ヴァチュリエ王国の滅亡
ヴァーチェ女神を信仰する国では、国の法律よりも、女神の戒律が優先される。
男が女に襲いかかったところで、大した罪に問われることはない。この世界はそういう場所だ。責任を取って結婚、あるいは相応の金を払うことで手打ちとなる。女の側も、それを利用して儲けている人間がいるのだというのだから、そこについて私が文句を言う筋合いはない。
しかし、今回の場合は違う。加害者は兄で、被害者は実の妹。しかも、皇帝の妃である。事態を重く見た皇帝以下、帝国の重臣たちは、会議を重ねた。その間、サーランは牢屋に放り込まれていた。貴人を幽閉するための一室ではなく、庶民階級の犯罪者がぶちこまれる、汚くて臭い、冷たい監獄である。
「私はあの女に、ルーナマリアにはめられたのだ!」
薬が抜けたサーランは、そう騒いでは牢番の兵士たちに殴られているらしい。
なんといっても、ルーナマリアの婚礼は、人々の記憶にまだ新しい。たったの十五……いや、いつの間にか誕生日を迎えていたから、十六歳の少女である。美しく儚げな花嫁を、都に住む人々は婚礼パレードで目撃している。あの少女を犯そうとして、しかも責任を転嫁しようとしているのだから、怒りもひとしおであった。
御前会議によって、すでに判決は下っている。ただ、被告人は一応、独立国の王太子である。裁判を開かなかったというのは帝国側の落ち度にもなりかねないということで、サーランには申し開きの機会が与えられた。
彼は、私が悪辣な女であり、罪をでっちあげようとした。自分は被害者であると主張した。もちろん、聞き入れられない。
裁判を行う貴族たちや陛下には、すでにエミィからの証言が上がっている。私が自作自演であの場で犯されそうになったフリをしたとしても、サーランは自分の口で、自身の罪を認めていた。偽証は重い罪に問われる。ヴァーチェ女神に誓ったエミィの証言は認められた。
皇帝に嫁がせることになっていた妹姫を、この下劣な兄は犯した。兄王子だけではない。父親である国王が、率先して乱暴を働いた。
その事実に、一番憤ったのは、皇帝その人であった。年齢からいって、処女であると思っていた皇妃が、初めてではなかった。淫らな女であると一方的に断罪し、不遇な境遇に捨て置いていたことを、彼は深く悔やんだ。
ルーナマリアは、彼の娘のひとりであるペネロペと、年がほとんど変わらない。かわいそうなことをしたという罪の意識は、自分にそのようなことをさせたヴァチュリエ王家への怒りへと変わる。
サーランは、即刻処刑が言い渡された。冤罪という概念が存在しない、独裁政治の国である。日本ならば、刑務所の中で大人しく、死刑執行を待つ期間が相当長いが、サーランの処刑は、翌日すぐに執り行われた。
私はそのすべてを、部屋の中で人づてに聞いた。兄が死んだと聞いたときには、倒れて寝込むという演技もした。女官たちは右往左往するだけで、私の世話は、すべてを知っているエミィが全部してくれた。いつも通りの生活である。
「本当は、処刑を見たかったわ」
聞くところによると、サーランは斬首されたという。処刑方法としては最もポピュラーだ。
昔読んだミステリ小説で、探偵が「首をちょん切られたが、そのまま接着したところ、神経も一瞬だけ繋がった。だから死んだことに気がつかず、被害者は自分の部屋に鍵をかけたため、密室が完成してしまった」というトンデモ推理をしたものがあった。本当にそんなことが起こりうるのか、実際の首切りを見学して、検討材料にしたかった。
「今後、いくらでも機会はあるでしょう」
リンゴの皮を剥きながら、こともなげに彼は言う。
「あら、エミィ。あなた、言うようになったわね」
「そうですね。ルナ様に付き合っていると、自然と」
いい傾向だわ、と笑ってリンゴを口にする。外で食事を摂ることはできない。何しろ、私は兄に襲われかけて、過去の封印した記憶を思い出し、そしてその兄を亡くしたばかりの悲劇のヒロインだ。それが、普通の食事を適切な量食べられるわけもない。
食堂から持ってこられるのは、せいぜい果物だとか、ジュースだとか、柔らかいパンくらいのもの。お腹はグーグーと鳴るが、仕方ない。次に公に姿を見せるときに、痩せこけていた方が都合がいい。
「こちら、陛下からのお手紙ですよ」
「そこに置いておいて。あとで読むわ」
どうせ、急ぎの用事ではない。ご機嫌伺いだ。私が精神的ショックを受けて寝込んでいるため、専用の屋敷を建てる計画も、頓挫している。はやく第三皇妃として、他の皇妃たちと対等であることを示さなければ、皇帝の沽券に関わる、というわけ。
それも、今日でしばらく終わりを告げるだろう。
ソファに身体をすっかり預けてしまい、天井を仰ぐ。豪奢なシャンデリアなどというものも、この部屋にはない。白い天井が広がっているだけだ。
切り落とされたサーランの首は、晒しものにされた。これが、近親相姦を犯した男、皇妃に襲い掛かった男の末路であると、広く知らしめるための見世物だった。
生首を見て、一番参っているのはマクシミリアンだろう。あれは実際、ペネロペに手を出している。
神殿で、あの子がひとり向かったのは、懺悔室であった。本当に神に許しを乞うべきは、彼女ではない。
サーランを処刑した手前、万が一マクシミリアンが妹に無体を働いているということが明るみに出れば、国王は息子にも厳罰を持って処さなければならない。
あの端正なお顔が、恐怖に歪んでいると考えただけで、笑いがこみあげてくる。
見せしめにされた首は即日、ヴァチュリエ王国へと運ばれた。まだたどり着いていないだろう。王太子の変わり果てた姿を、両親は受け止められるだろうか。そして帝国は、ヴァチュリエに宣戦布告を行う
ルーナマリアを亡き者にした責任を帝国に取らせようと画策していたが、私の貞操権を侵害したことによって、逆に帝国の怒りを買い、滅びの道をたどることを、どう考えているのだろうか。
「あ、そうだわ。エミィ、便箋を」
宣戦布告して、その日のうちに斬り合いが発生するわけではない。使者が返事を携えて戻ってくる(あるいは、斬られた彼の首だけが戻ってくる)ことで、初めて開戦の合意が取れ、戦争になるのである。
白い便箋に、私はペンを走らせる。
宛先は皇帝陛下である。純然たる被害者である私の嘆願は、きっと聞き入れられるはず。
ひとつは、両親にはどうしても一度だけ会いたいから、その場で殺さないでほしいということ。
そしてもうひとつは。
「……よろしいので?」
エミィが無事に解放されるまで、私は彼に説明責任がある。手紙の中身を見せると、エミィは困惑した顔で、私を気遣った。
「ええ、いいのよ」
陛下へのお願い事。それは、私の身に起きたことを包み隠さず、ヴァチュリエの国民につまびらかにしてほしいということだった。
巫女として大切に育てられる一方で、精神が神の世界に寄っていたルーナマリアを傷つけた父親と兄。そして見て見ぬふりをしてきた母親と、事情を知っているに違いない国の重臣たち。その記憶を封じてしまうほど、深いショックを受けていたということを、あの国の民が知ることになれば、どうなる?
「帝国が、手を下すまでもないわ。内側から崩れていく。何しろ『私』は、国ではたいそう人気者だったようだから」
義憤に駆られた国民は、王家に向けて牙を剥く。帝国が横暴を働いて、王太子を殺したと喧伝し、義勇兵を募ろうとしているだろうが、そうはいかない。
直接手を出す必要などないのだ。致命的なブロックを抜いてやればすぐに崩れるジェンガのように、教室だって国だって、頭を使って勝つ者が強い。
「ルナ様……」
エミィの声が詰まる。きっと、余計なことを考えているのだろう。自分を犠牲にしてだとか、本当はお辛いのでしょうに、だとか。まだまだ彼は、私のことをわかっていない。
この身体が親兄弟によって汚されていたとしても、私は一ミリも傷つきやしない。被害者は、かわいそうなルーナマリア。日向瑠奈には関係ない。ならば、思い通りに事が運ぶように、上手く利用するのが利口じゃない?
……などという説明は、さすがに今のエミィには理解できないだろう。彼にはもっと、私の人となりを知ってもらうべきだ。私の可愛い共犯者。嫌悪するか心酔し続けるか、確率は五分五分ってところかしらね?
「ほら、行ってらっしゃい」
ぺこりと一礼して、エミィが部屋から出ていくのを見送った。
そしてその数週間後、使者が五体満足で戻ってきたのを確認し、皇帝は正式に、ヴァチュリエ王国へと進軍した。
これまでの間、帝国がヴァチュリエの独立性を認めていたのは、そこがヴァーチェ女神を祀る総本山であること、ただその一点のみであった。聖地があり、世界最大の神殿があり、神官になるとき、また位を上げるためには、そこで一定期間の修行が必要である。
帝国の神殿は、私の身に起きた事態を把握すると同時に、ヴァチュリエの総本山にも連絡をしていた。皇族よりも素早い動きであった。
そのため、ヴァチュリエの神殿は帝国と開戦する直前に、声明を出した。
「ヴァチュリエ国王夫妻および故王太子を破門にする」
と。
日本の女子高生をやっていたとき、世界史で習ったことがある。
中世ヨーロッパでは、人間は生まれてから死ぬまでのすべてを、カトリック教会によって管理されていた。皇帝の叙任権すら、彼らは握っていた。だから、教会を破門されるということは、人権をすべて剥奪されるということになる。それは、この世界でも同じだ。
ヴァチュリエ家を王たらしめていたのは、ヴァーチェ女神を掲げた神殿であった。破門された彼らは、もはや人間ですらない。
エミィはどこからか、遠く離れたヴァチュリエの様子を仕入れてきて、教えてくれた。
ルーナマリアが幼少期を過ごした城は、市民によって城壁が壊され、堆肥を投げつけられてひどいもの。王を守るはずの、形ばかりの騎士団は機能せず、逆に彼らおよび重臣たちを捕縛して、帝国軍に引き渡したそうだ。戦争にすらならなかった。
帝国の軍隊は、ヴァチュリエの内乱を治めた。立派な内政干渉だが、国民は誰も咎めなかった。腐敗を知らず、日々を真面目に生きていたごく少数の貴族たちもまた、同様に。
皇帝陛下が帰還したという知らせを受け、私は久しぶりに、部屋の外へと出ることにした。まともな食事を摂っていないから、ドレスはぶかぶかになっているし、頬はこけて目が落ちくぼみそうになっている。愛らしい美少女の変わり果てた姿に、久しぶりに顔を合わせた面々は、絶句した。あのマリアナさえも。
「お、お帰り、なさいませ、陛下」
言葉も、しばらく喋っていなかったのを装ってわざとつっかえる。淑女の礼を執ろうとした私に、皇帝は慌てて駆け寄り、支えた。そのまま私を抱きしめると、「辛かったな……」と、労ってくれる。
熱烈なハグを受けている間、私はずっと、おじいちゃんみたいな臭いがするなあ、と失礼なことを考えていた。実際、祖父と孫の年齢差である。
「もう大丈夫ですから」
と、弱々しく離してほしいと意思表示をする。陛下は私を、椅子に座らせてくれた。
「陛下。我が両親は」
「ああ、お前の願い通り、殺しはしていない」
言葉に含みがある。命はあるが、痛めつけてはいけないとは言っていない。捕えて城から出すときも、市民によって泥やらなんやらを投げつけられたのだろうことは、容易に想像ができて、思わず笑いそうになるのを、頬の裏側を噛んでやり過ごす。
「ご厚情に、感謝いたしますわ」
頭を下げ、両親の処刑前に会いたいと私は懇願した。皇帝は困惑している。
「無理はするな。お前の父親は」
傷口にナイフを突き立てるような真似を、皇帝陛下はしない。まったく、お優しいことだ。ヴァチュリエの王なんかよりもよほど。女神様、滅ぼすべき国を間違えているんじゃない?
「いいえ、平気です。私とて、自分の口で言いたいことがあるのです、陛下」
援護してくれたのは、意外にも第一皇妃・ミレアだった。
「陛下。ルーナマリアの矜持にも関わりますわ」
「ううむ……」
長年連れ添った妃の進言を、皇帝は無視できない。
彼は条件として、まず私の体調回復を命令した。医師が許可を出さない限りは、両親に会わせない、と。それまで国王夫妻の処刑はしないことを約束した。他の重臣たちは、取り調べの後、相応の罰を与えるという。ルーナマリアが知覚した被害は父親と兄だけだったが、もしかしたら他にも、直接の加害者がいるかもしれない。
「かしこまりました」
と、いうことは質素な食生活とも今日でおさらば、というわけだ。自分から食事を摂らなかっただけなのに、私は内心で、肉を食べられることに狂喜乱舞していた。
体重は一気に落ちるが、なかなか元には戻らないということを初めて知った。デブのクラスメイトは逆だったみたいだけど。
ダイエットサプリについてほのめかしたら、ネットで見つけた怪しいのを安くて効きそうという理由で購入して、入院騒ぎになっていたっけ。私が言ったのは、ドラッグストアで買える国産のものだったのにね。なんて、くだらないことを思い出した。
もとの体型に戻り、顔もふっくらとしてきたのは終戦から二か月後のことだった。この間、厳しい尋問が行われた。結果として、ルーナマリアが被害に遭っていたことを知る者は多かったが、自ら手を出した者はいなかったという。
巫女姫様に狼藉を働けば、女神の不興を買い、罰が当たる。
事実、兄と国王にはその通り、天罰が下ったわけだ。
医師のチェックを受けて、許可が下りた。陛下は私を心配して、ついてこようとしたけれど、断った。まだ、彼らとルーナマリアは親子である。最後に親子水入らず、というのもおかしな話だが、どうにか三人だけにしてほしいという願いは、果たして叶えられた。
いや、正確には三人だけではない。私の影のように付き従うエミィは、両親が軟禁されている部屋への入場が許される。これもまた、メイドが同じ人間扱いされていないという、貴族の傲慢なわけだが、今は感謝だ。
彼には、これから私が話すことを聞いてもらいたい。
サーランは地下牢に放り込まれていたが、ヴァチュリエ国王夫妻は、一応貴族の犯罪人を閉じ込めておく部屋を用意されていた。豪奢な飾りつけはないが、最低限の家具はそろっている。
ただし、窓には鉄格子つきで、扉は厳重に施錠されたうえ、見張りの兵士が常に立っている。部屋の中で暴れるのを防ぐため、足首には鎖が取り付けられているらしい。
軽く会釈をすると、見張りは敬礼をした。そして鍵を開けてくれる。自分も入室しようとするのを、エミィが止めた。
「ルーナマリア様の、ご命令です。何かあったときには、私が責任を負いますから」
と、美少女メイドにしか見えない彼の上目遣いによる懇願にやられた男は、渋々私たちだけを通した。
扉を後ろ手に閉める。エミィが私の半歩前に立ちはだかり、守ろうとする。
「大丈夫よ、エミィ。この人たちはもう、私には何もできない」
伸縮性のない鎖でつながれた状態では、一定の距離を保つ私に近づくことすらできない。
牢屋に入っていないだけで、汚物にまみれたまま収監された彼らからは、悪臭がする。手で口と鼻を覆い、私はふたりを見下ろした。
ルーナマリアの産みの親。戦き、怒りに震え、死を待つだけの人たち。
別に私は、こんな人たちはどうだっていいのだけれど。それでは気の済まない子が、ひとりだけいるものだから。
「る、ルーナマリア! お前、どうか皇帝陛下に勘違いだと言ってくれないか? 私がどうして、お前なんかを……」
「お前なんか?」
言葉は正しく使うべきである。私を貶める言葉は許さない。見下すと、揉み手をして媚びてくる。母親の方は泣きながら、「私は、私は何もしていないのよ……? どうして……」と、呆然としているようだったので、現実を突きつけてやる。
「元王妃殿下、何もしていないのが、善であると? ルーナマリアは言葉にはしなかったけれど、兄と父に犯された後のかわいそうな姿で、あなたの前に立ったでしょう? それをあなたは、無視しましたね?」
女神が下りたときに、初めて言葉を発するルーナマリアだが、感情を表すことができないわけがない。血が出て、ボロボロになって、体液で濡れた身体を見たら、普通の母親は悲鳴を上げ、娘に一体なにが起きたのか、怒りとともに調べ始める。そして汚した犯人を突き止めて、激しく糾弾する。場合によっては、直接手を下す場合も。
そのすべてを、この母親はしなかった。夫と息子、両方と戦うことを放棄した。
この子は、助けを求めていたのに。
「ルナ様?」
エミィが心配そうな、どこか驚いた顔でこちらを見つめている。頬に触れると、濡れていた。右目からだけ、静かに涙が落ちていく。
私も焼きが回ったものね。弱い人間は、強い人間に利用されるだけの駒だと思っていたのに、私が宿ったこの身体の主の残滓を、すくってやった。この涙は、私のものじゃない。ルーナマリアが、泣いているのだ。
「……もうね、どうだっていいのですよ。私はルーナマリアであっても、ルーナマリアじゃない。あなた方が傷つけ、絶望させたルーナマリアは、もうこの世にいないの。私は瑠奈。日向瑠奈。女神によって国を滅ぼすために遣わされた、異世界の女よ」
私はにっこりと微笑んだ。物語の中の、聖女のように。
「だからね、あなた方に恩赦を与える義理も意味も、何にもないの。ああ、でも何の関係もないからこそ、あなた方を助命することによって私にメリットがあるのなら、陛下に掛け合ってあげてもいいわ。ねぇ、何かある?」
ヴァチュリエ国王は、口をはくはくと動かすだけで、声が出せない。王妃はただ、顔を覆って泣いている。ごめんなさい、ごめんなさい、と。その謝罪を聞く相手も、もういないっていうのに。
ここで交換条件として金だとか土地だとかを言い出さないあたり、彼らは多少、考える脳みそが残っている。
あはは、と私は高笑いした。
「そうよね。あなた方にはもはや、何もないわ。金もないし、支えてくれる民もいない。帰る国がもう、ないのだから」
おかしくて笑いが止まらない。けれど、右目からはひっきりなしに涙がこぼれ落ちる。ああ、煩わしい。結局、甘ちゃんじゃないか、ルーナマリア? これはお前が望んだ結末だろう?
自身の右頬を張った。痛みで涙が引っ込む。
「面白かったわ。娘を玩具にするあんたたちを、逆に玩具にするのはね! それじゃあね、お父様、お母様。そういえばこの国って、死んだ後はどうなることになっているのかしら? 私がいた世界だとね、こういうのよ」
私は親指を立て、そのまま下へ向けた。
「地獄に落ちろ」




