夜越青の証言 1
また目が覚めて寝返りを打った。大きな窓にかかったカーテンの隙間からうっすらと光が漏れ出している。
ーー朝、なのだろう。
床に敷いた布団から体を起こす。どのくらい寝ていたのだろうか。起こした体は怠く、眠った気がしない。最後に見たスマホの時間は五時頃。今は…八時半か。
幸い大学生活四年目はここまでの三年間のおかげで授業にほとんど出なくて済む。本当は何個か行きたい授業があったのだけれど、もう行く気にはなれなかった。
立ち上がると眩暈がして、咄嗟に近くにあったテーブルに手をついた。
しばらく頭を抑えて眩暈が治るのを待つ。昨日から何も食べていないせいだ。
テーブルを伝ってキッチンに入り水を飲む。シンクにはあの日から洗っていない皿が並んでいる。
「何、食べようか」
久々の食事だし、抜いた分の食費だけ良いものを食べるか。体調も悪いようだし元気をつけるべきだろう。
「なんでも食べていい」
シンクに手をついて広い部屋を眺めた。
何も食べたい物が浮かばない。
だけど、せめて何か食べなければ、動けなくなる。
午後には兄貴が顔を見にやってくる。昨日そんな連絡があった。だから部屋の片付けのためにも何か食べなくては。何か…
「カレー…パン」
駅前から続く小さな横丁のパン屋のカレーパンならばどんな時でも食べられるはずだ。ナッちゃんとよく行った馴染みのお店。
ーーいいじゃん。
財布と鍵だけポケットに突っ込んで家を出た。マンション七階の通路から見える青い空にマンションの前を通る道路。そしてすぐ下は駐車場。優しい太陽が肌寒い春の空気を和らげる。
そんな世界は吸い寄せられそうになる魔力があった。
ここから飛んでみたら、とそれ以上考えないように思考を止めた。俺はただパン屋へと歩く屍だ。
「あら、あらっ?」
今年で五十歳らしいパン屋のおばさんがレジの方から目を丸くして出てきた。
俺は「どうも」と軽くお辞儀して扉を潜り店内へと進む。カレーパンは二段で並んだ品々のパンの中にあった。まだ出来ていない物もあるので良かった。
「クマ酷いよーどうしたのー?ナッちゃんは?」
「…夏は亡くなりました」
しばらくおばさんは口を軽く開けたまま言葉を失っていた。
「え、え?…若いのにぃ…どうして?事故?」
俺は小さく首を横に振って「いえ、まぁ」と濁す。殺されたとは流石に言えない。
「青くんは大丈夫?寝れてないみたいだけど」
「なんとか。カレーパン一つ下さい」
あーはいはい、とレジの方へと去っていった。
俺はカレーパンをトングで挟みながら、本当になんとかなっているのだろうか、と自問する。
答えは…分からない。
結局、せっかく久々に来たのに申し訳ないけれどカレーパンだけ買って家に帰った。
レンジで温めてテーブルに置いたものの一切食べる気が起きない。しばらく椅子に座って頬杖をついたままゆっくりと冷めていくカレーパンを眺めていた。
やがて次第に食べなくてはという焦りがやってくる。
「いただきます」
なるべく大きく口を開けて一口で一気に齧り付いた。
揚げパンの硬い衣とグニッとしたパン生地の食感、染み出してくる植物性の油の味、中のカレーに含まれる香辛料の刺激。
噛めば噛むほどパンの食感が不快に思えてくる。ゴムを噛んでいるみたいだ。
それでもなんとか咀嚼して飲み込む。
二口目に行こうとして手が震えだした。開けた口の狙いが定まらない。
仕方なくカレーパンを皿に戻す。
「もうダメだろ。俺」
置いた拍子に声が震えて涙が落ちていった。
何もなんとかなっていない。体の何かが壊れている。どこか自覚していたそれをまざまざと目の当たりにして震えた。そんな事、知りたくもなかったし見たくもなかった。
それからテーブルに伏してしばらく涙を流し、近くにあった布団に倒れ込んだ。
次に起きたのは玄関のチャイムの音だった。
「悪い、さっきまで寝てて」
兄貴が何やら袋を持ってやってきた。
昔から変わらず海へと通っているので春なのに肌が焼けている。
「そんな事気にすんなよ」
やけにその言い方が兄貴にしては優しくて申し訳なくなった。気を使わせてしまったらしい。兄貴も仕事で忙しいはずなのに。
「おま…」
リビングで敷いた布団を片付けようとしゃがんだ時、兄貴が何かを言いかけた。
振り向いて見ると頬の端が引き攣っている。
「やっやめとけよ。死んだ人の上で寝るのは、潰れちゃうだろう夏さん」
俺は「そうかな」と返しながら布団をリビングの端に寄せる。隣とかの方が良いのだろうか。それだと寝れるのか心配だ。
「あー飯は食ってるか?って食べかけか」
「あぁうん。なんか食べられなくて。美味しいはずなんだけど」
「カレーパンは体調治ってからにしとけよ。刺激物は体に悪いって言うし」
俺は「そうする」と答えながら畳んだ布団の上に枕を置いてから振り返った。
兄貴は冷蔵庫を開いて袋から何やらタッパを詰めている。
「それは?」
「嫁の作った肉じゃが。お裾分け。嫁も心配してたぞー。部屋を掃除するとか息巻いてたけど止めといた。あいつすぐ感傷的になるから」
「まぁまだ部屋の掃除はされたくないな」
眺めた部屋は倒れていた椅子こそ治したもののあの日からほとんど何も変わっていない。
まだ部屋にはあの楽しかった日常の面影が微かに残っているのだ。
そんな一掬いの残滓すら今の俺が生きるのには必要で縋ってしまう。
「まっこんなもんか」
そう言って兄貴は立ち上がり皿を洗い始めた。
キッチンに置いた袋にはまだ何か残っている。
「悪いよ。客人なんだからゆっくりしといて」
「良いから。お前こそ寝てて良いぞ。寝れてないだろ、クマやばいぞ」
「いや良いよ本当に」
止めようと近づいた時、ふと置いていた袋の中身が見えた。
お酒とツマミだった。
「あー持ってきたけど酒はまだダメだったな。良くなってから」
そう言って隠すように床に下ろす。
「いや良いよ、飲もうよ。大丈夫だから」
何故か急激に飲みたくなった。
いつもはナッちゃんに合わせて飲むくらいしかなかったのに。
兄貴は俺の方を見て顔を顰める。
「ダメだって悪酔いするぞ」
「良いんだよ。一人で飲むわけじゃないから」
そう言って二人でチビチビ飲んでいたお酒を棚から取り出す。残っていた全てをガラスのコップに注いで一気に飲んだ。体の先々で鉛のような物が通っている感覚がする。喉が焼けるようだ。
「あーキッツ」
自分で勝手に飲んで酒の強さにやられてぼやく。
それから床に置かれた袋からツマミを取り出し、冷蔵庫の中にあった肉じゃがを取り出す。
「今食って良いでしょ?」
「別にそれは良いけど。大丈夫か本当に」
ブーンと回るレンジの音を聞きながら「ダメかも」と言った。
「そっか。まぁそうだろうな。見るからにダメそうだ」
兄貴は突然「仕方ない!」と大きな声を上げた。
「帰りは嫁に向かいにきてもらう」
「悪いね。付き合わせて」
「気にすんなよ」
それから俺たちはリビングのテーブルで兄貴が持ってきてくれた物を広げて飲んだ。
そこで俺は何を話したかあまり覚えていない。酔いが回ったせいで涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら、ただ言葉を出し続けた。多分、ナッちゃんの話だろう。というかそれ以外で俺が語れるような事はない。
「あーだいぶ酔ってる」
そう言いながらキッチンで顔を洗う。
あの日からこんなに話したのは久々だ。
「そういえばさぁ。犯人、殺人で起訴されたって。SNSで「あのアバズレを必ず殺す」って言って消した投稿まで調べあげたらしいよ」
兄貴はすっかり酔っていて赤い顔で椅子の背もたれに腕を押せてこちらを見ている。
「そうなんだ。なんか腕時計の事をずっと聞いていたけど何だったんだろ」
若い刑事が「これは貴方が送った物ですか?」「誰の物か分かりますか?」と兄貴の車で項垂れていた俺に仕切りに聞いていた。
「へー分からないな。なんだったの?」
「俺も知らないんだよな。昔から着けてたのは知ってたんだけど」
「まぁそれが何かしらに繋がったのかも」
なぁーと兄貴は頭を椅子の背もたれに沿って反らし天井を仰いだ。
「多分、犯人。昔の客だったんでしょ。五年…以上前かぁ。新しい腕時計俺が買っておけば何か変わったのかな」
シンクに大きなため息が落ちていった。
考えたって無駄な事だ。コップに水を注いで飲む。
「五年…前」
もう一杯と水を出した時、兄貴が呟いた。
五年前は栄香先輩とまだ出会っていない。高校生だった俺は日々の登山部だけを楽しみに学校へなんとか通っていた頃だ。どうやってあの頃、生きていたのか不思議だ。
今はもう何もない。空っぽだ。
顔を上げて広い部屋を見渡す。テーブルに広がったお酒の缶や散らばった袋、ゴミ箱から外したティッシュ、すっかりお酒の匂いで部屋に残るあの日々の残滓が無くなっていた。
「良い日だな」
そんな呟きは蛇口から出しっぱなしの水音にかき消された。
「おい。青、五年前の自分に手紙かけよ」
兄貴は椅子へ斜めに座ってテーブルに手を載せ俺の方を見ていた。
「は?」
「そしたら行くぞ。時渡神社」




