日向瑠奈の死と転生
日向瑠奈。享年十七歳。死因はトラックに轢かれての事故死。
と、おそらくは誰もが信じているはずだ。ひとり、いいや、ふたりかな? を、除いて。
事故発生当時、現場にいたいとこは、すべてを知っているけれど、たぶん何も言わない。あれはそういう子だ。そういう風にしつけてきた。あとは弟が疑って、いろいろと調べるだろう。まぁ、いとこが暴露しない限り、私は事故で死んだということになっている。
十七という年齢での死は、世間一般では早すぎるが、私にはもう、じゅうぶんだった。死ぬほど辛いいじめに遭ったとか、不治の病を気に病んで、というわけではない。
もう、やりたいことはやり尽くした。満たされ、世を倦んだがゆえに、死を選んだ。前向きに、この世からおさらばしたのである。
心残りがあるとすれば、仕掛けたままの時限爆弾の結果を見ることが叶わないこと、それくらいだ。死のうと決めてからの工作だったから、結末を見届けることはないと、わかっていてやった。
生きている間、私はずっと退屈だった。
恵まれた家庭環境、人より優れた容姿に頭脳、クラスメイトから寄せられる好意と信頼。
安定した生活を送ることはすなわち、スリルに欠けるということでもある。だから私は、小説や漫画を読んでは、「自分がこういう世界の住人だったら、こんなに退屈しなかっただろうに」と、ずっと思っていた。
例えば、剣と魔法のファンタジー世界。モンスターが跋扈して、人類は常に死と隣り合わせ。冒険者ギルドに登録をして、生きるか死ぬかの毎日を過ごすこと。
例えば、突然クラス丸ごとデスゲームに巻き込まれて、騙し合い、裏切り、最後のひとりを目指すこと。
実際にはありえない、そんな世界を想像する中で、私がひとつの結論に達したのは、小学校の五年生のときだった。
なぜか当時のクラスは、必要以上に男女が分裂していた。ある程度の対立は思春期あるあるだが、それじゃすまないほど、荒れていた。
掃除は女の仕事だからと、男子たちが真面目にやらなかったり、サボって帰ったりするなどした。女子は無論反発をして、担任教師に訴えた。「注意しておく」と彼は言ったが、状況は何も変わらない。毎日誰かが傷つき、泣いていた。
私は乱暴で幼稚な男子のことはもちろん嫌いだったが、女子たちの輪からも浮いていた。泣いている子を慰め、共感するだけ。実際に行動に移した子の陰からやいやい言う。
そんなことばかりでうんざりしていた私は、だいたい独りぼっちで、だからこそいろいろなものが見えた。
担任の教師は、女子を宥めつつも、泣かせた側の男子には、「向こうも言い過ぎたってさ」と、こっそり付け足していた。学活の時間に揉めれば揉めるほど、困った顔の向こう側に愉悦の笑みが広がっていることを、お互いにやり合うことに夢中のクラスメイトはまるで気づかなかったけれど、私は知っていた。
そして同時に、学んだ。他人を思い通りに支配すること。それが露見したときのリスク。薄氷の上を歩くみたいなものだ。バレた瞬間、冷たい死の湖に沈む。
担任の罪は、私が告発した。気づいた者の義務だった。当然、懲戒処分を受けた。彼は二度と、教師には戻れなかった。
最後に担任が私物を取りに職員室に現れた日、私は彼を追いかけた。
彼は私が告発者だと知らなかったので、嬉しそうにしていた。にっこり笑って言ってやったのだ。
「ありがとう、先生のおかげで、これから私、退屈しなくてすむわ」
と。
ようやくすべてを察して、激高して襲い掛かってきたけれど、この私が、何の対策もしないわけがなく、近くにいた教頭先生に、すぐに取り押さえられた。
この時間、教頭は花壇の整備に出ていることを知らないなんて。馬鹿な男だった。私にとっては、人生の新たな楽しみ方を教えてくれた、素晴らしい先生だったけれど。
中学高校と、学校は私の実験場になった。どんな顔をすれば皆が私のことを信じてくれるのかを学び、証拠の残らないやり方を模索して、同級生を追い詰める。バレたとしても、私は子どもだ。しかも親は、地元では割と有名な企業の社長でもある。担任と違って、私は義務教育を辞めることなく、他校に転校すればいいだけだし、示談金だって親は支払ってくれる。一度もそんなことにはならなかったけれど、心の余裕があるのとないのとでは、だいぶ違う。
まあ、それも高校一年の段階でたいていのことはやり尽くしたから、つまらなくなった。死ぬほど退屈な余生を過ごすくらいなら、いっそドラマチックに死んでしまった方がいいわ、と準備を初めて一年、ようやく私の人生は、幕を閉じた。
ラッキーなことに、激しい痛みは一瞬で、即死した私。おや、そうすると今、思考している私は、いったいどこの誰なのか?
身体は動かないし、瞼も開かない。暗闇は穏やかで、安心して身を委ねることができた。
なんとなく、もうすぐこの意識もなくなるのだろうな、と思う。死は結局、無であるから。死後の世界など、どこにもない。ましてや異世界転生なんて、くだらない。
『円香。私は、向こうの世界で待っているから。私をひとりにしないでちょうだいね』
十七歳、トラックに轢かれた少年少女たちは、異世界転生できる。
私の嘘を真に受けたいとこは、今頃何を思っているんだろう。数年後、彼女もまた、私と同じ方法で命を絶つのだと思うと、腹の底から笑いがこみあげてくる。
「あはっ」
けぽ、と空気を吐き出す音がした。口が動く、声が出る。ゆっくりと指を握る――動いている。
目を開けても、そこは暗闇だった。しばらくそのまま、首だけ動かして周囲を観察するが、変化はない。身体を起こして、立ち上がる。眩暈がした。精神しかないはずなのに、ずいぶんとリアルな身体反応だった。
暗くてよく見えないが、私が着ているのは、死んだときと同じ、学校の制服だ。県で一番偏差値が高い女子校は、一番制服が可愛い高校でもある。タータンチェックのスカートも、細いリボンが優雅なブラウスも、血で真っ赤になっているだろう。
身体は痛くない。目も見える。見るべきものなんて、暗黒の世界には何もないけど。どこを目当てに歩き始めたのか、自分でもわからない。ただ、前へ進むだけだった。方向感覚もなくなっているから、曲がってしまっているかもしれない。
どれほど経っただろう。急にまばゆい光に包まれて、私は目を閉じた。突然の発光は、視覚にダメージを与える。瞼の裏側がチカチカするのをやり過ごしていると、知らない声がした。
「目覚めたのね……才ある者」
どうも、私のことを指しているようだ。目を開けると、もはやそこは、暗闇ではなかった。何もない場所には、変わりなかったけれど、それでも光があるのとないのとでは、だいぶ違う。私は制服を見下ろした。傷ひとつ、染みひとつない。
「ねぇ、あなた。どうかお願い」
前を向くと、そこには女がいた。
目のやり場に困りそうな衣服を纏った女性だ。薄くて透けていて、着ているというよりは、豊満な肉体に、布を巻きつけているだけ。ボッティチェリの『プリマヴェーラ』。あれに出てくる、三人の女神たちの衣装を思い起こさせた。
長い金髪を靡かせ、青い瞳をこちらに向けてくる女は、この世のものとは思えない美しさを誇っている。
絶世の美女が、私に懇願する様は、気分がいい。美しく、可愛らしいものを手元で愛でるのは、どんなときでも楽しいものだ。たとえ、死後の世界であっても、最後の記憶として持っていけるのなら、醜いものよりも美しいものの方が、断然いい。
彼女は両手を祈るような形で組んだ。女神のように美しいのに、あなたは誰に祈るというの?
「私のために、国を滅ぼしてはくれませんか――……?」
祈りの矛先が自分に向かっていると気づいたときには、さすがの私も驚き、固まった。
「わたくしは、あなたのいた世界とは異なる世界の創世の女神、ヴァーチェ」
女神っぽいなあ、と思っていたら、どうやら本当にそうであるらしい。彼女は、青い目に憂いを滲ませた。じっと見つめていると、ついつい視線が、私には足りない胸に向かってしまい、男の気持ちが少々わかってしまった。あまりにもメロンだと、同性であっても凝視してしまうものだ。
創世女神のヴァーチェが作り上げたのは、私が生きた平成~令和の世の中とは違う、いわゆる剣と魔法のファンタジー世界。
そう期待したが、どうやら魔法はないらしい。残念。
「それで、私に国を滅ぼせ、とは?」
穏やかじゃない話題だ。しかも、いち女子高生にする頼み事じゃない。
「ええ……そうですわね。何から話せばいいのやら……」
滅ぼしてほしいのは、グーツァ帝国という国らしい。足元に世界地図が浮かぶ。
山脈に大河、海に囲まれた広大な土地を有するのが帝国だ。ヴァーチェが指を振ると、帝国領土を含め、いくつもの場所が赤く明滅する。
「これは?」
「帝国が占領した国や、属国にした国よ」
果たしてその広さはというと、ちょうど世界の半分、といったところか。RPGの魔王との最後の会話で、「世界の半分を貴様にやろう」というのがあったけれど、まさしくその悪魔の取引をしたかのように、赤い土地が続いている。
国が国に攻め入り、戦争になるのは、決して悪いことではない。それによって、無能な命は間引かれ、次代を見据えることのできる人間、生き残りが次代を築いていくのだ。
私のようなか弱い普通の女子高生が、何人か減らしたところで、どうにもならない。愚者が大量に死ぬことこそ、人間が進化する一番の近道。
戦争は大きく金が動く。技術も発展する。力の強い者が弱い者の土地を蹂躙することによって、未開の土地は広がり、民は啓蒙される。
そんな持論を学校で話せば、一発で指導室呼び出しを食らう。時間の無駄でしかないから、誰にも話したことはない。きっとこの女神様も、私の意見はお気に召さないであろうから、黙って話を聞いていた。
「このままでは、すべての国が帝国のものになってしまうわ。そんなの許されることではありません」
「だから私に、帝国を滅ぼしてほしい、と?」
こくこくと頷くヴァーチェは、犬のようだ。私の家にいた、金の毛並みの大きな犬。遊んでたら死んじゃったけど。
「おかしくありませんか? あなたは神様なんでしょう?」
神罰でもなんでも下して、帝国を燃やし尽くしてしまえばいいのに。
私の問いかけに、彼女は首を横に振る。
「神は世界を創ったあとは、見守るのみ」
そこは地球の神様と同じらしい。信じたところで、結局何もしてくれない。試練も奇跡も、偶然の産物。人間が勝手に意味を見出しただけ。
神はいない。神は死んだ。目の前にいるのは、ただの無責任な女である。自分が勝手に作ったものの管理もロクにできない。
どうして私が選ばれたのか。そんなことを聞くのは、野暮だろう。
「……いいわ。女神様。私が滅ぼしてあげる」
「本当に?」
顔を上げた彼女の青い目は、涙に濡れていた。私は微笑み、ヴァーチェの手を取る。
「でも、条件があるの。女神様……やり方はすべて、私に任せてくれる?」
創世の神は気が長く、最終的に滅ぼしてくれるのならば、どれだけ時間がかかろうとも、どんな手段を取ろうとも構わないと約束をしてくれた。むやみに口出しや手出しをしないという言質も取った。
笑いがこみあげてくる。この女は、馬鹿だ。私が承諾するだけして、放置するという可能性を考えていないのか。お人よしすぎる。
――私は、馬鹿の指図は受けない。
「ならば、この日向瑠奈、ヴァーチェ様の頼み事、承ります」
唇が緩むのを抑えながら、私は制服のスカートの裾をちょい、と持ち上げて膝を曲げた。
ファンタジー世界なら、こういう淑女の仕草ができて当たり前なんでしょう?