ヴァチュリエからの手紙
母国からの手紙が届いたのは、婚礼から一ヶ月が過ぎ、すっかり夏らしくなった頃だった。
日本とは違い、湿気がない分過ごしやすいが、暑いものは暑い。いまだに公務を割り振られていない暇な私は、相変わらずだらしのない格好で、部屋に籠っていたり、少しオシャレをしてお忍びで城下町に出かけたりしている。
皇帝からのお咎めはない。どころか、お渡りすら初夜以降、一度もなかった。
ミレア妃もセアラ妃も、ヴァーチェ女神ほどではないが、豊満な肉体の持ち主である。
まぁ、ミレア妃はそろそろ五十に手が届く歳だ。そういう欲がお互いにあるのかどうか……想像したら、なんだか気持ち悪くなってきた。
そういうわけなので、幼児体型のルーナマリアの身体はお眼鏡にかなわなかったのかもしれない。それはそれで、気楽でいい。セックスをしたいわけじゃないし。
貴人の身に纏うドレスは、夏であっても重ねるのが基本である。どれだけ薄い布を使っていても、まったく涼しくならない。私は庶民が着用する麻製のドレスをこっそり購入し、夏の間の部屋着にすることに成功した。エミィを始め、女官たちのウケは非常に悪いが、背に腹は代えられないじゃないの。
女官といえば、私が第一皇妃のお茶会で「オバサンばっかり寄越さないでくださる?」と嫌味を言った結果、ごっそりと入れ替わった。私にあれこれと話されると困る女官長の差し金であろう。未婚の貴族の娘たち、十五歳から二十歳までを見繕い、私の話し相手に任命した。そこに私の意志は介在しない。
まあ、エミィ以上に面白そうな存在はいないから、彼女たちは基本的にはそこにいるだけだ。着付けでもなんでも、エミィひとりで事足りるので、好きにさせている。放任していたら、焦れて面白いことをしでかす子が出てくるかもしれないという、期待も少し。
開封され、検閲済みの封筒を指先でつまみ、ぽいと放り投げた。慌ててキャッチしたエミィに、「あなたが読んでちょうだい。私、お兄様の字は悪筆すぎて読めないのよ」と命令した。
「ルーナマリア様。お手紙ならば、私たちが……」
でしゃばる女官は、エミィのことを見下している。庶民の出のメイドが字を、まして自国のものではなく、肉親が「字が汚い」と一刀両断にした手紙を読めるわけがない、と。
私はパタパタと煽いでいた扇(パーティの小物として使う、羽飾りがたくさんついたものではなく、実用的なものだ。これも庶民向けの雑貨店で購入した)を、パチンと閉じて、言い出した女官の鼻先に突きつける。
「お黙り。私はエミィに頼んでいるの。あなたじゃないわ」
顔に「不満」という字をありありと浮かべた女は、一歩下がった。意地悪く、取り巻きの同輩に向かって笑い、肩を竦める。
受け取ったまま、躊躇しているエミィを促して、目を閉じた。紙を広げる音がして、しばしの沈黙の後、震える声が手紙の内容を告げる。
「『親愛なる我が妹、ルーナマリアへ』」
はい、ダウト。
口にしかけたが、この世界で「ダウト」はたぶん、通じない。
婚礼には、父親も兄も参列していなかった。国の高官が来ただけだ。仮にも王女が嫁ぐ、しかも格上の帝国にとなれば、父王は無理でも王太子である兄・サーランは名代として出席し、「妹のことをよろしく」と頭を下げるのが筋であった。それが、ルーナマリアの身を守ることとなる。
なのに、彼らは都合がつかなかっただとか体調に不安があるからと、出席を拒否した。ルーナマリアは親兄弟から愛されていない娘であるということになり、皇妃やその子どもたちだけでなく、宮中で働く人々からも、蔑まれたり哀れまれたりしている。
ま、気にしてないんだけど。
「『そちらの国では、月が沈むのはいつ頃であろうか……』」
そんな一文から始まった手紙は、何の変哲もない、ご機嫌伺いの手紙であった。
皇帝陛下にはよくしてもらっているのか。「よく」の中身はもちろん、寵愛を指し示している。
この世界、子どもは政治の道具に過ぎない。私が子どもを産んだとして、その子が男であろうとも、皇太子になることはない。外戚政治なんて、他国にいる兄や父には不可能なのに、どうして子どもを期待するのか。現代日本に生まれ育った私には、まるで理解不能だ。
これ以上聞いていても、有益な情報は得られない。そう判断した私は、兄の言葉ではなく、エミィの声に集中した。
低く、深い声は耳によく馴染み、私の気分を落ち着かせる。女官たちは、真逆の感想を抱いていそうだ。
エミィは流暢に、異国の言語を読み下して帝国の公用語に同時に翻訳している。しかもそれが、庶民の言葉とは違う貴人の文法だから、「このメイドは何者?」と、動揺しているのが、空気から感じられる。
「『……また折を見て、連絡する。愛するルーナマリア、元気で。サーラン・ヴァチュリエ』」
何度か声が震えたものの、エミィは立派に役目を果たした。ぱちっと目を開けた私と視線がかち合うと、彼女はそっと伏せる。
「あら、恥ずかしがらなくてもいいわ。あなたの音読は、完璧でした。ありがとう」
「……いえ」
心なしか青い顔をしたエミィから手紙を受け取り、私は一応、自分の目でも確認をする。何もかも、エミィが読んだ通りの手紙であった。
いやしかし、本当に字が汚い。これをよくあのスピードで、しかも翻訳しながら読むことができたものだ。
エミィは只者ではない。メイドであり、女官であり、秘書にもなれるスーパーマンだ。
だからこそ、彼女のすべてを私が掌握し、操る必要がある。他の誰かの手によって動かされる彼女は、美しくない。私自身の手で、輝かせてあげる。
ぼんやりと思索に耽っていると、遠慮がちに女官が話しかけてくる。
「ずいぶんと、ご熱心ですのね、ルーナマリア様」
ちなみに、彼女たちには「ルナ」呼びを許していない。エミィを真似て、了承もなく呼んだ女の手を、鞭で思い切り打ったから、以降は誰も呼ぼうとしない。
ひらひらと手紙を振り、そのまま机の引き出しの中にしまう。
「手紙は形に残るでしょう? そこには書き手の情念が宿り、いろいろなことを伝えてくるものなのよ」
「はぁ……」
皇妃の言うことはわからない、とばかりに間抜けな返事をした女官は、見込みがない。ならば最初から、話しかけてこなければいいのに。
苛立ちを感じ取った女官は一歩下がり、私の言葉に頷いていたエミィだけが私の傍にいる。
日向瑠奈は生前、手紙を出していた。自分が死んだ後、三か月後に届くように日時指定をして。
送り先は、高校の同級生だった。一年の頃から同じクラスで、私のことを目の上のたんこぶとして、忌み嫌っていた女。
中学校では、才媛であると持て囃されてきたのだろう。なるほど彼女は、見た目も私とは系統が違うが美人だった。勉強もよくできた。部活も陸上部で、県大会で成績を残していた。気配りができる女で、クラス委員を自ら買って出た。中学のときは、彼女を中心にクラスが運営されてきたに違いない。
才色兼備、文武両道。でもそれってあなただけの称号じゃないって、知ってる?
小学校の頃から、何度も実験を繰り返した私と、たまたま私が存在しなかった学校での成功体験しか知らない彼女とでは、勝負にならなかった。
からかわれ、いじめられているクラスメイトに、私は親切に接した。そのいじめを煽動したのが私だと気がつかない愚か者。私に優しくされて舞い上がるその様子も、皆に馬鹿にされていたことを、今もあの子は知らないだろう。葬儀では、きっと醜い豚みたいな声を上げて、会場を盛り上げてくれたに違いない。
私のやっていることに気がついたのは、委員長の彼女が初めてだった。やっぱり、どんなゲームも同じくらいのレベルのプレイヤーがいないと、盛り上がらない。他のクラスメイト? プレイヤーじゃなくて、彼らは駒だ。RPGに出てくるモンスター。倒せば経験値になる。今は見逃しているだけ。
ある日のホームルームで、彼女は私を糾弾した。このクラスを操って、玩具にして楽しんでいる悪女である、と。
その言葉が真であるということを知っているのは、当の本人である私だけだ。
私は直接、誰かに「あの子うざいからやっちゃってよ」なんて、命令をしたことは一度もない。ただ、ちょっと失敗したときに、「あらやだ」と驚き目を見張ってみたり、顔を顰めて目をやっただけ。一瞬のことだ。
それを勝手に汲み取って、「瑠奈ほどの子人間にこんな顔をさせるなんて、あの子はいったい、どういう子なんだろう?」と注目し、幻滅し、異物であると排除し始めたのは、他の連中だ。
私は皆で仲良くしてくれたってかまわないのに、なぜかいつも、私が視線をやった人間は、取り除かれる運命にある。
彼女の告発は、抽象的であった。いじめられている子が、「日向さんはそんなんじゃない!」と、猛烈に反発する。
私は困惑しきりの顔で、
「私はそんなこと、した覚えがないんですけど……動画とか写真とか、何か残ってる? それを見たら、思い出すかもしれない」
と、証拠を要求した。無論、そんなものを残すほど、私は愚かではない。勝手に録音されていたからといって、困るような発言は、一切していない。グループLINEだって、悪口に発展しそうな気配を感じたら、すぐに「そういうの聞きたくないな、私」と諫めているのだ。
言質を取られないようにする、というのは実に難しく、やりごたえのある知的パズルの一面があった。
「そうだよ。証拠は~?」
証拠、証拠の大合唱。県下で一番のお嬢様学校で行われているとは思えない。小学生でしかやらない煽りに、告発者は顔を真っ赤にしている。
そろそろ頃合いか。手を大きく打ち鳴らした。訓練の行き届いたクラスメイトたちは、ピーチクパーチクとうるさい口を、即座に閉じる。そんな光景も、この女の目には異様に映っているに違いない。
「皆さん、いい加減にしてちょうだい……これは、××さんの勘違いだった、それでいいじゃないですか? ね? 私も、誤解されるような行動は改めるわ。××さん。許してちょうだい」
こちらから先に謝意を伝えると、普通の人間は、それ以上怒ることができなくなるものだ。スカートを握り締めた少女は、私からふいと視線を逸らせた。
「これからはもっと、仲良くしてくださいね、××さん?」
微笑む私に、返事はない。でも、私には見えていた。
彼女の目は、私を憎みつつも、同時に憧れていると教えてくれる。
気づかないフリをしていれば、じっとこちらを見つめてくるのだ。私が振り向けば、ふいとそっぽを向く。
……ふふ。かーわいい。決して懐くことのない、けれど私の傍を離れたくない猫ちゃんみたいだ。
正反対の性質のものに対して、人は惹かれたり、反発したりする。彼女は正義の味方の気質があって、私は悪役だ。もっと言うなら、彼女は自分自身を枠の中に押し込めている。対してこちらは自由だ。
私は積極的に彼女に話しかけた。半ばも話さないうちに拒絶されると、露骨に悲しい顔をつくった。心の中では楽しんでいても、ショックを受けた顔をすることはできる。
私の友人(というよりも、あれは正しく取り巻きであった気がする)は、両サイドに立って肩や背を撫で、「気にすることないわよ、あんな性悪!」と、私の分まで怒ってくれた。
性悪、という言葉は気に入った。その罵倒を真にぶつけられるべきはこちらだというのに、人間を騙すのはいともたやすいことで、あまりにも簡単すぎて、嫌になる。
私に死を選ばせたのは、そういう退屈だった。
――だからね、私、××さんには感謝しているの。あなたが睨んできて、証拠を掴もうと頑張るのを見て、すごく面白かった。
だから、死後に手紙が届くように手配した。あなたも私と同じで、この世が退屈じゃないかしら? ああ、むしろ学校で白い目で見られているから、居心地が悪いかもね? それならやっぱり、逃げちゃえばいいんじゃない?
日常生活の中で、少しずつ罪悪感を植えつけていた。話しかけては拒まれ、落ち込み、また話しかける。そうすると、「悪いことしたな」と、向こうが勝手に落ち込んでいくのだ。
私の方は、今日はあと何回声をかけるぞ、とノルマを設定していたくらい、つまらない作業。でも、最高の結果を手に入れるためには必要だった。
彼女の元に送りつけたのは、「本当に、仲良くしたかったの」という文言。無視をされて辛かったのだということを滔々と述べ、結びはこれだ。
――私が死んで、嬉しかった?
とっくに大きく育っていた罪悪感は、花をつけ、実を結ぶ。こうして生まれ変わっている現在、私の幽霊は存在しない。でも、彼女は私の影に怯えている。間違いない。私には、わかる。
手紙、特に手書きのものには情念が宿る。こんな私の、嘘っぱちの恨みつらみであっても、相手に伝わる。破り捨てようが燃やそうが、人間の脳にはくっきりと転写される。複雑な想いを抱いていた相手からのものなら、なおさら。
「あの子、結局どうしたのかしら?」
名前すら思い出せないし、なんなら顔も朧げだ。私の手紙を受け取って、思い通りに動いてくれていたら、今頃……。
「ルナ様?」
すでに私の専属となり、他の仕事は免除になっているエミィは、ずっと部屋の隅に控えている。私が窓の外を覗いてアンニュイな雰囲気を漂わせているのが気になったのか、話しかけてきた。
「なんでもないわ、エミィ。ちょっとね、時限爆弾の行く末が気になっているだけなのよ」
爆弾という言葉の意味がわからないエミィは、首を傾げた。存在しない科学レベルなのか。
もう一個、いとこが私と同じようにトラックに突っ込んでいって自殺するかどうかの実験結果がわかるまでには、あと二年か三年かかる。私の死と引き換えに起動した装置の結果を見られないのは残念だ。
それとも女神様ならば、教えてくれたりするんだろうか。
今度会う機会があったら、聞いてみよう。あら、こちらからあのお方にコンタクトを取る方法って、あるのかしら?
聞いておけばよかったなあ、と思いつつ、私は面倒なことはさっさと済ませるべく、兄の手紙への返事に着手した。