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「どうしてこんなところにいるの? 家出でもしたの?」
「うるせえな、いい加減ひとりにさせてくれよ」
「煉くん、まさかこのまま海に飛び込んじゃうんじゃないでしょうね?」
「んなこたしねえよ」
舞はしつこく問いかける。埒が明かないので、仕方なく自分のことを話すことにした。
「わたしはね、旅の途中なんだよ」
「……さっき聞いたよ」
先ほどよりは受け答えをしてくれる。舞は続けた。
「煉くんとは違うかもしれないけど、事情があって今は学校に行ってないの。だから、こうして旅をしているの」
「……」
聞いてはいるようだった。先ほどよりも視線はわずかに上がり、上の空ではあるものの、言葉を少しずつ噛み砕いているように見えた。
「わたしの行きたいところに旅をしているんだ。今ここにいるのは本当に偶然なの。煉くんに会ったのも、ただの偶然」
「へえ……」
旅の途中で、たまたま出会った相手がこんなにも無愛想で不遜な口調の人間では、普通なら会話などすぐに途切れてしまうだろう。それでも舞は一生懸命に煉へ話しかけていた。
「この場所はとても素敵。初日でそう思った。静かで、都会ほど洗練された土地ではないのかもしれないけれど、海は澄んでいて、風も穏やかで、空気も澄んでいる。それに、人はみんな笑顔で優しい感じがした」
舞はそう評価した。煉にとってこの土地は、生まれてからずっと育ってきた場所だ。他所へ行く機会などほとんどなく、当然この地が好きであった。だから、よそ者からの好意的な言葉は決して悪い気はしなかった。
「いろいろ調べたけど、少し離れたところには観光地もたくさんあるんだね。でも、わたしはこの海沿いの町がとても好き。そう思って、少し長く滞在することにしたんだ」
舞がここに来た理由、そしてとどまる理由を知った煉は、胸の奥がほんのわずかにきゅっとなるのを感じた。
「煉くんはこの近くの高校に通ってるの?」
「……ああ、そうだ。自転車で一時間くらいかかるけどな」
「まあ! 一番近いのがそこなの? 毎日大変ね」
「そうでもねえよ。小学校なんて歩いて二時間だった」
舞には想像もつかないことだった。日本は高度に発展した文明社会だと思っていたが、少し地方に足を運べば、都会とはまるで異なる環境と価値観が広がっている。
「ごめんなさい、わたし、そういうの全然疎くて」
「いいよ、そんな気にすんな」
落ち込み気味の舞を励ますように煉は言った。そしてようやく彼女に向き直る。白いワンピースからすらりと伸びた手足、つば付きの帽子にハンドバッグ――その姿はこの海辺の町にはそぐわない、あまりにも都会的な雰囲気だった。
煉は心臓の鼓動が早まるのを感じた。しゅんとした舞の大きな瞳にかかる長いまつ毛や、少し尖らせたふっくらしたピンク色の唇は、彼をどきりとさせるには十分だった。慌てて視線を海へ戻す。
「ありがとう」
たった一言でも、舞は煉の言葉が嬉しかった。
「でもサボりはダメだよ」
「おめえだって同じじゃろうが」
話は再び、平日にこんな場所にいる二人のことへ戻った。
「あ、かっこいいね。それ、方言?」
「う、うるせえな、都会もんがよ」
突然出た方言が舞には新鮮に響いた。指摘された煉は、つい口をついて出たことに苛立ち、よりつっけんどんになる。
「そうだよ、わたしは都会でしか暮らしたことがない、箱入り娘なんだ」
「な、なんだよそれ、意味わかんねえ」
言葉どおり、煉にはその表現の意味がわからないのだろう。
「煉くん」
舞は少し声のトーンを落とし、煉に向き直った。
「学校に行かない理由、教えて?」
「おめえに話す理由はねえ」
「わたしはさっき話したよ」
「勝手におめえがしゃべったんじゃろうが」
煉は足を組み直し、あぐらの姿勢から左足を立て、その膝に肘を乗せて頬杖をついた。つまらなそうに見える仕草だったが、舞にはむしろ落ち着いて話そうとしているように見えた。
「聞かせて。気になるんだもん」
「……」
観念したのか、煉はしばらく黙ったあと、視線を舞に向け、それから眼下の波打ち際へ移した。そして静かに語り始める。
「……俺は陸上をやってたんだ。中学の一年からずっと。いろんな種目をこなせるけど、得意なのは長距離だった」
舞は耳を傾ける。ようやく彼が自分を語り出してくれたことが嬉しく、同時に大きな興味が湧いていた。膝を折り、さらに聞く体勢をとる。無言の「続けてください」という気配を送る。
「合宿先で怪我をした。小さな怪我なら何度もあったけど、こんなのは初めてだった。医者は『大きな病院に行けば回復するかもしれない』って言ってたけど、それでも今までみたいにトレーニングや競技はできねえって」
「まあ……そうなの……」
伏し目がちに遠くを見つめる横顔は硬い表情をしていた。舞はスポーツ選手の挫折など、間近で感じたことも聞いたこともなく、どう言葉を返すべきか迷った。
その様子に煉はすぐ気づいた。
「別におめえが気にすることじゃねえよ」
「でも……ごめんなさい、そんなに深刻なことだったなんて」
「……深刻じゃねえよ」
そう言いながらも、やはり視線は落とされる。
「煉くん、しつこく聞いて本当にごめんなさい。今あなたがどんな気持ちかも知らずに」
「なんでおめえが落ち込んでんだよ。別に構わねえよ。こんなこと、競技やってりゃ当たり前にあるんだ」
スポーツの世界、とりわけそのトップの選手ともなれば、選び抜かれた者だけが残る場所だ。技術や才能はもちろん、身体の丈夫さも求められる。煉はそれを身をもって理解していた。
「……別に、当たり前のことなんだよ」
少し風が変わった。舞は煉の横顔を見つめる。ここ数日こんな場所で過ごしたせいなのか、シャツから覗く煉の腕は袖を境に、日焼けの色がくっきりと分かれていた。