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「れんおにいちゃん、すごくげんきになったね?」
一番下の女の子が舌足らずにそう言った。舞は、それが一番素直な意見だろうと思う。ずっと殻に閉じこもり、あれこれと考え込みすぎていたことは確かだった。
「舞さんがおるからやろ」
駿が付け加えてその妹に言う。わかっているのか、わかっていないのか、感情がまだ育っていないのか判断しづらい反応を妹は示したが、ご飯粒を口の横につけながら、にっこりと舞に微笑んだ。舞もまた、その満面の笑顔に花が咲くような笑みで応じるのだった。
片付けの頃となり、協力して洗い物をする中、舞も皿拭きを手伝った。
そんなとき、煉と凛が帰ってくる。
「おかえりなさい」
舞が二人に声をかけると、凛は一瞥を寄こしただけで返事もなく、二階へと駆け上がっていってしまう。煉も軽く「ただいま」とだけ言い、Tシャツで汗を拭うと、そのまま風呂場へと向かっていった。
駿は自室に戻り、下の男の子と女の子は、小さな子ども向けのアニメを観ていた。
ダイニングで母親にお茶を出され、舞は少し会話を交わす。しかし母は終始、固い表情のままだった。
そのうち煉が戻ってきて、冷蔵庫の麦茶をコップに注ぎ、一気に飲み干す。
「煉くん、そろそろお暇するね」
「ああ、じゃあ母ちゃん、車で――」
「あ、いいの。歩いて帰るよ」
「ほんなら自転車でまた送るわ」
舞は煉の家族に深々と頭を下げてお礼を述べ、倉敷家を後にした。スマートフォンを持って行けと母親に言われるほど、煉にはなじみのないものだったのか、無造作にポケットへと突っ込み、自転車を出してきた。
「後ろにのるか?」
「ううん、少し歩きたいな」
わずかに夜の帳が降りる頃、二人は街灯もまばらな薄暗い田舎道をゆっくりと歩き出した。煉は自転車を押しながら、舞の右側に立つ。
舞はその何気ない気遣いに、思わず笑みを漏らした。
しばらく無言のまま歩いていたが、舞が沈黙を破る。
「煉くん、お家に招いてくれてありがとう。食事もすごくおいしかったよ」
「そ、そうか。なんもいいもん出してやれなかったけど」
「そんなことないよ。とても温かくて、楽しい食事だった」
「ふうん……」
煉は少し照れくさそうに、天を見上げて顔を隠した。その仕草につられて、舞も空を見上げる。
「もうこんなに星が見えるんだ。まだ山の向こうは太陽の光が残っているのに」
見上げながら歩く舞の背中を、側溝に落ちないようにと、触れるか触れないかほどの距離で煉がそっと手を回した。
「そうだ」
舞が急に煉の方を向く。
「煉くん、学校の先生がいいと思うな」
「なんだよ急に。なんの話じゃ」
「今日話してたことだよ」
「ああ。そっか……」
目標。見失ったこれからのこと。二人はそんな話をしていた。舞も確信を持って言えることではなかったが、なんとなくそういう道もいいのではないかと、やわらかな提案のように口にした。
「俺は……俺にそんな……わかんねえな」
煉は言われて戸惑った。なにも想像したことがなかったからだ。彼のなかにある「教師像」はまだ曖昧だった。人の上に立ち、学問を教え、身体や精神を養うことの重大さなど、きっと理解しきれていないのだろう。
「煉くんはとても面倒見がよくて、勉強もできて、スポーツもできて……」
「もう俺は試合には出れねえぞ」
「でもさっきみたいにリハビリを続けられれば、またできるようになるんじゃない?」
「バリバリだったころのタイムには絶対戻れねえけどな。まあ、そこらのやつよりは動けると思う」
「指導するには問題ない?」
「ああ。多分できる」
話していると、夜空に一筋の光が流れた。その光に、舞は目を閉じて何かを願う。
「流れ星……生まれて初めて見たよ」
「この辺じゃ毎日見れる」
二人は歩調を弱め、また星空を仰いだ。
「それにね」
舞は煉の横顔を眺めながら続ける。
「煉くんはとても思いやりのある人」
「……よくわかんねえな」
「先生。いいと思うな」
煉は視線を斜めに落とし、ぐるぐると考えを巡らせていた。
「ひとつの可能性の話しだよ」
「そうだな……でも、さっきまでこんなこと考えもしなかった」
煉の心にぽっかりと空いていた穴に、舞の言葉がすっと入り込んだ。今まで思いもしなかった未来の光景が、煉の胸に確かに芽生えたのだった。
「舞はなにかあるのか?将来なにかなりてえとか」
珍しく舞に興味を示す煉。しかし舞は少し影を落とす。
「……わたしは、今は、ないかな……」
「人にはあれこれ言えるのに、自分はねえのかよ」
「うふふ。そうだね、偉そうに言うよね、わたし」
屈託なく笑う舞。その笑顔には、ほんの少しの寂しさが滲んでいた。
「別に偉そうに言われてる感じはしねえ。少し説教くせえけど、今日の話はぜんぶありがてえ」
「そういうふうに思ってくれたんだ?」
「ああ。今思うとほんと助かった。ありがとな」
目を細め、微かに目尻に笑い皺を寄せる煉。本当は、こういう表情をする人なのだろうと舞は思う。薄く上がった唇からは、家族へ向ける自然で慈しみに満ちた言葉が、きっとたくさんあふれてくるのだろう。
その表情に、その視線に、煉のすべての優しさが詰まっているように舞には思えた。
舞は涙をこぼしてしまう。なんでもないのに、劇的な出来事があったわけでもないのに、舞の目尻から涙が頬を伝った。
慌てて顔を隠す舞。しかし、もう遅かった。
「舞」
舞はかぶりを振る。
沈黙が二人を包む。立ち止まり、静止したまま、煉はそっと舞の背に手を当てた。
舞が何かを隠していることは、煉にも薄々ではなく、はっきりと感じられた。
今日一日の様子を思い返しても、不自然さは明白だった。笑顔の合間に浮かぶ影。時折途切れる声。
そして今の涙は、ただの感情の昂ぶりではない――煉はそう直感していた。
だが、問いただすことはできなかった。
その答えを聞くのが怖かったのかもしれない。
だから煉は、何も言わず、ただ震える少女の背中に手を添える。
確かに彼女は何かを抱えている。未来に関わる、何かを。
舞の震えは小さかったが、その小ささがかえって胸に刺さり、煉の心を深く揺さぶるのだった。