2.袖ひちて、むすびし水のこほれる
環希と肩を並べて岸壁へと向かう。そこには空母が停泊していた。
「し・ん・ぐ・う・航空宇宙センターじゃないの?」
少なくともパンフレットにはそうルビがふられていた。しかし、壱馬の疑問に環希は首を振った。
「し・ん・く・う。ここの職員はそう呼ぶ。濁らないの。なぜならここにアメノミナカがあるから」
「アメノミナカ?」
壱馬は首をかしげるが、環希は構うことなくずんずんと空母に向かって歩き続けた。
それは近づくほどに脳の認識が狂うほどの巨艦である。このような鼠色一色の鉄の塊が、海に浮かんでいるということを信じられなかった。壱馬はせり出した飛行甲板のあまりの高さに息を飲む。
甲板の直下から何本もの白いロープが伸びて、キノコ型の係船柱に結びついていた。
「いずも型護衛艦の三番艦『ながと』。全長は約二五〇メートル、総排水量は二六〇〇〇トンあるんだって」
環希の説明を聞いても、その数値と目の前の物体の質量感とは結びつかなかった。彼女は壱馬が反応を示さないことを特に気にする様子もなく、船体の中央にぽっかりと開いたトレーラーですら乗り込めるタラップを昇っていく。
見張りのようにセーラー服に身を包んだ自衛官がいたが、彼女を見咎める者はいなかった。
彼女の背を追って艦内の日の当たらない場所へ踏み込むと、一瞬暗い場所に迷い込んだような気分となるが、すぐに目は慣れていく。そこは艦内とは思えない広さを持つ航空格納庫だった。しかし、壱馬が驚いたのはその広さではなく仰向けに寝かせられている白い機体だった。
頭部は人のようであり、鷲のようでもあった。風切羽のようにアンテナが伸びている。口の部分はマスクで覆われている。厚い鋼鉄の甲冑を着込んだような胸板と肩の部分のせり上がりがあり、そこからすらりとした腕が伸びている。腰の部分に目を移すと、垂れのような腰当てがあり、そこから膨らみのある足が伸び、その終端は蹄に似た足先となっていた。
それは鋼鉄の衣を纏った人の姿を象っていた。
「これは……」
ぽかんと口を開き壱馬はロボットを眺める。
「全長は25メートル。本体の重量は120トン」
「いや、どうしてこんなものが……?」
「宇宙空間用人型マニピュレーター。名前はアメノミナカ。万国博覧会で未来だといって動かないロボットを展示するのも、客寄せとしては限界だろうということで、日本の企業有志連合が予算を出し合って開発していたの。名前はその企業の頭文字を並べたものだって。もっとも、最後の『カ』は株式会社の『カ』なんだけどね」
環希の言葉に壱馬は目を見開いた。
「まさか、動くの?」
「もちろんっ」
環希が力強く頷く。
見渡しても作業用のクレーンなどは見当たらない。先ほどのタラップからも持ち込める大きさではなかった。この機体がどうやって格納庫に運び込まれたのか疑問だったが、天井の一部が長方形に切り取られ、そこからぽっかりと青空が覗いていることに気づく。甲板と繋ぐ航空機用エレベーターである。そこからこの機体は乗り込んだとでも言うのだろうか。
「……って、いやいや、そういうことじゃなくて、なんでこんなものがこんなところに」
「この機体を宇宙へ飛ばして小惑星アポカリプスを狙撃するの。乗ってみる?」
「は?」
壱馬の返事を待たずに環希はインカムに触れる。
「オウカ、聞いてる? 私と一緒にいる男の子は壱馬くん。アメノミナカに乗ってみたいんだって」
「そんなこと言ってないって」
壱馬が抗議しようと環希に向きを変えたとき、ギュィンと電子音のような金属が擦れる音が響き、アメノミナカの目が光った。そして背中部から蒸気のような白い煙が吐き出され、二人を包む。壱馬は思わず、腕で顔をかばった。
「な、なんだ……っ?」
アメノミナカは蒸気を吐き出し続け、立ち込める靄の中、上半身を起こした。
「っ!」
あまりの威圧感に壱馬はよろめき、一歩後ずさる。そこにアメノミナカの手が伸びてきた。
白く塗装されているが、重厚な金属の質感が伝わってくる。それは人と同じように丸みを帯びた外装であるが、関節部分は複雑な機構が露出していた。
「関節部分に触れないで。稼働させたときに挟まれて潰れちゃうから。代わりにホールド……、くぼみがいくつかあるからそれを見つけて手のひらの上に」
「手の上に乗るの?」
環希が頷く。
「昇っても立たないでね。一応、施設の中に病院はあるけど、落ちれば助けられないかもしれないから」
壱馬はどうして自分がこのような状況になっているのかわからなかったが、アメノミナカという機体を恐れる気持ちと同時に強く惹かれる思いがあった。
「えっと、環希さんは……」
「環希でいいって。壱馬くん」
「じゃあ、環希は乗らないの?」
「私はオウカに搭乗を拒否されているからここで待っている」
「オウカ?」
「アメノミナカのメインパイロット」
「この中に乗っているの?」
「うーん……、説明はあとでちゃんとするから、とりあえず乗ってみて?」
環希に背中を押され、壱馬はアメノミナカの手のひらの上に乗る。すると、想像以上の滑らかな動きで機体の胸元へと移動した。環希の警告は不要だったと感じていると、胸元がハッチのように開き、手のひらにタラップが伸びてくる。
「その奥がコックピットになっている」
環希の声がかなり下の方から届いて、壱馬は落ちれば下手すれば死ぬかもしれない高さにいることを思い知る。ただ彼女の声を聞かなくても、鋼鉄の回廊の奥には単座の操縦席が見えた。コックピット内は電気が点いておらず薄暗く感じる。そしてオウカという人物の姿はなかった。
壱馬は意を決しておそるおそるタラップを渡りコックピットへ乗り込むと、圧縮された空気が抜けるような音とともにハッチが閉じられる。闇に包まれ、一瞬耳に強い空気が送り込まれたような感覚に陥ったが、青白いライトが点灯するとともにその感覚も消えた。
足元は平らだが、その空間は球形で外面とは違い鼠色に塗装されている。狭く閉塞感がある。操縦席の他は計器やスイッチもなく、鋲のあとがむき出しになっているところが無機質に感じた。
操縦席は全身を包み込むように作られていた。クッションの材質はよくわからない。質感は少し固めに思えた。壱馬がおそるおそる座ると、クッションの圧力が変わりフィット感が増す。
足の隙間から操縦桿が伸びてきて、頭部がヘルメットで包み込まれた。さらにレンズが顔を覆い頬の下まで達する。レンズはモニターとなっており計器が浮かび上がり、さらに倉庫内の景色が見え、圧迫感から解放される。
足元に壱馬を見上げる環希の姿が見えた。固く口を結び強い眼差しでこちらを見つめている気がした。
『あの子は機体の胸元を見ているだけ。あなたを見ているわけではない。あの子はあなたの彼女?』
不意に耳元に女性の声が響いた。驚いて左右に首を振るが誰の姿も見えない。しかし機械的な響きはなく、生々しさがあり、その声はどこか環希に似ているような気がした。
『私はそこにはいない。脳波通信で脳に直接言葉を届けている』
視界を塞がれている感覚がなく、頭部も自然に動かせるため、ヘルメットを被っている感触が消えていた。おそらく、ヘルメットにある計器を使った通信なのだろうと理解する。
「環希?」
『そんな名前で呼ばないで。ゾッとする』
彼女の返事にメインパイロットがいたことを思い出す。
「もしかして、オウカ?」
『そう。それであなたはあの子の彼女?』
「いや、環希とは今日会ったばかりだけど……」
その瞬間、操縦桿の向こうに一人の少女が現れた。
明るく染めた髪、軽くつり上がった目尻と、口紅をのせた唇の端を軽く持ち上げたその微笑みは、勝ち気な印象を強く感じる。白いパーカーの服の上に黒のジャンパースカートを着込んでいた。後ろで手を組み、ふっくらとした胸を突き出している。彼女は手を差し出し、アームレストの上にある壱馬の手に重ねた。柔らかな感触が伝わってくるが、そこに熱は感じられない。しかし、近づけられた彼女の瞳には熱がこもっているように感じられた。