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いつのまにか二人は話し込んでいて、また時には静かな時間が流れたりと、そんな微かな肌触りを覚える距離感を、お互いに感じていた。
かもめが一羽、二人に近づいてきたそのとき、煉はすくっと立ち上がった。
「煉くん?」
舞は煉を見上げた。その顔はまっすぐ前を見据え、拳を握りしめ、どこか近い未来を見つめているようにも思えた。
「俺、学校に行ってくる」
たったそれだけを告げた煉は、舞を見下ろし、小さく言った。
「ありがとな」
舞は一瞬ぽかんとしたが、その確かな眼差しを受け止め、やがて静かに微笑む。
「こちらこそ、ありがとう」
煉は堤防から飛び降り、少し小高い山へと駆けていった。家に自転車でも取りに行くのだろうか。怪我をしていたことを感じさせないほど、力強い駆け出しだった。
舞はその背中を見送りながら、ほんの少し影を落とした。
九月とはいえ、まだ暑さの残る昼下がり。煉は再び堤防へ戻ってきた。
自転車を投げ置き、辺りをキョロキョロと見渡す表情には、わずかな焦りと、心が躍るような興奮が入り混じっていた。
やがて目当てのものが見当たらないと気づくと、彼はすとんと肩を落とした。がっくりと項垂れたわけではないが、苦労に見合わぬほど噴き出す汗と共に、荒い息を地面へ吐き出す。
ようやく呼吸が落ち着きかけたそのとき、背後から声がかかった。
「煉くん」
ばっと振り返ると、そこには今朝と同じ格好をした少女が立っていた。
「早かったね」
舞が声をかけると、煉はようやく息を整え、口を開いた。
「ああ。おめえに言われた通り、ちゃんとしてきたぜ」
一瞬きょとんとした舞だったが、その抽象的な言葉の意味をすべて汲み取った。
「よかった」
舞はにっこりと笑う。曇りのない、確かな笑顔だった。
「おめえのおかげだ。おおきに」
「あ、また出た。かっこいい」
「う、うるせえな。都会もんがよ」
「あとわたし、おめえって名前じゃないんだけどな」
そんな軽いやり取りが、二人にとってはとても心地よい時間だった。爽やかな風が吹く海辺で、二人は再び出会った。
煉と舞は朝会った時と同じように堤防に座り、煉が学校であった出来事を話していた。
件の部員と二人で話し合い、互いに励まし合うことで一致したらしい。相手からも謝罪があり、煉はそれを受け入れたのだと言う。
細かな当人同士の心情までは舞にはわからなかったが、途切れ途切れに語る煉の言葉を、舞はゆっくりと、彼の目を見つめながらしっかりと受け止めていた。
煉は、口を挟まずに聞いてくれる舞の顔を直視できずにいたが、やがて話を終えた。
「……舞」
「う、うん。なぁに?」
煉は水平線の彼方を見つめたまま言った。
「俺は……これから何を目標にすればいいんだろうな」
舞は言葉を失った。
確か、煉は中学一年からずっと陸上に打ち込んできたと言っていた。五年間もの間、他のことに目もくれず競技に専念してきたものを、急に奪われたとしたら……これからをどう生きればいいのか。
舞は考える。自分になにが言えるのだろうか。無責任な言葉を吐いてしまわないだろうか。そんな不安が胸を巡った。
「わりい。おめえにそんなこと押し付けてもしょうがねえな」
「ううん。わたしもたまに思うよ。近い将来、どうなるんだろうって」
舞には舞の悩みがあった。それは煉には伝わらず、今は理解を求めようとも思わないのか、あまり詳しく語らずに、舞はこう続けた。
「わたしたちに一番必要で、いちばん身近にできるのは勉強することだよね」
「ああ、そうだな」
「煉くんはそっちのほうはどうなの?」
ずっと部活一筋でやってきたのだから、あまり勉強はしていなかったのでは――そんな先入観が舞にはあった。高校にはスポーツ推薦という制度もある。
しかし煉は通学バッグから一枚の紙を取り出し、舞に手渡した。
「今日、学校に提出するの忘れてた」
それは通知表だった。舞はそれを見ていいのかと尋ね、煉は「いいよ」と頷いた。
「え!? オール5!?」
「なに驚いてんだよ。俺は中一からずっとそんな感じじゃ」
「びっくりした……だってスポーツ強豪校って、偏差値も高いでしょう? それでこれは……」
なぜ煉がわざわざ通知表を見せてきたのか、舞はようやく理解した。まだ頭の中がぐるぐる回り続けている。
「運動バカって言われるのが嫌だったんだよ。弟たちにも教えてるし、勉強は嫌いじゃねえ」
「弟さんいるんだ。……って、『たち』?」
「ああ。五人兄弟だ」
「ご、五人!?」
驚き続ける舞の顔を見て、ついにおかしくなった煉は、あははと声を上げて笑った。
「あ、やっと笑った」
舞も一緒に笑う。そんな舞の笑顔を見て、煉は少し赤くなり、そっぽを向いた。
「そっち向かないで。笑った顔、見せて」
「なんでだよいやだよ」
はたから見れば、二人はいったいどう映るのだろうか。
けれど、そんな外野の視線など気にせず、二人はなんでもないやり取りを繰り返していた。