第三章
リンは、口元に咥えたライトで、廃墟のマップらしきものが描かれた紙を照らす。こんなもの、どこで入手したのだろうか。
俺はリンの横に立ちそれを覗き見る。反対側からプーマも必死に背伸びをして覗こうとしている。ロッカーは……しばらく蚊帳の外にいる。
リンが図面の右下に描かれている非常口を指差す。どうやら俺たちは今このあたりにいるようだ。
リンはそのまま紙面上で指を滑らせる。俺たちがこれから進むルートを示しているのだろう。滑らせた先に、図面の左上に位置する階段を選ぶ。どうやら上の階へと向かうようだ。
早速俺たちは足を運び始めることにした。進みながら、廃墟の中を照らし観察してみる。
廃墟といえど、コンクリートの露出した壁がところどころ腐っているくらいで、まだそれなりに原型は保っている。しかしそれでも、無数に舞う埃にはしばらく咽せずにはいられなかった。蜘蛛の巣もあちらこちらに張っている。
幾つかの部屋を覗いてみる。ある部屋には、無数のガラス器具や薬品が棚に収納されている。理科室のような体裁を為していた。またある部屋には、無数のモニターが机に整列されている。オフィスの一室のように見えた。病院というよりは、研究所の様相を呈している。
プーマはロッカーを見失わぬよう常に足元を照らしながら慎重に歩みを進める。ロッカーは俺たちの周りを8の字を描くようにしながら歩いていた。
「いろんな部屋があるんだね。何に使ってたんだろ。それにしても埃っぽくてしょうがないな。さっきからくしゃみが止まんないよ。だだっ広いし」
確かに、建物の中はやけに広いような印象があった。それこそ大病院と見紛うような規模だ。
リンは周囲を確かめるように見渡しながら、着々と前に進む。彼女は今何を思っているのだろう。父の居場所を知る手掛かりに近づいていることをどう思っているのだろう。この暗闇では表情が見えない。廃墟に漂う静寂の全部を吸い取ってしまったように、彼女はどこまでも無口だ。
その後も大小様々な部屋を横切り通り抜け、五分ほどかけて、俺たちは漸く階段の元に辿り着いた。プーマが「はー疲れた」と本音を溢す。
無理もない。家からここまで一時間歩いてきたその脚で階段を上るのはなかなかに堪える。
ロッカーも「なー」とプーマに共鳴するように小さな悲鳴をあげた。
ともかく、目的地はきっと近いはずだ。もう少しの辛抱だと一人と一匹を励まし、俺たちは階段を上ろうとした。
しかしそこで、パチン、と指を鳴らす音が聞こえた。振り返ると、リンは階段を上ろうとせずその場で立ち尽くしていた。俺たちは「どうした?」と言いながらリンの元へ戻る。
家から廃墟へ向かう途中、俺たちは声と文字で幾らか会話を交わした。その際、もしリンが俺たちを呼び止めたくなったらどうするか、という議題が浮上した。俺たちが常にリンのことを見ていれば有事のときに気づくことができるが、実際問題としてそれは現実的ではない。至近距離であれば肩を叩くなりして気づかせることもできようが、腕一本分以上離れていたときには不都合だ。
初め、プーマが「手を叩くのはどう? ほら、よく聞こえる」と言って柏手を響かせてみせた。確かに、音量の面でいえばそれで十分だった。しかし、それには両の手が空いていなければならない。リンは常にメモ帳を持っているので、少々手間がかかるように思えた。それに、どこか動物扱いされているような感覚があって落ち着かない。
それで、代わりに指をパチンと鳴らすことを提案した。試しにリンが鳴らしてみると、柏手には劣るものの、半径十歩程度なら全く問題なく聞こえるくらいの音量がした。そのほかにも幾つかのハンドサインを決めた。中には、おそらく使う機会など来ないだろうというようなものもプーマの進言で決められたが、リンとプーマが会話に咲かせた花を枯らすような真似はしないでおいた。そうこうしているうちに、廃墟にたどり着いたというわけだ。
リンは、上へと続く階段の横にある、スチール製の扉を指差した。どうやら、階段を一目見てすぐ上の階に上ろうとしたのは早とちりだったようだ。
扉には『R−01』という掠れた文字が見えた。
リンは早速扉のレバーに手をかける。しかし、今度はびくともしない。明らかに鍵がかかっていた。少しの違和感を覚える。ここまでの道のりで見た景色から考えれば、いくらスチール製とはいえ、この扉も鍵含めて錆び切っているはずだ。それなのに、びくともしないというのは……。
それに、よく周りを見渡してみれば、この扉の辺りはあまり腐敗が進んでいない。というか、廃墟の中にしてはあまりに綺麗だ。
いや、実を言えば、ここに来るまでにも小さな違和感はあった。通り過ぎる部屋を見渡してみれば、どこも床に埃が積もっているのに、俺たちの歩く廊下にはそれほど埃は被っていなかった。
そのことには、どうやら他の二人も薄々気づいていたようだ。プーマが恐る恐る口をひらく。
「ねえ、カンさん。もしかしてさ……」
つまり。
「なー!」
その瞬間、ロッカーが聞いたことのない音量で鳴いた。心臓に冷や汗をかく。俺たちは反射的に背後を灯りで照らした。
しかし、嫌な予感とは裏腹に、人影などは見えなかった。
「な、何だよロッカー、驚かせんなよ」
プーマが無理に明るく取り繕ったような声色でそう言った。俺は心臓を伝った冷たい汗を心のハンカチで吹き上げる。
そのとき、突然何者かによって手から灯りが奪われた。視界が真っ暗になり、直後背後から口を手で塞がれる。後ろを振り向く暇もなかった。何という手際の良さだろう。咄嗟のことに声を上げようとするが口は開かない。俺の背後には、プーマの他に一人しかいなかった。つまり、この手はリンのものだ。
どういうつもりだ。俺は一瞬頭が真っ白になる。横でプーマが「んーんー」と声を上げるのが聞こえた。するとリンは、俺たちの耳元で「シー」という無声音を発する。そのままリンは、俺たちに階段を上るよう促した。俺たちは大人しくリンに従う。ロッカーの声は聞こえなかった。
階段を一段ずつ登るにつれて少しずつ冷静を取り戻した俺は、最悪の場合を想定してみる。すなわち、リンが今朝明かした自身の正体は虚構であり、実際はこの建物の地下に眠る何らかの施設の関係者。彼女らは、俺たちを何かしらの実験に利用しようとしている。ここにきて俺たちを裏切り、拘束しようとしている、という説。
しかし、その推測には少々無理があることも自覚していた。本気で俺たちを拘束したいのなら、少なくとも先ほどの扉を抜けてからが望ましいはずだ。一度あの扉の奥へ進み鍵を閉めてしまえば、もう自力で抜け出すことはできまい。加えて、施設内に入れば応援の人員を呼ぶことも可能だろう。この場でリン一人の力で俺たち二人を拘束しようとしても、振り解かれて形勢が逆転するリスクがある。事実、彼女が俺の口を塞ぐ力は大して強くない。抵抗しようとすれば簡単に解けてしまえそうな程度だ。
そして極め付けは、リンが続けて囁いた一言。
「信じて」
それだけで俺は、不思議と全てをリンに委ねてしまおうと思えた。自分でも、なぜ彼女をそこまで信頼できてしまうのか解らなかったが、彼女が俺たちに危害を加えるつもりがないということを肌で感じた。
プーマも同じ感覚を共有したようで、やがて落ち着きを取り戻して大人しくなった。
踊り場まで階段を上りきった時、遠くから何やら音が聞こえた。その音は少しずつ音量を大きくする。コッコッという高音が廃墟全体に響き渡る。やがてそれが足音だと判る。そのリズムから、緩慢な歩みが想起される。
俺はこの音を聞いたことがある気がする。
暗闇の中、俺たちは先ほどまで自分たちのいた扉の辺りを上から覗き見る。すると、そこに灯りが差し始めた。俺たちが照らしたものではない。この足音を鳴らす者が照らしているのだ。
直後、俺は照らされたその空間を見てハッとする。そこには一匹の黒猫がいた。ロッカーだ。暗くて気が付かなかったが、先ほど俺たちが移動しているうちに取り残されてしまったのだ。
どうしたものか。今音を出すわけにはいかない。何とかこちらに気づいてもらいたいが、しかし今こちらに来てしまっては俺たちの居場所が割れてしまう可能性も否めない。
あれこれと考えているうちに、足音を鳴らしていた人物がついに姿を現した。
「おやおや……。なにか物音がしたと思ったら、猫ちゃんかい」
現れたのは、背の低い老父だった。暗くてよく見えないが、杖のようなものを突いている。
「さてさて、ここの鍵は……」
彼はそう言ってジャラジャラと金属製の鍵同士がぶつかる音を立てた。鍵穴を回し、扉を開く音が聞こえる。
「おやおや……。あなたも行くかい。暗いから気をつけなさい。仕事の邪魔をしちゃいけないよ——」
扉の閉まる音を最後に、老父の声は聞こえなくなった。暗闇が視界を塞ぐ。
横でプーマが「んーんー」と声を上げる。リンは思い出したように「ハッ」と漏らし、慌てた様子で俺たちの口から手を離した。
「はあ、はあ……。もう、リンさん、脅かすなよー」
リンはペコペコと頭を下げる。やはり彼女に悪気はなかったようだ。少々強引ではあるが。
「よく人が来るって判ったな。足音が聞こえるまで全く気づかなかったぞ」
俺がそう言うと、リンは『ロッカーちゃんが教えてくれました』と書いた。
それで俺はハッとする。
「そうだ、ロッカー」
老父の口ぶりからするに、ロッカーはあの扉の奥に進んでしまったようだ。一階に戻ってみると、ロッカーの姿は見当たらなかった。
「おーい! ロッカー!」
プーマが大声でそう呼びかける。
「おいバカ、あの老人に聞こえたらどうすんだ」
「あ、そっか……」
「恐らくあの老人の後を追って扉の奥に進んじまったんだ」
猫のくせに警戒心の薄いやつだと心の内で少々毒づく。
さてどうしようかと考えあぐねていると、リンがふと片方の掌で鉄の扉に優しく触れた。
「リンさん? 何してるの?」
プーマがそう発した直後、びくともしなかったノブがガチャリと音を立てて下がった。
「え?」
思わずそう呟くと、ドアの向こうから一匹の黒猫が現れた。ロッカーだった。
「ロッカー! よく戻ってくれた! 怖かっただろう」
よしよし、と言ってプーマはロッカーを抱え上げる。
俺はしばらく呆気に取られていた。「なあ、リン。お前さん、今何したんだ?」自分の網膜に映った光景を理解できず、思わずそう尋ねる。
リンは背中で数秒の沈黙を語った後、『ロッカーちゃんが内側から開けてくれたんだと思います。賢いですね』
なるほど確かに、ロッカーとはもう三、四年の付き合いになるが、その賢さで俺たちを窮地から救ってくれたことも何度かあった。
しかし、リンの仕草はなんというか、ロッカーが内側から扉を開けてくれることを初めから確信していたかのように見える。
そこまで考えが及んで、いやまさか、とその突拍子のない発想を頭の中で一蹴する。
リンとロッカーは昨日の今日出会ったばかりの仲だ。第一、人と猫が鉄の扉を介して意思疎通するなんてことは現実的に考えて無理がある。やはり自分の考えすぎだったのだろう。
リンは扉の間に足を挟んで閉まらないようにしながら、『先を急ぎましょう』と書いて見せる。こんな状況でも彼女は顔色一つ変えず、冷静に物語を先へ進めようとする。
それに倣い、俺も何事もなかったかのように首を縦に振ろうとする。しかし、それがどうもうまくいかない。何か心のブレーキがかかって、リンの催促に応えられない。俺はここにきて、これ以上先へ進むことに強い躊躇いを抱いていた。恐らく、小さな不信感が蓄積されたのだろう。いやむしろ、彼女を信じられる根拠なんてものは初めから一つもなかった。第一印象は衰弱しきった聾唖者、しかも別地区からの越境者で、その目的もはっきりとしない。つまり彼女と俺たちの間にはおよそ信頼関係と呼べるものが全くと言っていいほど無い。それでもここまで行動を共にしてこられたのはきっと、自分の中に僅かに残っていた童心を信じてみようと思ったからだ。だが今、ロッカーとの一件を見て、それでもこの好奇心だけを原動力にこれ以上先に進むことは、俺にはできない。
「なあリン、いい加減そろそろ話してくれないか。一体お前さんが誰を探しているのか、その人を探す目的は何なのか、なぜ越境してまでこんなことをしているのか、そしてこの扉の先にあるものは何なのか。それがはっきりしないと、正直もうこれ以上お前さんの力になろうという気にはなれない。それに、プーマとロッカーをこれ以上危険な目に遭わせたくもない。第一、どうして俺たちの手が必要なのかも全くもって解らない」
全て言い切った後で、一抹の後悔がよぎる。少し言いすぎた。訳の解らないこの状況に、内心苛ついていたのかもしれない。
しかし俺の言葉を聞いたリンは、依然として穏やかな顔のまま、緩慢な速度でメモ帳を開き、万年筆のペン先を開いたページの上に置いた。俺にはその一挙手一投足が腹立たしかった。
随分と長い時間をかけて書き終えると、メモ帳を丁重にこちらに差し出した。俺は漸くかという気持ちでそれを受け取る。しかし、その内容は期待していたものからは大きく外れていた。
『この場で全てのことをお話しするには、メモ帳の余白と時間が足りません。ただ一つお答えするなら、この廃墟は元々人工知能に関する研究所でした。そしてこの扉の先の地下には、この地区全体を制御する管理室があります。そこまで行けば、全ての謎が明らかにされるはずです』
この後に及んでリンは、先へ進めと促しているのだ。ピエール=ド=フェルマーの言葉を借り、真実をぼやかして。
リンの返答を読んで、俺の心は決まった。人類三〇〇年の謎に挑む雄心は、俺にはない。
「プーマ、ロッカー、帰ろう。リン、お前さんには悪いが、これ以上行動を共にする義理は、俺たちの間にはない。そうだろう」
そう言うや否や、俺は踵を返し、来た道を戻る。「ちょっとカンさん、本当に帰るのかよ、せっかくここまで来たのに」プーマは、そう不平を垂れながらも、俺の後に続く。
ロッカーが「なー」と鳴くのも聞こえる。しかし、ロッカーの声は、プーマのそれとは何かニュアンスが違うように聞こえた。振り返ると、ロッカーはリンの横から動こうとしない。
「ほら、ロッカー、行くぞ」もう一度そう呼びかけるが、ロッカーはやはり「なー」と鳴くだけで、一向にその場から動き出そうとしない。
「ロッカー、帰るよ。その先は危ないから」プーマも何度か呼びかけるが、結果は同じだった。
珍しく聞き分けの悪いロッカーに俺は更に苛立って、強引に体ごと担いでしまおうとロッカーに近づく。しかし彼女は、リンの足の間を縫って扉の奥に逃げ込んでしまう。
「おい、どういうつもりだよ、ロッカー。その先に一体何があるってんだ」
ただの猫の気まぐれが、俺には「この先へ進め」と言っているみたいで落ち着かない。
しかし、こうなってしまってはそのままロッカーを置き去りにして帰るわけにもいかず、つまり俺の取るべき行動は、不本意にも一つの選択肢に絞られてしまった。まるで運命か何かにそう導かれているみたいで、かなり不愉快だ。
俺は一つ大きなため息をついて重い口を開いた。
「わかったよ。先へ進もう」
プーマとロッカーが同時に喜びの声を上げるのが聞こえた。リンも頭を下げる。
きっと初めから、前に進む以外の選択肢はなかったのだろう。『私の私情に巻き込まれてもらえますか?』リンのその提案に乗ってしまったあの瞬間から。運命は初めから決められている。偶然は全部元から決まっている。偶然は必然的に起こるものだ。そうやって自分に納得させることで、俺は今日まで生きてきた。世界の全てを諦めてきた。抵抗しないで受け入れてきた。抵抗は時間の無駄だ。世界はもう既に、征服されているのだから。




