5.暮れなずむアメノミナカ
壱馬が訓練を開始して二ヶ月が経とうとしていた。
いずも型護衛艦三番艦『ながと』の飛行甲板にアメノミナカが立っている。夕日を受けその機体は茜色に染まっていた。同じ飛行甲板に立ち、壱馬はアメノミナカを見上げる。
すでに見慣れた光景ではあるが、いつまで経っても現実であるという実感は込み上げてこない。さらに自分がこの機体に乗り込んで宇宙へ行くという実感も湧かない。
『休憩は終わりだよ』
インカムからオウカの声が流れてきた。
彼女の声は四六時中、どんなときでも流れてくる。国際協力のもとアメノミナカによる小惑星の軌道を変更するミッションはすでに大々的な報道が行われ、世界中の知るところとなっていた。しかし、関係者や内部の人間がその詳細を外部に漏らすことは禁止されている。
そのため壱馬は外部への通信手段を奪われ、施設内にある寮で生活を送っていた。連絡手段といえば、イヤリング型の超小型インカムだけである。それは施設内の者としか連絡が取れなかった。
隔離された生活に不満があるわけではない。与えられた部屋は快適で清潔である。普段から家族や友達へ自分から話しかけることは少なく、会話がないからといって、それにストレスを感じることもなかった。ただ、訓練の時間以外は何もすることがない。外部からの情報はフィルタリングされ、特にミッションについての報道や世間の反応を知る術はなかった。
だからオウカからの通信を煩わしく感じたことはなく、むしろ退屈を紛らわすことができて嬉しかった。そんな彼女も夜中に通信をしてくることはなかった。気を使っているのかと思っていたが、システムメンテナンスを行っているらしい。
彼女は自分が知的であることを隠そうとする。明るく、無邪気で、いたずら好きで、ときにどうしようもなく幼稚なことにこだわって、とにかく笑顔を絶やさないように努めているふうだった。
『壱馬くん、訓練は終わった? 一緒に食堂でご飯を食べようかと思って』
次に聞こえてきたのは環希の声である。
『終わってないっ! 外を見れば分かるでしょ? まだ、アメノミナカを格納していないっ』
いつもの場所で、と答える間もなかった。壱馬の代わりにオウカが応じ、勝手に環希との通信を遮断してしまった。
「僕の通信を監視して、勝手に切るなよ……」
オウカはいつも環希に高圧的だ。
壱馬はため息をついて視線を海に向けると、そこには静かな波があった。闇に染まり始め、一層の暗くなった海水と、オレンジ色の太陽の光が複雑に絡みあい乱反射していた。
『壱馬は……』
少し陰りのある響きだった。ふと、オウカが船縁で体操座りをして海を眺めているような気がしたが、もちろん壱馬の想像だった。
しかしオウカと訓練を積んできたせいか、想像と現実の区別が付きにくくなっていた。ヘッドマウントディスプレイ越しでなくても彼女は姿を現し、かくれんぼで見つけられたときのようなバツの悪い笑顔をつくり、頭をかいている。そんな幻覚がみえたような気がするのだ。
『壱馬はこの作戦が終わったらどうするの?』
オウカの質問に答えようとしたが、喉を詰まらせたように言葉は出てこなかった。壱馬はミッションが失敗して人類が滅ぶことも、成功してこれからどうするかということも考えていない。
「何も考えていない」
気の利いた夢か冗談を口にしたかったが、何も思いつかなかった。
『まあ、終わってから考えるでもいいかもね。お金だっていっぱい貰えるでしょうし』
「お金?」
『そう、給料。タダ働きじゃないんでしょ?』
「そういうオウカは?」
『私っ? さあ……そういえば考えたこともなかったな』
素っ頓狂な声は、すぐに低い声色に変わった。
『私ね、欲しいものがあるの』
「欲しいもの?」
オウム返しに問いかけるが、オウカからの返答はなかった。視線を海に向け大きく息を吸い込むと潮の香りが鼻腔をつく。オレンジ色の乱反射は小さな瞬きへと変わっている。そろそろ、アメノミナカを倉庫へ戻したほうがいいかもしれない。壱馬がアマテラスを見上げる。暗くシルエットのようになった機体、その頭部の上には白く瞬く星が見えた。小惑星アポカリプス。秒速20キロを超えるという途方もない速度で飛行し、月の軌道に迫ろうとしていた。明日の早朝、急速ランデブーで四〇〇キロの上空にある国際太陽光充電ステーションに向かう。そしてあの小惑星を狙撃する。それで人類が明後日の朝を無事に迎えることができるかどうかが決まる。
『私ね、口紅が欲しい』
オウカがぽつりと言った。
「口紅? VRなんだから化粧なんて思い通りにできるんじゃ……」
『壱馬、口紅はね、仮想と現実の狭間に引かれているんだよ』
その時、夕日が落ち、海と空の境界もまた消えた。
『壱馬、私たちの訓練は終わり。コックピットに戻ってきて』
アメノミナカが腰を落とし、壱馬の前に手の平を差し出した。