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「てな感じで特に兄貴が期待していたような事は何もなかったよ」
家族でテーブルを囲み夕飯を食べながら俺は兄貴に今日の出来事を語る。
兄貴は隣で「そうか?十分だろ」と言う。それから「美味いな、これ」と餃子に手を伸ばしていた。
俺は一度麦茶を挟んでから兄貴と同じように餃子を摘んだ。それからタレをつけて口に放り込む。
「初対面なんでしょ?僕もいい感じだと思うよ」
親父が突然話に入ってくる。帰ってきた時に着ていたシャツを脱いでネクタイを外し今はタンクトップ一枚の格好をしている。チビチビ酒を飲みながらどうやら俺たちの話を聞いていたらしい。
「大袈裟」
と言いながら麦茶に手を伸ばす。
ただ話しただけだ。
「そんな事ないよ。初対面の異性なんて誰だって話しずらいのに、そこまで話せたら十分さ」
「そういうもんかな」
俺は空になったご飯茶碗を持って立ち上がる。見計らったように隣から空のご飯茶碗が伸びてきた。
「頼む」
隣を見ると兄貴が片手を上げていた。
はいはい、と受け取って炊飯器の方へと歩く。途中、サプリを飲むとかで台所に向かっていた母と入れ違う。
「あら、結構食べたねー美味しかった?」
「「美味かった!」」
背後から兄貴と親父が口を揃えて言ったのが聞こえた。あの二人は似ている。同じ海好きだし、休日も二人でよく海に釣りへ行っている。
「青は気を付けなさいよ。女の人だって危ない人もいるんだし、お兄貴ちゃんに言われたからって迂闊に話しかけたりしちゃダメよ」
茶碗にご飯を盛って戻ると心配性の母が言ってくる。
俺は「はいはい」と流す。
「俺は言ってないって、きっかけになりそうな物は渡したけど結局青から話しかけてるから」
「あら、そんなに可愛いお姉さんだったの?」
俺は伸ばした箸を止め顔を顰めた。なんだか俺が栄香さんの可愛いさに惹かれて寄っていったような話になっている。
「違うから」
首を横に振る。
それから更に餃子を取って口に入れた。ご飯を口にかけ込み麦茶で流す。
「こいつが一番餃子食ってるよ」
「ほんと青は顔に出ないねぇ」
そう言いながらも何故だか俺を見る母の顔は満足げだった。
「それに青は本当に危ない事は関わらないからね。その人もどこか大丈夫だろうって思う所があったんじゃないかな」
「まぁこいつの場合、巻き込まれさえしなければ大丈夫だろうな」
兄貴が鼻で笑っている。何を言いたいかは俺が一番よく知っていた。事件の当事者なのだから。
あの件は両親にも迷惑をかけた。
「それは気を付けるよ」
本当に。俺はもう一個餃子に手を伸ばした。
「あちー」
翌日は流石に真面目に行こうと自転車を漕ぎながら山の中腹にある高校へと続く長い坂道を登っていく。荒い呼吸を繰り返すうちに蒸れた土の匂いがした。家から出るとホットサンドメーカーの中だったのに、この山道は蒸し器に変わる。もう少し気温が上がれば、それこそ八月ごろに来てみれば湯気でも道路から立ち上ってくるんじゃないか。
校門の前の桜並木に蝉が止まりうるさいだけの場所を抜けてようやく高校の敷地に辿り着く。と、同時に俺の横を自転車に乗った知らない男子学生が通り過ぎた。忘れ物でもしたのだろうか。
横を通り過ぎた人の白い制服は背中に空気を取り込んで膨らんでいる。ズボンから飛び出したままの揺れる制服の端を見ていると、ふと懐かしい気持ちになった。
「ひゃっほー!」
「きもちー」
去年、友人の星見と共に俺は昼休みに学校を抜け出した。ブレーキをかけずに桜の散った後の坂を降りて外のコンビニまで行った。もちろん、後で先生から大目玉を食らったけれど…
俺はガラリと教室の扉を開く。冷房の効いた教室から流れた空気が熱った俺の体を包み込んだ。
ーーあの瞬間、風切り音に負けない位の大声で笑っていたはずだ。
数人がこちらを一瞬見て何事もなかったかのように視線を元の位置に戻した。
俺はさっさと自分の席へと向かいスマホを取り出し眺める。ネット上でまたどこかの高校生が馬鹿な場所で動画を撮って炎上している。
「非常識だ」「人様に迷惑をかけるな」「ちゃんと教育できないなら産むな」「もしこの子の親だったら恥ずかしい」
ネットの人々は燃えている人間に対して容赦ない言葉を浴びせている。
ーーだけど俺は彼らを馬鹿にできない。
一二限目を適当に過ごして、三限目は水泳だった。
言われた通り授業をこなし、プールサイドで水泳のテストが終わるのを一人ボーッと眺めていた。
テストが終わり自由時間になっても同じように日向ぼっこを続けていると、クラスメイトたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。プールの中で追いかけっこをしたり水をかけあったり。
ドボンと音がした。誰かがスタート台から飛び込んだみたいだ。だけど先生も誰も止めない。綺麗なフォームでスタートが出来るやつだけしかスタート台に登らないからだ。やり方を知らない人はそもそも近づきもしない。自分が失敗する所を誰もわざわざ晒さない。
「星見の事、まだ引きずってんの?」
体育科の教員の声が頭上からした。俺はこの先生にも怒られたことがある。
俺とあいつで飛び込みをした時だ。だけど、さっきのようなただの飛び込みでは無い。俺がスタート台で手を添えて、あいつが俺の手を踏む。と、同時に俺は手を上げてあいつを前に飛ばす。特大の飛び込みで、それはそれは高い水飛沫が上がったものだ。
ドゴン、と爆発音のような音が鳴ったものの、一度目は先生が見ていなかったのか「おい!」と注意だけだった。けれど、次に俺が飛んだ時は本気で怒られた。俺たちは焼けたプールサイドで正座をさせられお説教をされた。今でも思い出せる。一人では絶対無理な滞空時間の後、全身に衝撃が響く。プールの底に沈みながら俺は煌めく水面の裏側、登っていく白い泡を口を軽く開けたまま呆然と眺めた。
あの宙に打ち上げられた瞬間、俺は最高に笑っていた気がする。
「いえ。あいつがいなきゃ元々こういう感じなんで」
俺は頭を上げて頭上で腕を組んでいる先生の方を見た。
「じゃあ前に進まなくちゃ。星見もどこかで進んでる」
だろうな。あいつはあいつでやれるやつだ。
だけど、俺は違う。地球上のほとんどが嫌いな俺を笑わせてくれるものはいつだって星見や兄貴や家族がくれたものだ。自分で選んだものが輝いて見えた事など一度たりとも無い。
「はーい」
適当に俺は返事をしてからプールに浸かり背を下にして水面に浮ぶ。揺れる水面と眩しい太陽を感じながら俺はこの授業が早く終わる事を願った。
四限目は担任先生の科目で近々行われるテストのため、自習に当てるそうだ。
クラスメイトたちは歓声を上げていた。俺はため息をつきながら外を眺める。
正直、大学もこんな調子なら受かったって続けられる気がしない。
この高校を選んだのは俺だったけれど、今のところ、あいつがいた以上の喜びは無かった。それにあいつが居たのはただの偶然。大学でも同じような幸運がきっとある、なんて楽観的な思考は出来ない。
ーー今何してんだろ、あいつ。
澄んだ青空の中に雲が浮かんでいる。
「どこでもやっていけるから」と言葉を残して学校を去ったあいつもこの空の下のどこかにいるのだろう。
「あっそうだ。体育祭の係決めとかないと」
担任の先生が突然、前の方で声を上げた。
「体育祭は二学期ですが夏休みの間に応援団の練習があるので応援団の係を決めておきます。誰か立候補する人はいますか?」
先程まで聞こえていた小声が聞こえなくなる。シンッと静まり返った教室に嫌気がする。あいつがいれば一瞬で決まったのだろうけれど、退学した今はもう無理な話だ。
「応援団は二、三年生と合同なので新しい人脈が作れると思います。それに内申書にも書けますから、ただ夏休みを浪費させられるような損な話ではないと思いますが」
担任の話も聞こえているのかすら怪しいほど反応がない。誰も自ら動く様子は無く、俺は二年に上がったばっかりの頃にあったクラスの係決めと同様、くじ引きまでみんな粘るだろうな、と予想する。
「じゃあ、します!」
俺はその声の方向を見た。クラスの中では活発的な方の彼だ。だが以前まではみんなと同じように静かに流していた筈だ。何か心変わりがあったのだろうか。
それから「じゃあ」と女子の方からも一人でて意外とあっさり応援団は決まる。
「へぇ」
と、俺は静かに呟く。みんな受験を意識し出したのだろうか。意識していない俺にはわからない事なのかもしれない。ただこのまま謎が謎のままだと少しムズムズする。
ーー仕方ない。聞くか。
授業が終わり、食堂へと俺は向かった。
「飯一緒に良い?」
先ほど応援団に立候補した彼が属するグループの集まる机に向かう。俺は座って昼食を取っている彼らに話しかけた。
「おう!もちろん。久々だな、青がいるの」
「な」
「どうした?珍しいじゃん」
「何もねぇよ。気分気分」
と、話していると目的の彼がカレーうどんを持ってきて席に着いた。
「あぁ、そういえばありがとう体育祭の係。くじ引きになるとだるかった」
結構白々しかっただろうか。俺は彼の様子を伺う。
彼は目を丸くしながら「うぇ?」と言った。
「確かに、何かあったのかよ」
彼は食事の手を止めて苦笑いを浮かべ「マジか。気がつく?」と口にした。
「え!なになに?」
「誰にも言うなよ。実は、体育祭の係に二人で出ようって誘った」
俺たちの中で口笛が鳴って「え!マジかよ」と興奮した声が上がる。
なるほど、あの女子は初めから誘われていたのか。それは早く決まるわけだ。
「付き合ったらお祝いにケーキでも買うか」
と、グループの一人が提案する。
俺は「良いじゃん。クラッカーでも買ってくるよ」と小さく頷きながら言った。
それならばなるべく盛大に祝った方が楽しいだろう。花火くらいなら俺が怒られても良いからやろうかな、と考えていたら隣から肩を揺すられた。隣を見る。
「いやいや、落ち着け。青はマジでやるじゃん」
彼はヘラヘラと笑いながら、でもあながち冗談でもなさそうな調子で諭すように言った。
「あれ?」
「学校でクラッカーはヤバいって」
机のどこからか呆れたような声の調子が聞こえてきた。
俺はまぁ確かに、と頷く。
どうやら冗談だったらしい。
「食堂のケーキ奢りか?」
「そうね。あざす。体育祭の係、頑張るわ」
俺は「うん。頑張れ」と言いながらグッと拳を見せて彼の恋路を応援する。冗談だって、マジになるなよ。馬鹿馬鹿しい。
そんな湧き出てくる違和感を俺はなんとか表面上で笑顔を作り咀嚼して腹の奥に押し込む。そうしている内にクラスメイト達は話題を変えた。
「そういえば花火大会行く?クラスで行くみたいな話が出てるけど」
その話も俺は知らない。あいつがいなくなってから少しずつクラスメイトから離れようとしている自分がいる。
「十六日だっけ?」
「あれか。人混みすごいし暑いし、後遠くね?」
「確かにめんどいか」
綺麗な花火が見たければショート動画やリール、写真で見ればいい。面倒な事をせずとも充分行った気になれる。
あと花火が綺麗なのはアニメや映画のスクリーン上。それこそ御伽噺だ。
だけど、みんなが行くなら俺も合わせて「行く」と言っていたかもしれない。そういうやつだ。
「お前は行ってこいよ。いるでしょあの子」
「「うぃー」」
俺も合わせて「アッツ!」と茶化す。多分、タイミングとしてもあっているはずだ。
「うわ、ダッル!」
彼は少し嬉しそうに天井に顔を向けた。
それから彼らのグループは最近の部活の話だったり、スポーツの話だったりゲームの話だったりをし出した。あれは良かった、あれはダメだ、とフワフワ話題は移り変わっていく。
俺は「あぁあれね」「あれは痺れたね」「そうか?」と、なんとなく分かっているようなフリで乗り切る。話したいやつが話をして、興味があるやつだけ聞いている、ように見える。
俺はその中にいる嘘つきだ。何もわかちゃいないし、何にも興味がない。
そのくせ俺はちゃんと話を合わせられているのか、とビクついている。どうせそんな自分を後で自己嫌悪のするのに。
ーーあぁ俺、ダメだな。なんで、みんなと普通に楽しめないんだよ。
グルグルと腹の奥に洗濯機の中で回る黒い雑巾みたいな感情を押し込む。上からその感情に蓋をする。顔の方に出てくるなと奥へ奥へと強く押し込みながら願う。
「じゃあちょっと先、教室帰るわ」
俺は弁当を片付け笑顔を作って立ち上がる。
そうしないと体の中で暴れる感情のヘドロが口から出ていきそうだ。
「おう!じゃあな」
彼らから手を振られながら俺は食堂を後にする。
食堂の出入り口が見えなくなってから走り出した。教室まで走ってバックを引っ掴み、弁当箱と午後のために机の中に入れた教科書を詰めて、更に走った。背中にまた変人を見る視線が刺さる。
それでも足を止めずバックを肩にかけて、靴を履いて玄関口を飛び出し、自転車に乗る。正面も裏門も昼休みは閉じているから作業員用の出口まで自転車を漕いだ。
「ああああああああああああああああ!!!!!」
学校を飛び出し坂道を降りながら木陰の静寂を切り裂いて叫ぶ。
揺れる白百合、弛む夏草に見送られながら俺は山道を駆け降りた。湿った空気を猛スピードで切り裂いていく。ガタンガタンと自転車が何度も激しく揺れた。
坂道を下りきり街の方へと続く道路にスピードの乗ったまま飛び出す。
「クソつまんねぇええええええええ!!」
自転車を漕ぎながら青空に吠える。
このまま喉が裂けても良い。
喉が裂けて緊急搬送されてしまえば学校を休めるだろうから…
「…はぁ、何やってんだ俺」
結局、喉が裂けるなんてことはもちろんなかった。けれど力一杯叫んだからか、心はだいぶ落ち着いている。
ただ、まぁここからわざわざまた学校に行く気にはなれなかった。
「神社行こ」