こえた。見上げると、そこには一人の少女がすっかり立ちすくんでいた。カンが驚きの声を上げるより先に、彼女の透き通った声が聞こえた。
「おとうさん」




