第五章
俺は、老父の最後の言葉を、頭の中で反芻していた。
「いや……そんな、まさか。そんなはずないですよ。いくらなんだって、それはありえない。R−01地区が、偽物の空間? そんなの、誰が信じるんだ。なあ、プーマ、お前もそう思うだろ——」
そう言ってプーマの方を見た瞬間、プーマが消滅した。それは、まだ記憶に新しい光景だった。海が崩れるように。砂浜やヤシの木が、溶けるように、色を失っていくように。プーマは、俺の目の前で、どさりという音を立てて、消えた。
「……プーマ? おい、プーマ。どうしたんだ、プーマ」
つい先程までプーマが立っていた場所には、黒い砂が盛り上がっている。そしてそれも、部屋の地面と同化するように次第に溶けていき、やがて消滅した。
俺は顔を上げて必死に辺りを見渡す。しかし、見渡す限りの黒い無機質な空間は、プーマの不在を判然と示すばかりだった。
俺はただひたすら、プーマの名を叫び続けた。俺の脳は、プーマがまだ実在している可能性を必死に模索していた。
ひょっとすると、どこかに隠れているのかもしれない。彼はかくれんぼが好きだった。俺たちが入ってきた扉の裏を確認してみるが、姿は見えない。それから俺は、何も無い部屋中を走り回った。しかしいくら探しても、そこにはプーマの不在が、確かな存在感を持ってどこまでも広がっているだけだった。
「おいあんた、プーマをどこにやったんだ」
俺は老父にそう怒鳴る。彼がプーマに何かをしたのは明白だった。
「あいつは俺の息子みたいなものだ。なにかしたら承知しないぞ」
自分の声に、震えが混ざっていることを自覚する。
「彼もまた、電子素粒子で生成された、謂わば幻だ。それを元の姿に戻しただけだ。この世界に存在する全ては、幻だ」
「ふざけるな。その電子なんとかっての、もう二度と口にするなよ。そんな道理がまかり通ってたまるか」
俺は我を忘れてとにかく怒鳴り散らした。なにやら口元に塩水が流れてきたが、その正体も気にならなかった。
しかしその涙は、老父の発言に噓が無いと、本当は理解していることの証明だった。自分自身そのことに気がついて、一入涙が溢れるばかりだった。
「……本当に、プーマは実在しないのか」
「ああ……残念ながら」
「プーマの声も、温もりも、笑顔も、性格も、全部、機械が作り出した幻影だったって、ことなのか……」
「全くその通りだ」
容赦のない老父の返答に、俺はもう怒りを覚えることもなく、ただ、プーマがこの世に実在しないという確かな実感を伴って、寂しさが募るばかりだった。
「なー」という声が聞こえて、俺は足元を見る。ロッカーが、俺の顔を見上げて静かに鳴いていた。俺は思わずそれを抱きしめる。
「ロッカー、お前も、なのか? こんなに、暖かいのに。こんなに、柔らかいのに……」
ロッカーは何も言わず、ただ俺の頬に流れる塩水の川一舐めするだけだった。その感覚の全部が、俺には本物としか思えなかった。
「もちろん、カンくんがこの地区で友人関係を築いた者たちも、皆同様にして再現された、マネキンに過ぎない」
老父が続けた言葉に、俺は改めてショックを受ける。そうだ。ロッカーだけじゃない。この十年、俺はいろんなやつと出会ってきた。その全員が、幻だったとでもいうのか。俺がこの十年、プーマや他の者たちと過ごしてきた日々は何だったのだろうか。俺がこの十年抱いてきた様々な感情は何だったのだろうか。雨の匂いが懐かしかった日や、夜空に張り付く星に希望を感じた日や、赤い夕陽に救われた日や、その全部は、一体何だったのだろうか。とんだしうちじゃないか。俺が一体何をしたというのだろう。誰が、何のためにこんなことをしたというのだろう。
「教えてくれないか。俺はこの十年、何のために生きてきたっていうんだ。俺は一体何のために、偽物の十年を送らされてきたんだ。なあ、教えてくれよ」
俺が振り絞った声でそう言うと、老父は淡々と答える。
「それは、他でもないカンくん、君が望んだことなんだ」
……は? 俺が望んだこと? どういうことだ。俺が自ら、こんな虚しい人生を送ることを望んだとでもいうのだろうか。
「それも全て、君が目を覚ませば解ることだろう……。そもそもリンちゃんは、君を現実世界に連れ戻すためにわざわざ君をここまで連れてきたのだから」
……なんだって? リンが……? なぜ、そんなことを。
何も言えず呆然としていると、リンが俺の前に歩み出た。彼女の表情は、珍しく強張っていた。
彼女の差し出すメモ帳を手に取る。
『あなたをこの空間に十年も閉じ込めていたのは、私の意思です』
「……何?」
開かれたページの一文目を読んで、俺の脳は一時思考を停止する。リンが、俺をこの空間に……。一体、何のために。いやそもそも、リンは何者なのだろう。かつて俺とリンは、どういう関係だったのだろうか。
『あなたは当時、とある重大な使命を帯びていました。しかし結局それは失敗に終わり、その失意のあまり、あなたは自らこの虚構空間に逃げ出したのです。その際あなたは、自身の記憶データの一部を書き換え、自分が苦しまなくて良いような世界を創り出しました。それが、R−01地区です』
重大な使命……。一体何の話だ。
『もしあなたを現実世界に引き戻したら、あなたはまた絶望の淵に立たされることになる。私は、あなたが自分の使命に苦しんでいたことも、その全てを忘れ去ってしまいたいと願っていたことも、知っていました。そして、漸くその願いが叶った。そんなあなたに、再びつらい現実に向き合わせたくなかったんです。そこで私は、あなたの意識をこの世界にとどめておくよう、ノート先生にお願いしました』
その後ろには、身勝手なことをしてごめんなさい、と続いていた。
「つまり、リン。お前さんは、俺を守ろうとしてくれていた、ということか……」
リンは、申し訳ないような顔をして、静かに頷いた。
俺がこの世界での生活を強いられているのには、そんな背景があったのか……。自分のことではあるが、客観的に聴くと随分と人騒がせな話だと思う。
ひとまず、記憶喪失に陥った経緯はおおよそ理解できた。しかし、リンが俺に記憶を取り戻してほしいという理由がまだいまいち解らなかった。
俺はそのまま続きを読む。
『私は、あなたが眠りについた現実の世界で、旅をしていました。どこまでも終わりのない、長く孤独な旅です。そこで私は、一つの風景に出逢いました。その時私は漠然と思ったんです。もう世界は、とっくにあなたを赦してるんじゃないかって』
そこまで読んだ俺は顔をあげ、リンと目を合わせる。世界が俺を、赦している。俺は何か、とんでもない悪事でも働いたのだろうか。
「リンちゃんが旅に出る直前、彼女は私ととある約束をした」
再び老父が口を開く。
「約束……?」
「そうだ。また君が、目覚めても良いと思えるような世界に生まれ変わったら、必ず君をここから救い出す、と」
救い出す、という言葉遣いに、俺は少々違和感を覚える。少なくとも俺は、何も知らず最後までここで暮らしていれば、そのまま平凡な生涯を遂げられるはずではなかったのか。その全部が似せ物だったということさえ、知らなければ。
「君がムーサを開発している時、最もこだわっていたのは〝魂の所在〟だ。どれだけ素晴らしい作品を生み出すことが出来たって、そこに心が無ければ価値は無い。そこに模倣はあっても、創造は無い。君は、そういう思想の持ち主だった」
模倣はあっても、創造はない……。
「この4D空間にも、やはり心は存在しない。どこまでも静的で、無機質だ。もちろんその全てが悪いわけではない。君の魂だってこの十年、その平穏な幻影によって、幾分かはきっと救済されたはずだ。だが、それだとまだ足りないのだ。君の人生の最後の目的は、人類の魂そのものの救済だったのだから」
話が随分と抽象的でよく解らなくなってきた。静的で、無機質。人生の目的。魂の、救済。言葉一つひとつに、あまりにも広大な解釈が与えられている。
「君は結局、その壮大な命題に答えを見出すことができなかった。そのまま記憶に蓋をしてしまった。全てを忘れることを選んだ。しかし、君の思想を受け継いだムーサ、つまりリンちゃんは、十年かけて、ついに一つの答えを導いたのだろう。今またこうして、君の元に姿を現したことがその証明だ」
黙って最後まで聴いていたが、結局老父の言っていることはよく解らない。未だに他人事のように感じるし、どこか遠い国のお伽話ではないのかとさえ思う。ただ一つ解ったことは、俺が自らの人生最大の命題を放棄し、あまつさえそれをリンに押し付けたということだ。俺は現実に向き合うことを恐れ、彼女一人を孤独にし、仮初の楽園に逃げ込んだ。たとえ、他にどんな大きな責任を抱えていたとしても、このことに責任を持たなくて良い道理はない。
俺は、決意を固めた。
「現実の世界に、俺を戻してくれないか」
そう言うと、老父は僅かに目を見開いて、俺に問う。
「……いいのかい? 今君が目を覚ませば、またひどくつらい現実を思い出すことになる。きっと正気でじゃいられなくなる」
……そう言われると、少し足が竦む自分がいた。つらいことは、嫌いだ。十年前の俺も、そうして逃げ出したのだろう。
それでも。
もう、十分休んだだろう。時間は十分あっただろう。傷は十分癒えただろう。この十年は、きっと今日のための十年だ。
俺は覚悟を決める。
「構わない。元はといえば全部自分の記憶で、ただそれを十年後の自分が受け取るだけのことだ。今度は、もう逃げたりしない」
それに、リンの声のこともある。もう、俺だけの問題にはしていられないのだ。十年前に俺がリンに押し付けたツケは、今ここで払わなければならない。
「……決意は固いようだな。よかろう。仰向けになりなさい」
老父がそう口にすると、いつの間にか彼の傍にベッドが一つ、生成されていた。俺は言われた通りそこに横たわる。
「カンくん、よく聴いておくれ。現実の世界の君の脳内にも、スマートAIが移植されている。そしてその中には、記憶の蓋を開けるための鍵が保存されているのだ」
老父が突如放ったその言葉に、俺は怪訝な顔をする。
彼は続ける。
「君が自身の記憶データに対して行なった操作は、厳密に言えば改竄ではない。むしろ、特定の〝色〟を持った記憶に対する、一時的なアクセス制限と表現するのが近い。記憶そのもののデータは脳細胞ニューロンの接続パターンとしてきちんと脳内に残っているが、それにアクセスするための扉に自ら鍵をかけているのだ。スマートAIは、どのニューロン郡に記憶が保存されているかを特定するメタデータをメモリにバックアップしておくことで、そのアクセスパスを再現することができる。これにより、再び記憶の扉を開くことが可能になる、というわけだ」
老父が突如饒舌に説明を始めたが、特に後半部にかけて、よく解らなかった。とにかく、スマートAIには、記憶そのものではなく記憶にアクセスするための鍵が保存されている、という認識であっているだろうか。
「つまり何が言いたいのかというと、だ、カンくん。君がこれから思い出すものは、電話越しに聞く声のように、あるいはテセウスの船のように、オリジナルをそっくり真似たコピー、というわけではない。正真正銘、君自身の、オリジナル一〇〇%の記憶だ。もう君を騙す者は誰もいない。残念なことにな。だから、どんな記憶を思い出しても、決してそれを疑ってはいけない。全てを受け入れることだ。そうすることでしか、前には進めない」
漸く、老父の真意が解る。要するに、これから思い出す記憶は、その全部が本物だということだ。映像や、音声や、感情や、その全部が。
「では、始めるぞ」
そう言うと老父は、俺の額に指を当てた。俺は静かに目を閉じる。
「スマートAIの本体は前頭葉のあたりに移植されており、アクセスポートもそのすぐ傍、つまり額に存在する」
老父がそう説明しながら、俺の額をまるでタッチパネルのように器用に操作しているのが、感覚で判る。
すると次の瞬間、どこからともなく短い電子音が聞こえた。俺は咄嗟に目を開く。すると、【Loading..】の文字が宙に浮いているのが見えた。まるでその文字が、実際にそこに存在しているかのような現実感を伴って。
「こ、これは……」
「スマートAIの最も判りやすい拡張機能は、視覚同期だ。その名の通り、視覚に作用して、AIの処理した情報を視界に重ね合わせることができる」
老父がそう言う間にも、続々と視界にウィンドウが開かれては消えていく。かつてSFものの映像作品で見たことのあるようなその光景に俺は唖然とする。
「さあ、これでスマートAIの再起動は完了だ。次に、スマートAIにバックアップされた記憶へのアクセスパスを用いて、記憶の扉を開く。これにはまず、記憶のトリガーが必要だ。君の意識が記憶の扉に手をかけようとする時、それに反応したスマートAIが、自ずと君を導いてくれるだろう。そうだな、例えば……」
そう言うと老父は、地面から黒い砂をいくらか削り取り、手のひらに乗せた。すると今度は、それがみるみるうちに形を変えてゆき、やがて一つの物体が完成する。
それは、一枚の写真だった。中央には柔らかく笑う一人の女性が写っている。
俺は、その顔を知っている気がする。
「この女性は?」と老父に尋ねるよりも先に、視界の中央に【MEMORY RESTORATION - YES/NO】という文字が表示された。
俺は目に見えているものをそのまま老父に伝える。
「よし。ではそのまま案内に従って操作を進めてくれ」
「操作、って言っても……これ、どうやって操作するんですか」
そう言いながら、俺は何気なく目の前のウィンドウに手を伸ばしてみる。すると、そのウィンドウに触れた感覚があった。
「スマートAIの操作は、どこまでも直感的だ」
視覚だけではない。今、確かに指先に、何かに触れた感触があった。どうやらスマートAIの拡張機能は、触覚にも作用するらしい。
俺はそのまま、そうするのが当然であるかのように、導かれるように、【YES】のボタンを押す。すると再びウィンドウが消え、そのまま俺は




