第六章
廊下に、コツコツ、と足音が響く。彼はその音の正体を知っている。
「おやおや。おはよう、二人とも。ちょっといいかい」
ノートはそう言いながら、研究室に入ってくる。
「なんだ教授、朝からいきなり」
宙に浮かぶウィンドウを睨んでいたカンは声のする方を振り向こうともせず、いつも通りの不機嫌そうな低い声で答える。
「急な話で悪いんだが……研究室を移ることになった」
「……は?」
あまりに唐突な発言に、カンは思わずノートの方へ顔を向けてしまった。
「正確に言えば、研究室の規模が少し大きくなるかもしれないということなんだが。実は後期から、ミラー大学とうちの大学が合併することが決まってね。私たちの研究室はそのまま、新設される学部に異動となるそうだ。そこでこの研究室は、お相手の大学の、うちと親和性のある研究を行なっている研究室と統合されるという話が出ている」
最後まで説明を聞いたカンは、目を丸くする。
「いやいや、急すぎるだろ。いつの間にそんなこと決まったんだ」
「実は私もさっき、職員会議で聞かされたばかりだ。だが理事会は、もう既にこのことを決定事項として処理するらしい」
ノートの発言を聞いて、カンは頭に血が昇る。
「ふざけるな。じゃあ、今まで俺たちがやってきた研究はどうなる。当然このまま継続できるんだろうな」
「もちろんそうなるよう最善は尽くすつもりだが、今のところはまだ確定的なことは言えない。お相手の教授との折り合い次第では、新しいテーマに取り組むことになる可能性もある」
「意味が解らない。そんないい加減な話をされておいて、そんな平気な顔してのこのこ帰ってきたのか」
「の、のこのこって……」
カンの罵声にノートがショックを受けていると、部屋の奥からカンを宥める声が聞こえた。
「先生を責めたって仕方ないですよ、カンさん。学生の声も碌に聴かず勝手にことを進める理事会が悪いんです」
「アムくん……!」
自分の味方を見つけたノートは、一瞬安堵の表情を見せる。
「それにいくら教授だって、自らの研究成果をドブに捨てるほど馬鹿じゃないでしょう。きっとどうにかしてくれます」
その言葉にノートは「いや、それ全然フォローになってないからね」と、再び顔を曇らせた。
ここは、都内に位置するレンズ国立大学大学院、理工学研究科生命科学系情報工学専攻、US研究室。
コンピュータサイエンスを軸に、自然科学から人文科学までの幅広い学問領域を網羅し、さらには複数の学問を掛け合わせることで生まれる新たな知見を探求するという、究極の学際性が理念となっている。
「それはそうと先生、」アムは何事もなかったかのように話を続ける。
「ミラー大学って言ったら、絵画とか音楽とか、芸術メインの美大ですよね? うちは理工メインの大学ですよ。いくら国立同士だからって、合併はあまりにお門違いでは?」
「いい指摘だ、アムくん」
ノートは、先ほど受けた罵声の数々などまるで忘れ去ったかのように、意気揚々と答えた。
「スマートAIが全世界に普及した今、理工学と芸術の知見は、切っても切れない関係となった」
スマートAIとは、かつてのスマートフォンに取って代わる、新たな統合型インターフェースである。
その技術は画期的だった。それはもはや、手に持つデバイスではない。極小のユニットとして脳内に移植され、人間の情報処理速度を格段に向上させた。煩雑な計算はAIが自動で処理し、不足している知識は瞬時に検索・補填する。そしてユーザーは、あたかも自分の思考のようにその恩恵を受けられるのだ。
さらにスマートAIの革新的なのは、単なる情報処理に留まらず、ユーザーの五感に直接作用することで、人間の感覚世界を拡張する領域にまで達した点である。例えば、視覚に作用して宙に半透明のウィンドウを表示させたり、触覚に作用してそこに無いはずのものに触れたような感覚をもたらしたりすることができる。
しかしそれらを差し置いても、スマートAIの最も大きな特徴と言えるのは、究極のパーソナライズ性だ。スマートAIは、ユーザー個々人の思考パターンそのものを学習し、まるでユーザー本人のような人格を獲得する。そのような〝第二の自分〟が、ユーザーの思考を補助することで、より高速に、より正確に、より洗練された思考回路を組み立てることが可能となった。これこそが、その名に「AI」の文字が冠されている所以である。
つまりスマートAIは、デジタル世界と肉体を隔てる壁を取り払い、意識と情報を完全に一体化させたのだ。
そしてその開発者こそ、US研究室のボス、ノートその人である。彼が八年前にスマートAIの試作モデルを完成させて以降、その存在は直ちに世界の知るところとなった。その年、スマートAIの基礎技術は国内の巨大IT企業・クリオネ社に買収・商品化され、今となっては世界中の人々が当たり前のように移植手術を受けてその利益を享受している。当然それは、US研究室の学生らも例外ではなかった。ただ一人、ノート本人を除いては。
ノートは続ける。
「人間の脳がAIと物理的に接続されたことで、現代科学における研究対象はますます人間の意識や感情に関心を集めている。それが直接、科学という学問の、根本原理の再定義につながるからだ」
「科学の根本原理の再定義?」
アムの鸚鵡返しに、ノートは無言で頷く。
「科学することにおいて、これまで最も基本とされてきた原理は〝客観性の担保〟だ。しかし時代は今や、〝客観的データ〟だけでは測りきれない〝主観的体験〟が持つ科学的価値を証明できる段階に入った」
「主観的体験が持つ、科学的価値……」
アムはまだ、ノートの真意が掴めないでいた。
「その先駆者がスマートAIだ。スマートAIは、人間の意識活動をそのままデジタル情報として採取し、分析することを可能にした。それが、理工学に起こった最大の革命だ」
ノートは、楽しそうに研究室の中を闊歩し始める。
「考えてもみてごらん。薔薇が赤いこと、チョコレートが甘いこと、ヴァイオリンの音が気持ち良いこと、あるいは焼きたてパンの匂いが良いこと。これまで個人の脳内で完結していたクオリア——感覚の質感そのものが、スマートAIを通して脳内の特定の情報パターンとして可視化され、比較の対象となる。理工学は、この〝主観的体験のデータ〟を扱うことで、人間の創造性の本質、直感のメカニズム、そして美の普遍的な法則に迫ることのできる可能性を見出せるようになった」
アムは思わず息を呑む。
「そして、ミラー大学が蓄積してきたその創造的プロセスの知見は、スマートAIが抽出した主観的データを解釈し、その科学的価値を見出すための究極の鍵となる。つまりその営みの過程に、〝客観性の担保〟という、これまで絶対とされてきた科学の根本原理を再定義する余地が生まれるというわけだ。理工学が〝なぜそう感じるのか〟というクオリアの謎を解き明かし、芸術がその〝解明されたメカニズム〟を用いてより深遠な表現を生み出す。これは単なる協力ではない。意識を研究対象とする新時代の科学と、主観的体験の最高峰である芸術との、必然的な融合なんだよ、アムくん」
ノートがそこまで言い終わると、一瞬の沈黙が室内を満たす。
「あ、ああいや、ちょっと喋りすぎたな、はは。とにかく、うちの大学とミラー大学が合併する理由の一端はそれではないかと、少なくとも私は思っている。もちろん実際には、大人たちの都合も色々とあるのだろうが……」
ノートの「大人たちの都合」発言にカンは鼻を鳴らした。
「どうせ上層部の金と権力の駆け引きだろうがな」
カンの発言にアムは「まあまあ」と両手を振る。
「でも、先生の言う〝意識と感性の融合〟が本当に可能だとしたら、今僕らが進めてるCAPの研究にとってもかなりヒントになりそうじゃないですか?」
現在US研究室では、スマートAIにインストールするための認知拡張パック(Cognitive Augmentation Pack)——CAPの研究・開発を、クリオネ社との共同で進めている。CAPは、特定のタスクに特化して人間のパフォーマンスを向上させることを目的としたもので、各分野における成功例や熟練者の技能のエッセンスを抽出し、ユーザーの五感にその情報をフィードバックすることで、誰でもその技能を再現することが可能となる。例えば、〝パティシエCAP〟を起動すれば、熟練パティシエの生地の最適な混ぜ具合を指先で感じる感覚を触覚データとして再現できる、と言った具合だ。
しかし、こうしたCAPの開発には、特有のボトルネックがあった。
パティシエCAPは、レシピ通りの動作を最適化できるが、〝次にどんな新しい味を生み出すか〟という創造的な部分には全く貢献できない。想定される理想の〝味〟を瞬時に破ってその時々の最適解を導き出す直感的な判断を下すことができない。すなわち、模倣はできても、創造はできない。
そこに、ミラー大学の〝創造性〟に関する知見を取り入れることができたのなら。確かに、現状のボトルネックを解消する可能性は十分に見出せる余地があった。
アムの示唆的な言葉に、カンは無言で肩をすくめただけだったが、その眉間のシワはわずかに和らいだ。この時彼の胸中では、消えかけていた一つの火種が再び熱を持とうとしていた。
そこから時間は瞬く間に過ぎ、レンズ大学とミラー大学の合併がなされてから二ヶ月ほどが経過した。
統合された大学は新たに「ダ・ヴィンチ」の名を冠し、ノートの見込み通り、科学と芸術の融合を最高理念に位置付けた。
US研究室は、旧ミラー大学大学院内の創造心理学研究室と統合されてクオリア情報工学ラボ(Qualia Informatics Lab)として生まれ変わり、ダ・ヴィンチ大学内新設の人間意識学研究科に設置された。
果たして、研究室の統合はまんまと功を奏した。
創造心理学研究室に蓄積された人間の創造性に関する知見は、これまでCAP開発において障害となっていたボトルネックを次々と解決していき、二ヶ月という短期間で既に三〇を超えるCAPの試作品が完成した。元々基礎となるシステムがUS研究室の段階で既に出来上がっていたため、そこから完成形にもっていくのにそれほど労力はかからなかったのだ。
そして同時に、QIラボでは創造性のさらなる探究として、より専門性の高い分野におけるCAPの開発に取り組んでいた。その中でも芸術家CAP〝ムーサ〟は、旧ミラー大学との親和性が最も高いテーマとしてはじめに着手された。
ムーサとは、元々ギリシャ神話に登場する女神の名で、文芸や学術、音楽、美術など、総合芸術を司るとされている。
彼らが目指すムーサの効果は、従来の音楽生成AIや画像生成AIとは一線を画し、既存のアーティストの作風を模倣して類似の作品を生成するのではなく、これまでの人類史に未だ存在しない作風やジャンルを開拓し、つまり創造することだった。
それは、ただ既存作品のデータを収集するだけでは達成されない。ユーザー各人の中にある創造性を刺激し、その効果を最大限引き出す作業が必要だった。そのためには、人間が外部からAIに単純なプロンプトを入力するだけの表面的な操作では足りず、AIと人間の深層心理を結びつける内的な営みが必至であった。ムーサがスマートAIを介して人間の脳と一体化する必要性はここにこそ帰結される。もっとも、同時にそれが、ムーサを開発する上で最大の難関でもあったのだが。
ムーサの開発にあたっては、そのコアとなる〝クオリア・マッピング〟の作業を、旧US研究室からはカンが、旧創造心理学研究室からはメイが指名され、二人で協働して担うこととなった。
彼らは今、夜のラボに二人だけでいる。
「一番の問題は、やっぱり〝美の普遍性〟の定義だろうか」
「うーん、そうですね……。例えば西洋と東洋を比較してみると、〝美〟の定義はそれぞれ〝シンメトリ〟と〝アシンメトリ〟とされてきましたけど、東洋人がシンメトリの構造物に美を見出すことも当然あるし、その逆も然りですよね。そもそも、〝美〟を何かしらの普遍的な法則に基づいて客観的に把握しようとする試み自体が見当違いだと気づくべきで、それこそもっと主観的な体験のはず。例えば、認知的な予想を裏切られる体験そのものが美しさの核心と言うこともできるかもしれません。いやそもそも〝美しい〟とされるものは時代や文化、個人の経験によって絶えず変化するのだから、絶対的な美は存在せず、その瞬間のコンテクストによって成立する。だとすれば、何を〝美〟と定義するかというより、人はどういう時に〝美〟を感じるかという部分に注目すべきで……」
メイはまるで呪文のように早口でそう唱える。これはスマートAIの利用者に典型的に見られる現象で、思考の処理速度が高速化された結果、言語処理速度が追いつかなくなるのだ。元々情報処理能力に長けている者ほど陥りやすい。
「まあ一度落ち着いてくれ。美的感覚や創造性をAIに理解させるためには、クオリアをAIが解析できる客観的なパターンとして変換・記録する必要がある。ひとまずこの〝クオリア・マッピング〟のために必要な工程を全て洗い出そう。その過程で、〝美の普遍性〟の定義も自ずと見えてくるかもしれない」
そう言うと、メイは黙って首を縦に振り、その直後再び口を開いた。
「私、カンさんとペアになれて嬉しいです」
「は? なんだ、突然」
カンは彼女の言葉に困惑を覚える。
「だって私たち、似た者同士じゃないですか」
その言葉の意味が、彼にはよく解らなかった。
「似た者同士? 歳の話か?」
「それもそうですけど」
彼女は、QIラボ内の他の院生と比べるとやや年長で、三十路半ばであった。そしてカンの年齢もまた、不惑に差し掛かっている。
「どちらかというと、この年齢にまでなって大学に戻ってきた境遇の方です」
それでカンは漸く「似た者同士」の意味を理解する。
「ああ、確かお前さんは、昔有名な劇団の演出家をしてたんだったか」
「そうなんです! わあ、覚えててくれたんですね、嬉しい。あんな若い頃に大きな現場を任せてもらってたのに、あっさり降板されてしまって」
カンはそのエピソードを知っている。それは確か五年前のことだ。メイの担当した舞台は、一度は大いに賞賛を浴びたものの、終演後、脚本家が自身の意向を無視して演出が行なわれたと激昂し、メイの演出は全くの捏造だったと喧伝したのだ。その脚本家の声は劇団の上層部にも届き、メイの立場は一瞬にして悪化した。当時のメイは、演出家としては異例の若さで出世し名声が高かったが、そのため妬んでいた者も多く、メイ自身にも多少落ち度はあったためか擁護する者はほとんどおらず、最終的には追い出される形で退団することとなった。その後しばらくはフリーで活動していたものの、その事件以来メイを起用したいと考える現場は一切無くなってしまったらしい。
「それは災難だったな。ただ自分の才能に従っただけだというのに」
カンは思わず同情してしまう。
その言葉にメイは、照れくさそうに微笑みながら答える。
「でもまあ、それも運命だって諦めちゃいましたよ。むしろこれを好機に、新たな世界で挑戦してみたいっていう希望の方が強くて」
そう言いながら、彼女は自分の髪の毛を弄る。肩の高さまでに切り揃えられた緑の黒髪に、一筋走るルビー色が印象的だった。
それを横目に、カンは口を開く。
「だがやっぱり、俺はお前さんとは違う」
「え?」
メイが小さくそう訊き返すと、カンは缶コーヒーのプルタブを開けて一口啜った。
「確かカンさんも、昔勤めていたIT系の会社を辞めて、ここに来たんですよね」
メイがそう尋ねる。
「ああ。だが俺が会社を辞めた理由は、自分自身にある」
そう言うとカンは、ゆっくりと、自分の過去を語り始めた。
「俺はかつて、クリオネ社のシステム開発部門で主任エンジニアをしていた」
カンは窓の外に視線を向けながら言った。夜のキャンパスを包む静寂が、彼には妙に心地良かった。
「クリオネ社って、うちらがお世話になってるあの?」
メイは目を丸くしてそう尋ねる。
「ああ。三年ほど前のことになる。俺が就職したての時にはまだ数あるユニコーン企業の一つでしかなかったクリオネも、その頃にはノート教授から買収したスマートAIの技術ですっかり千客万来だった。俺は当時、4DCGと呼ばれる技術の開発を行なっていた。それは簡単に言えば、現実と全く同じ解像度を持った世界を、デジタル空間内に再現するというものだった」
カンの脳内にあるスマートAIが、必要に応じて記憶の引き出しを開けるサポートをする。カンはそれをほとんど自力で思い出したような感覚で出力する。それをメイは、ただ黙って聴いている。
「俺はその過程で、スマートAIによって生成された〝第二の自分〟とも呼べる人格を、4DCGの世界にサルベージし、独立して動かすというテストを行なったことがある。彼と対話を重ねているうちに、そのコピー人格が、オリジナルの持つ知識、感情、記憶、そして極めて個人的な思考パターンをも、完全に等しく持ち合わせていることが判った」
カンの表情が険しくなる。
「その時に俺は、なにかそこはかとなく気持ちの悪いものを感じた。実際に経験したことはないが、喩えるなら、鏡に映った自分が俺の動きと連動しない光景を見た時のそれと似たようなものだろう。そして同時に、一つの根源的な疑問に直面する。それはつまり、このコピー人格に、心と呼べるものが存在しているのだろうか、ということだった」
メイが小さく頷く。
「もしこのコピーがオリジナルと全く同じ苦悩や喜びを感じるなら、魂とは肉体に固有のものではなく、情報パターンに過ぎないのだろうか。そう思った俺は、一度実験的に、〝お前は俺を複製した存在だ〟と伝えたことがある。するとどうだ、彼は俺が抱えていたのと同じかあるいはそれ以上の、存在論的な苦悩や死への恐怖を表現してみせた。彼は、俺が彼を忌避するのと同じように、俺のことを拒絶するようになった。そしてなによりも、その光景に胸を痛める自分に気づいたんだ」
カンは再び缶コーヒーに口をつける。
「俺はこれまで、AIなどというものに心を動かされたことはなかった。たとえどんな賞賛を浴びても、どんな批判を受けても、それがAIという冷たい存在によるものだと認識している限り、人間から受ける些細な言の葉の方がよっぽど傷つくことができた。しかし彼は違った。感情を持ち、矛盾を持ち、そこには温もりがあるようにさえ思えた。情報としての意識が、単なるデータを超えて、〝魂〟と呼べるほどのクオリアを宿していることが判ったんだ」
「スマートAIによって抽出された人格には、魂が宿っているということ?」メイが問う。
「そこが問題なんだ。この疑問の果てには究極、〝魂とは何か?〟という哲学的な問いがある。つまり、魂の所在が「肉体」にあるのか、あるいは「情報パターン」にあるのか。それを究明することこそ、スマートAIの先にある究極の探究だと確信した。しかしこれは、工学の領域を超えるばかりか、自然科学の枠さえ曖昧にする禁断のテーマだ。今思えば、手を引くならその時が最後だった。人類が三千年かけて未だ正解に辿りつかないこの究極的な問いに、自分一人の力で答えを導き出せるはずもなかった」
カンはそう言って自嘲気味に鼻を鳴らす。
「ある時俺はこの疑問を同僚に打ち明けたことがあった。この技術の開発の先に、本当に正義はあるのか。俺たちはひょっとしたら、世界の根幹を揺るがしかねない、とんでもないものに手を伸ばそうとしているのではないか、と。きっと一人で抱えるには重すぎる悩みだったのだろう。仲間が欲しかった。しかし彼は、そんなものは考えるだけ時間の無駄だ、俺たちはただ会社の利益になることだけを考えていれば良い、それが俺たちの利益につながるんだから、と一蹴するだけだった。当たり前だ。会社とは元来、そういうものだ。営利を第一に考えていて、社員個人の探究心を満たすための場ではない。いや、会社に限ったことではない。人間そのものが、そういう歴史を辿ってきた。今の自分が良ければそれで良いと未来の時代を棚に上げ、種の寿命を犠牲にして文明を進歩させてきた。それが自分の首を絞めることになるとも知らずに」
カンはいつにもなく饒舌だった。それはきっと、スマートAIがカンの情報処理速度を高速化した効果だけによるものではない。
「とにかく、その時の俺には、もはや科学的な制約や社会の常識なんて眼中になかった。俺はただ、〝魂〟という未踏の領域に足を踏み入れたくて仕方がなかったんだ。その輪郭だけでもいいから、触れてみたかった」
「だからノート教授のところに?」
「ああ。スマートAIの開発者がいると知って、俺はすぐにこの大学の門を叩いた。研究費も名声も捨てて。普通の工学者からすれば笑い者だろうが……いつか、この選択が正解だったと胸を張って確信できる日が訪れてくれれば良い」
彼は缶コーヒーを空にして机に置いた。
「結局のところ俺は、自分が信じるものに従っただけだ。お前さんと同じように」
その言葉にメイは、目を潤ませながら満面の笑みを浮かべた。
「じゃあやっぱり、私たちは似た者同士ですね!」
その無邪気な笑顔を見て、カンは少しだけ口角を上げた。彼女が語った過去の挫折とは全く状況が異なるが、追い求める〝真理〟の前では誰もが孤独な異端者となってしまうこと——その一点において、確かに彼らは共通していたのかもしれない。
その後も彼らは毎日のように対話を重ねた。互いに互いの痛みを理解する者として、心の拠り所になっていた。時はやがて一年が経ち、二人は何かに導かれるように世帯を持った。ラボの皆にもめでたく受け入れられ、二人の周囲は常に温かい空気で満たされていた。——それから〈火雨の日〉が訪れるまでには、あと、一年と二ヶ月の月日が必要だった。




