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ルーナマリアは第三皇妃

 裸で目覚めたベッドの上で、私はひとりだった。


 昨夜は初夜であったわけだ。前の人生ではする必要がなかったので、性交渉は初めてだった。


 意外と呆気ないものだったな、という感想が胸に去来する。


 それにしても、新婚の妻とともに目覚めないとは、政略結婚ここに極まれりって感じだ。


 ごろりと寝返りを打ってうつぶせになり、両手でこめかみらへんを揉む。記憶の整理は大切だった。


 創世女神のヴァーチェと契約を交わした私は、速やかに彼女の創った世界へと転生を果たした。


 転生、というと少し違うかもしれない。胎児からやり直したわけではない。乗っ取りとか憑依とか、そういう表現が正しいのだろうが、便宜上「転生」が最もわかりやすいので、これからもこの言葉を使うことにする。


 私が転生したのは、ルーナマリア・ヴァチュリエという、小国の王女だった。そう、また「ルナ」だ。十七で死んで十五で生き返った。


 ヴァチュリエ王国は、その名の通り、ヴァーチェ様を信仰する宗教の総本山がある国だ。ルーナマリアはそこで、巫女姫として育った人だった。イメージとしては、伊勢神宮や加茂神社の斎王が近いが、ルーナマリアの場合は、「ガチ」であった。


 象徴ではなく、本当に女神を下ろし、託宣を行うとして彼女は大切に育てられてきた。


『あの子ね、意識が薄いというか、いつもぼーっと寝ているようなものだから、私も入りやすかったのよね。だからあなたもすんなり入って、そのまま定着できるわ』


 手をグーパーと開いたり、足首を回したり、ベッドの上でできる運動をいくつかやってみる。脳からの指令を、手足はきちんと受け取って動かすことができる。特に不具合がないということは、ヴァーチェの言葉通りであったのだろう。これまでこの身体の中にいたルーナマリアの精神は、最初からなかったみたいに、この身体はしっくりと馴染んでいる。


 私が意識を取り戻したのは、ルーナマリアの結婚式だった。


 相手は、グーツァ帝国現皇帝・ファレス三世、その人である。御年五十歳。なんと、三十五歳も年上の男に、第三皇妃として嫁がされたのである。下手をすると祖父と孫の年齢差だ。もちろん政略結婚。もとい、人質である。


 国民に巫女姫として慕われる王女を差し出し、翻意がないことを明確にする。もしも祖国が帝国に反旗を翻せば、私は即刻処刑され、首だけが王国に帰還するに違いない。


 昨日、婚礼の後に引き合わされた皇族たちのことを、指折り数えながら思い出す。こちらはヴェールを被せられていて、視界ははっきりしなかったけれど、転生特典として頭にインプットされたこの世界の常識がある。


 皇帝がひとり、その妃がふたり。子どもが五人……あら、おかしいわね。四人しかいなかった気がする。


 ああ、そうか。第二皇子は留学をしているんだった。まあ、帝国以上に発展した国もないので、体のいい厄介払いだ。外国で学ぶことは、ほとんどない。


 次男は、長男との政争に負けたのだ。父親が自分とほとんど年の変わらない妻を新たに迎えるからといって、戻ってこられるはずもないし、そもそも参列したいわけもない。


「皇太子が二十八歳、第一皇女が二十四歳……だっけ。で、ここにはいない第二皇子が、十八」

 転生したけれど、普通のか弱い女の子である私には、天変地異は起こせない。国の滅亡は力業ではなく、策略によって成すしかない。


 正直、親世代はどうにだってなるし、眼中にない。ファレス三世は老獪で抜け目がない。彼が即位した後に帝国は勢力を飛躍的に伸ばしたらしいが、それでも彼はもう、五十歳なのだ。寄る年波には勝てない。妃たちも、まぁ似たようなものである。


 第一皇妃・ミレアは明確にこちらを値踏みして、格下であると判断した。小物を見るような目で半笑いになると、「陛下とわたくしたちのために、巫女の力を役立てておみせなさい」と、命令をした。これは、ルーナマリアの神がかりを信じていないな、と直感した。


 第二皇妃・セアラは、こちらにまったく興味がない様子であった。よろしく、の一言だけで済まされて拍子抜けしたほどだ。彼女はどうやら、自分の見た目にしか興味がないらしい。皇帝からの寵愛なんかも、本当のところ、どうでもいいのだろう。


 いずれにせよ、彼らのことは眼中にない。国をぐちゃぐちゃに引っ掻き回して、より多くの人間を道連れに滅ぼすためには、子世代の篭絡が肝要である。物語に出てくる王族のように、愚かであれば助かるのだが、皇帝の子どもたちとは会釈をしただけで、人となりについてはよく知らないのが現状だ。


「そういえば、子ども世代は誰も結婚していないのね」


 十五歳の私が嫁ぎ、男を知ったというのに。


 第二王女は私とひとつしか変わらないから、本当にあの皇帝は、娘を抱いたようなものなのだ。もう子どもはじゅうぶんにいるのだから、白い結婚でもいいのにね。律儀なのか、好色なのか、まぁおそらくは後者だろう。下心のない男なんて、そうそう存在しないんだから。


 第一皇女のマリアナは、どこかの国の王子のもとに嫁いだのだけれど、すぐに離縁されたのだっけ。そのあたりを突けば、何か出てきそうね。


 でも、二十八にもなって、婚約者のいない皇太子・マクシミリアンはいったいどうなっているんだろう。皇帝もどうせなら、年がまだ近い息子に私を娶せればよかったのに、献上される女は、全部自分のものとでも思っているんだろうか。


 ――気に入らないな。


 知らず、爪を噛んでいた。私は誰のものでもない。一度抱いたからって、あんな爺の女にはならない。


 どうやったら夫となった皇帝の惨めったらしい最期を見ることができるかを思案していると、寝室の扉がノックされた。


「……はい」


 応じてから気づく。


 私、まだ裸だった。




 全裸でベッドの上に横たわっている少女を見ても、入ってきた女たちは、顔色ひとつ変えなかった。慣れているのだろう。皇帝にはすでにふたりの妻がいて、彼女たちはもともと、そのどちらかに仕えていた身だ。合計五人の子どもがいるのだから、夜の方も若い時分にはお盛んで、その度に世話をしていたに違いない。


 女官たちは私の身体をものであるかのように扱う。汗でべたべたする肌を清拭されるのは気持ちがいいものだが、居心地は悪い。


 彼女らを雇っているのは国、ひいては皇帝だが、主人はそれぞれの皇妃たちだ。言い含められていて、私には愛想のひとつも寄越さない。時折、皮膚が赤くなるほど擦られる。ルーナマリアの身体は脆弱で、すぐに痕になる。


 不規則にやってくる痛みに耐えつつ、私も腹心の部下が欲しいな、と考えた。そうね、御しやすくて同じくらいの年の、可愛い子がいいわ。素直で愛らしくて、馬鹿だけど有能な子。


 だが、そういう子を見つけるのは、難儀しそうだ。第一・第二皇妃のおさがりしか寄越さないということは、皇帝は私専用の女官を用意するつもりがないのかもしれない。


 普通、こういうシーンでは新たな皇妃となった私を思いきり褒めそやして、今後の地位を確立しようと媚を売りに来るものだが、女たちは皆、無言で私の身なりを整えていく。


 よく観察すると、彼女たちは私よりも、ずっと年上だ。城勤めとはいえ、女官は試験で採用されるわけではない。家柄と美貌、仕える相手との相性によって雇用が決まる彼女たちも、家に帰れば貴族の奥様たちである。若作りはしているが、正真正銘の十代の私とはやはり、肌艶が違う。


 見たところ、一番若い女官でもアラサー。年かさの女になると、五十に届くかどうか。いずれにせよ、十五の私からしたら立派なおばさんだ。


 女官は皇族の女に仕えると同時に、腹心の友ともなれる存在だ。彼女らと私とでは、年齢が違いすぎて、話も合わない。こちらから言葉をかけるのも面倒で、黙ってされるがままになっていた。


 着せられたのは、普段着用のデイドレスだ。色はパッとしないくすんだブルーグレーだった。装飾があればまだしも、シンプルなストンとした形の衣服は、高貴な身分の女が身に着けるものではない。


 客観的に見て、ルーナマリアの顔は、美人というよりも愛くるしい。肌は白く、癖ひとつないプラチナブロンドに、明るいすみれ色の瞳。微笑みひとつ浮かべて我儘を言えば、たいていのことは通ってしまうであろうことは、生前の自分の経験から想像がついた。


 十五という年齢、それから顔立ちを考えたうえで、この色、材質、デザインを組み合わせるのを是だとするのならば、この女官たちは処罰されなければならない。


 鼠色、とは言いえて妙である。どこの皇妃が、ドブネズミの毛皮の色をしたドレスを身に纏うだろうか。誰の差し金だか知らないけれど、馬鹿にするのもいい加減にしてほしいものだ。


 鏡を見て、ふぅ、と息をつく。そのまま、衣裳部屋へと移動した私を、女官たちは全力で止めに入った。ドレスをひっつかんでこようとする手を、「無礼者」と打ち払い、寝室より少し小さい程度の、ウォークインクローゼットと言うには広すぎる衣裳部屋を開けた。


「……どういうことなのかしら、これは」


 私が意識を取り戻したのは、婚儀の最中ではあったが、ルーナマリアが見ていたものの記憶は残っている。彼女は意志薄弱で話をすることのほとんどない女だったが、意識が混濁しているわけではない。


 巫女姫としてルーナマリアを慕っていた母国の女官たちは、「帝国の方々に負けないように」「姫様に一番似合うドレスを」と、一生懸命にドレスを用意してくれていた。


 普段着からパーティー用のイブニングドレス、正装のローブ・デコルテ。閨での着用を目的とした、ヴァーチェが着ていたような薄絹のナイトウェアまで、それこそ結婚が決まってすぐに動き出していたのだ。


 大量の衣装は、この部屋に運び込まれたはず。何台もの馬車による花嫁行列の内、いくつかは嫁入り道具だけが積まれていたし、そこに私のドレスも含まれていた。


 それが一着もない。がらんどうな衣裳部屋を目の当たりにした私は、ゆっくりと振り向き、女官たちに微笑んだ。


「どういうことなのかと、私は聞いているのだけれど?」


 愛らしいルーナマリアの顔立ちから、日向瑠奈の笑みを繰り出す。


弟曰く、私のその顔は、美しい悪魔による断罪の時間を告げるもの、だそうだ。美少女、と形容される顔立ちであっても、私の本来の顔とルーナマリアとでは、似ても似つかない。効果があるのかは疑問だったが、女官たちの様子を見るに、問題はなさそうだった。


「ねぇ、あなた。答えてくださる? 私が国から持参したドレスは、どこにしまったのかしら?」


 一番気の弱そうな女に焦点を絞る。忠誠など、捨てた方が身のためだということが、わからないのかしら?


「そ、それは……」


 若い方の女官たちが顔を見合わせる。年長者たちに視線を向けようとしないのは、派閥が違うのだろう。私たちは関係ないという態度を取っているが、通用すると思うな。


「言わないのなら、いいわ。私はこのまま、『表』に出ます」


 無論、表というのは単純に与えられた私室の外に出ることを指すのではない。妃たちのいる奥に対する表というのは、王や官吏たちが政治を行い、働いている場だ。様々な思惑の人間がいるから、女官(や、彼女らが仕えている妃)に同調し、このみすぼらしい姿を嘲笑う者もいるだろう。


 けれど、多くの人間は、自国の皇妃となった女が、似合わないドブネズミ色の衣装を着て、「国から持ってきた私のドレスを探しているのです」と訴える様を見れば、だいたいのことを察するだろう。


 特に今は、各国から新たな皇妃の嫁入りを祝いに来た来賓たちもその辺を歩いている。彼らに行き会って、こんな姿を見られたら、帝国の恥だ。私の母国からも来賓が来ていて、ついでに帝国内を視察している。


 青ざめて震えている女官たちを一瞥し、私はドアに手をかけた。


「お、お待ちくださいまし、ルーナマリア様!」


 ひっくり返った声で叫んだのは、一番年長の女官である。苦々しい、奥歯を噛みしめているのがまるわかりの表情だ。


「その、妃殿下のお召し物は、ええ……セアラ妃殿下の元へ……」

「ちょっと!」


 若い方の女官たちが抗議の声を上げる。仲間割れだ、とほくそ笑んだ。全員の責任として処罰を下されるとなれば、必ず裏切る。別に、第一皇妃と第二皇妃は仲良しではないのだから。


 私は若い女官たちに向き直り、


「そう。あなた方の主人は、セアラ妃なのね……陛下ではなく」


 自分ではなく、皇帝の名を出すのは、効果的だった。何せ、ファレス三世は気に入らない人間はすぐに切り捨てると評判の冷血な男だから。第三皇妃を粗末に扱い、ひいては諸外国に弱みを握らせるとなれば、どうなるか想像に難くない。


 女たちの問題だけでは済まない。彼女たちの婚家や実家にも、累は及ぶ。離縁されても文句は言えないし、実家に出戻っても居場所はない。


 真っ先に跪いた女に倣い、セアラ妃の配下の者たちが私に許しを乞う。他人事のように突っ立っているミレア妃方の女たちに、私は首を傾げた。


「何をしているのです? あなた方も私の前に伏して許しを乞うのが当たり前でしょう? 暴挙を知っていて、止めなかったのですからね」


 娘と言っても過言ではない年の私に命令され、年長の女官はあからさまに「屈辱です」という表情を浮かべていた。


「特にあなた、女官長なのでしょう? どうして止めずに、私が問題にしてから言い出したのかしら。女官長というのは、皇妃となった私よりもえらいの?」


 まさか、私が気づいているとは思っていなかったのだろう。驚愕に目を見開く女に、クスクスと笑う。


 おっと、あまり豪快に笑うのは、この国の貴族だとマナーがよろしくないのよね。口元を覆い隠す。あらいやだ、この服、変な臭いがするわ。洗濯していないものを着せたのかしら。さらに罪を重ねちゃって。


「ふふ。私にバレたと知ったら、ミレア様はあなたをどうするのかしら。もちろん、女官たちが勝手にやったこと、関知していないと言い張るのでしょうね。貴い身分の人間というのは、そういうものよ。保身のためなら、長年の腹心の部下も、平気で裏切るのです。何度もご覧になっているでしょう? あなた、城勤めも長いのでしょうから」


 ようやく私の言葉が心に響いたのか、女官長一派は膝を折った。


「お許しください……」

「どうか、妃殿下や皇帝陛下には……」 


 ずっと年上の人間が、小娘に頭を下げている姿は、壮観だった。ゾクゾクと背中が震えた。


 そう、私が欲しかったのは、このスリル。自分をよく思っていない人間をも支配して、望みどおりに事を進めていく。政治シミュレーションゲーム、とでも言おうか。


 学校でも似たようなことはできたが、命を懸けるほどの危機感はないし、同年代の人間の心など、あっという間に掌握できる。教師たちだって、成績がよく品行方正な私のことを、疑いもしなかった。


たいていの人間は私に心酔する。それ以外の人間は、不気味に思うのか、近づいてこない。後者の方が賢い。うっかり、完膚なきまで壊したくなるほどに。


 そういう意味では、この女官たちは私のお気に入りにはならない。友として懐に迎え入れるにしても、下僕として飼いならすにしろ、頭の悪すぎる人間はいらない。


 女官長から目を外し、セアラ妃の女官たちを見下ろす。


「それじゃあ、私の服を回収してきてくださいな」

「えっ……」


 どうしてそこで驚くのかしら?


 こてん、と首を傾げた。あどけなく見えるように心がけたつもりだったが、彼女たちの顔色は、バケモノを見たかのようだ。失礼な。


「当然でしょう? 私のものですよ。きちんと妃殿下にご説明をして、納得して返してもらってきてちょうだい」


 さもなくば、と私は親指で自分の首を掻き切る素振りをした。解雇する、の意味の馘切りのアクションだったが、彼女たちはどうも、本当に首を切られて処刑されるとでも思ったのだろう。悲鳴を上げて、どたばたと出て行った。


 まったく、エレガンスのかけらもない。あれでも貴族の女なのかしら。


 彼女たちがセアラ妃になんと言ってドレスを返却してもらうのか、私は知らない。第二皇妃は第一皇妃と違って、国の行く末に興味がない、ある種、誰よりも女らしい女だ。


 しかし、私とはだいぶサイズが違うみたいなのに(セアラ妃は、ヴァーチェと同じくらいのナイスバディで、ルーナマリアの身体は凹凸の少ない幼児体型だ)、入らないドレスを集めて何が楽しいのかしらね。


 パタパタと手で顔を扇ぐ。朝から疲れてしまった。行儀が悪いと言われそうだが、私はベッドの上に寝そべった。


「そこのあなた。お茶をくださる? 喉が渇いてしまったわ」

「はっ」

「毒を入れてくださっても結構よ? あなたのご主人様にとって、私は邪魔でしょうからね」


 本当に、毒入り紅茶を飲まされても構わなかった。それはそれで、私が女官たちの性格を読み切れなかったゆえの敗北だ。私にとっては、この世界での生活はエクストラゲーム。与えられた第二の人生、生きるか死ぬか、すべてを懸けて遊ぶからこそ面白い。


 女はパタパタと走り去っていった。私の好みも聞かないでいって、いいのかしらね。


 お茶が来るまではゆっくりしようと、傍らに立つ女官長を無視して、目を閉じる。皇族の女の世話を如才なくこなし、信頼を勝ち得てきたのがプライドとなっている彼女は、ない者として扱われるのが、一番我慢ならないだろう。


 昨日、皇帝は私のことを一度しか抱かなかったとはいえ、初めてのことで疲れている。うとうとしていたら、「あっ、申し訳ございません!」という声がして、一気に覚醒した。


「無礼者! ここはそなたのような下級メイドが入れる部屋ではないぞ!」


 その高貴な身分の人に対して、あなたたちが行った仕打ちはいったいどういうわけなんでしょうかね?


 女官長が怒鳴り散らすのを聞いて、ベッドから起き上がる。下級メイドと呼ばれた闖入者は、ひたすらに頭を下げ、唾が降りかかるのもじっと耐えて説教に耳を傾けている。


 ハウスキーピング全般を担うメイドにも、ランクがある。膝丈のワンピースに、フリル装飾のひとつもない、シンプルなエプロンは、なるほど、貴人の前に姿を現すのにふさわしくない格好だ。上級メイドは、丈の長いスカートを履いていて、脚をすべて覆い隠すようになっている。


 私は彼女の膝頭を見て、「ふぅん」と思った。面白いじゃない、と立ち上がる。


 先ほどまで敵であった女官長が、媚びた目をしてメイドを私に売る。


「申し訳ございません、ルーナマリア殿下。どうも、働き始めたばかりのメイドが道に迷ってこのような場所まで来てしまったようです」


 おそらく、ミレア妃はこういうときに、粗相をした人間の手の甲を鞭打つのだろう。いかがなさいますか、と問うてくる目は、サディスティックな色を帯びている。


 心外だわ。身体を痛めつけ、傷つけることを楽しむご同類だと思われているなんて。


 女官長にくるりと背を向けて、私はメイドに向き直る。黒い髪はボブカットに切りそろえられている。頭を下げているから、顔は見えない。可愛いといいなあ、と思いながら、「顔を上げなさい」と命じた。


 どうすべきか迷っている彼女に、「ほら、早く」とせかすと、おずおずとこちらを見る瞳と視線がかち合う。


 琥珀の目だ。釣り目がちで、黒髪と相まって、猫のようだった。手足も長く、しなやかに動けそうなところが特に。


 思い通りになる犬よりも、猫の方が私は好き。一目で気に入った。


「あなた、名前は?」


 この中で最も身分の高い私に問われ、口ごもったメイドは「エミィ、です」と応えた。家名はない。平民出の彼女が、下の下とはいえ城のメイドに収まったということは、さぞかし優秀に違いない。あるいは、別の事情もあるのかもしれない。その辺の事情は、またおいおい聞かせてもらおう。


 にっこりと、悪意のない微笑みを浮かべた。女官長は私の顔を見て、驚愕に呻いている。本当に、失礼な女。


 エミィの手を取る。ゴツゴツと骨ばって大きい。やっぱり、私の手とは全然違う。


「私はルーナマリア。エミィ。私、あなたと仲良くしたいわ。傍にいてくれるかしら?」

「は……?」


 皇族に声をかけられて、その返事は不敬であったが、ツッコミを入れる人間はいない。皆が呆気にとられ、エミィと変わらぬ表情をして呆けていた。


 悠然と笑いかけ、頷くまでエミィの手は離さない。


 有能な人物のスカウトの場面だが、客観的に見て、やはりこのドレスでは格好がつかないな、と思った。


 


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