10
『ALS』
筋萎縮性側索硬化症。出がけの車の中で、母に教えられた病名だった。指定難病2にあたるらしく、発症の原因も不明で、治療法も確立されていない病気だという。新幹線の中で煉が検索して得た知識は、それだけで胸を重くするものだった。
スマートフォンの扱いもおぼつかず、隣に座っていた男性に操作を教わりながらの検索だった。使い方に苦慮していた煉を見かね、親切に声をかけてくれたのだ。
調べれば調べるほど、出てくるのは深刻な情報ばかり。ついには煉は画面を閉じ、目を閉じて大きく息を吐き、天を仰いだ。
「どなたか、ご病気なのかい」
しばらく瞼を閉じていた煉に、再び隣の男性が声をかけてきた。
「え、あ……はい。そうなんです」
突然暗闇から声をかけられ、一瞬戸惑ったが、すぐに男性の方へ顔を向けて返事をする。
「すまないね、悪いとは思ったけれど……つい画面が目に入ってしまって。私は医者なんだ」
男性はそう言い、わずかに口角を上げた。
煉ははっとして、その言葉にすがる思いで向き直った。
「あの……このALSという病気は、治らないんでしょうか」
「今の医学では、厳しいね。私の身近にも患者がいるんだが……」
言葉を詰まらせる医師。その様子を見て、煉は膝を見つめ、恐る恐る問いかけた。
「どうなってしまうんですか」
「二、三年が限界だと思う。その方はね。ただ、もちろん個人差はある。進行を遅らせることもできる」
初期の段階で髪を洗うことすら困難な人もいれば、治療や療法によって長く生きる人もいるという。症状は千差万別であることを、医師は静かに説明してくれた。
「これからお見舞いなのかい」
「はい……会えるかどうかわかりませんが」
医師は何かを察したように一瞬目を見開いたが、すぐに目を細め、その後もしばし煉と語らってくれた。
――
煉はひとり東京に降り立ち、路線を乗り換えて、どうにか目的の病院へ辿り着いた。
正面玄関には報道関係者と思われる人々が集まっていたが、「現在は安定している」との報が出ているせいか、雑踏と呼ぶほどではなかった。
どうして自分はここまで来たのだろう。煉は今さらながらに思う。東京というあまりに大きな街。電車に乗る大勢の人々に圧倒され、そしてようやく辿り着いた巨大な病院の建物を前に、ただ立ち尽くす。
こんな高校生が一人で何をできるのか。あの日、偶然知り合っただけの少年が、東京までやってきたところで、何の力になるというのか。煉はひたすらに、自分の小ささと無力さを思い知らされていた。
それでも――あの子に会いたい。再会の約束を果たしたい。望みはただそれだけだった。
なぜ舞は身分を隠していたのか。なぜ病を黙していたのか。今になってようやくわかる。
彼女は一個人ではなかった。だからこそ『花咲舞』というもう一つの人格を作り、ひっそりと旅をしていたのだ。
「いや……」
煉は歯を食いしばり、拳を握る。難しい理屈のためにここへ来たのではない。ただ、伝えたいことがある。その一念だけだった。
――
病院に入り、煉は待合席に腰を下ろした。一息つくように深く座り込み、改めて思う。よくも初めての東京で、ここまでたどり着けたものだ、と。
そのときだった。
隣にどっかりと腰を下ろす気配があった。肩幅の広い男。スラックスの布地から太ももの筋肉の形が浮かび上がる。
「倉敷煉様ですね」
はっとして男を見上げた。なぜだ。どうして自分の名前を呼ぶのか。姿形どころか、名前まで把握されているとは――。
「お言付けを賜っております。こちらへ」
男は立ち上がり、耳に手を当てて何事かを話している。煉は導かれるまま歩き出した。
専用エレベーターで最上階へ。フロアの端にある一室へと迎え入れられる。
何人もの男たちに囲まれ、一挙手一投足を見張られる。入口では身体検査を受け、バッグも預けることになった。
「監視は行っております」
病室内にも当然監視カメラがあるらしい。異変があればすぐ駆けつけるのだろう。胸の奥がざわつき、落ち着かない。
やがて一連の“儀式”が終わり、どうぞと扉が開かれる。
薄いレースのカーテン越しに、冬の陽光が柔らかく射し込んでいた。室内はほどよい暖かさに満ちている。
一歩一歩、恐る恐る歩を進める煉。その目に、ようやく彼女の姿が飛び込んできた。
「久しぶりだね、煉くん」
花のように笑みを浮かべる少女。しかしその顔には明らかな生気の欠如。血色も薄く、声もか細かった。
煉はその姿に驚き、同時に戸惑う。どうにか笑顔をつくろうとするが、複雑な表情になってしまう。
「ふふ……煉くん、どんな顔していいかわからないって顔だね」
煉はまだ声を出せず、唇を噛みしめるばかり。爪が食い込んだ手のひらからは、血がにじみそうだった。
「煉くん、ごめんね」
舞がそう言った瞬間、煉は気を取り戻す。
「舞、謝らないでくれ」