幽霊
掛け布団にくるまりながらYouTubeを見ていた。
スマホの左上を見ると、二十二時五十二分。昼間、看護師に言われた「消灯時間の二十一時を過ぎたら、スマホの電源を切って就寝してください」という言葉がよぎる。
そんなこと言われたって無理に決まっている。本来ならまだ会社でノートパソコンと格闘している時間なのだ。
今日の未明、いつものように終電に乗り、くたくたになりながら家に辿り着いた。それから夕食を胃に流し込んでシャワーを浴び、二時半ごろにようやく眠りにつく。
これが半年以上続く俺の夜のルーティンだ。
しかし同じく守ってきた朝のルーティンは今日、壊れた。
洗面器に広がる赤色。それは死んだ目をして歯磨きをしていた自分の口から、急に飛び出してきたのだ。
医者が言うには胃潰瘍で即入院らしい。俺は鼻で笑った。そりゃそうなるわ。
0時三八分。好きなYouTuberの動画を見終わり、俺は迷っていた。
トイレに行くか否か――。
この病院は「出る」と有名だった。廊下を徘徊する黒い影を見ただとか、霊安室からすすり泣く声が聞こえるだの。
よくある噂話にしか過ぎない、そんな考えは夜の病院の不気味さを前に、あとかたもなく消え去った。
俺はようやく決心しイヤホンを耳から外して、病室を出る。初秋の夜のひんやりとした空気を肌に感じながら、薄暗い廊下を歩く。
男子トイレは病室を出て、左に曲がって突き当りを右を曲がればある。
突き当りに差し掛かり右を向いたとき、かすかに水を流す音がきこえた。
先客がいるのだろうか。
男子トイレのドアの前に立つ。
――おかしい。ドアはあれから開いていない。かといって物音もしないので、手を洗っているわけでもないだろう。
寒気がした。
だが、俺の膀胱はすで限界だった。
きっととんでも無い腹痛で個室に籠もっているのだろう。なによりここは病院だ。全然あり得る話である。そうだ、そうに違いない。
自分にそう言い聞かせ、おそるおそるドアを開けると、俺は思わず後ろにすっ飛んだ。思いっきり腰を床にうち、鈍い痛みがじんわりと脳に届く。
扉の前に少年が立っていた。
「えっ……なっ……」
足はある。服は俺と同じく清潔な病衣で、血糊がついてるわけでもない。
だがこの世のものとは思えない、病的なまでの肌の白さが、落ち着きを取り戻そうとする俺のジャマをした。
こちらが言葉に詰まっていると、少年も同じく驚いた様子でこちらを見てくる。
よく見れば、昼にチラっとみた病室で隣の少年だった。
俺は一息ついたあと、強打した腰を気にしながら立ち上がった。そして当然の疑問をぶつけた。
「なにしてるの?」
少年はこちらを見上げながらしばらく固まっていたが、ようやく口を開いた。
「……トイレ」
「いやそうじゃなくて。なんでドアの前に立ってたの?」
すると少年は泣きそうな顔をしながら、か細い声で言った。
「……帰れなくなって……そしたら急にドアが開いて……おばけかもって思って……足音が聞こえなくなるまで待ってようとおもってたのに……」
「あーごめんごめん。驚かせたお兄ちゃんが悪かった」
しどろもどろになりながら、どんどん目の端に貯まる涙を見ていると、いたたまれない気持ちになった。思わず話を止めさせる。
用を足して病室に戻ろうと思ったら、廊下から聞こえた俺の足音を幽霊のものだと勘違いして、ドアの前から動けなくなった、ということだろう。
「……戻ろっか」
俺は少年に手を差し伸べて言った。
少年はしばらく迷ったあと、コクンと静かにうなずき、手を握ってきた。
「じゃあおやすみ」
「うん……」
病室に戻ったあと、それだけ言葉を交わし、俺はベッドに横になる。
スマホを見ると、0時五十四分。
なにかを忘れている気もするが、思い出す気力もなく、いつの間にか眠りについていた。
翌朝、目を開けたと同時に、猛烈な尿意がおそってきた。
俺はベッドから飛び起き、廊下をできるだけ速く歩きトイレに向かう。
小便器に向き合いながら、昨日のことを思い出す。ほんとよく漏らさなかったな。
病室に戻ると、枕元の背もたれに身を預けている少年と目があった。
俺は自分のベッドに腰かけ話しかけた。
「おはよう。よく眠れた?」
「……うん。……お兄さん、昨日はありがとう」
「あぁ、うん。気にしないで」
……気まずい。
最後に子どもと話したのは実家の親戚の集まりだろうか。社会人になってからもう何年も行っていない。たまには行くべきだろうか。
そんなことを考えていると、
「おっお兄さんは、どうして……入院してるの?」
少年は上ずった調子で、昨日の様子からは想像できないくらい、大きな声で言った。
俺は少し面を喰らったあと、おどけて言った。
「働きすぎて血を吐いちゃったんだ。君は――」
俺はあとの言葉を飲み込んで、別の言葉を繋げた。
「君は小学生?」
すると、少年は表情をあらかさまに曇らせた。
「……うん。三年生。学校、行ったことないけど」
なんとなく察しがついた。明らかに人に慣れていない様子と、そして日に当たったことが無いんじゃないかとまで思う肌の白さ。
――どうせやることといえば、YouTubeを見るか、ソシャゲぐらいだろう。
厳しい大人の世界に揉まれ疲れたんだ。たまには子どもと遊んでみるのもいいかもしれない。
「ゲームとかやるの?」
それから少年のSwitchで、ナースにキツめに注意受けてしまうほど騒ぎながら、マ◯オをやった。久しぶりにやったマ◯オは、あまりにもおもしろくて年甲斐もなく熱中した。
夕食を終えると、消灯の時間まで話をする。内容のほとんどは俺の体験談だ。
俺の学生時代の話をすると、まるで母親に絵本の続きを急かすように、目を輝かせて聞いていたが、社会人になってからの話は、あらかさまにつまらなそうだったのでやめた。
そんな日々が続き、入院してちょうど二週間経った。
いつものように少年と遊び、昼飯を食べたあと医者に呼ばれる。要件は分かっていた。
「佐藤さん、もう明日には退院できますよ」
「そうですか……」
本来なら喜ぶべきなのだろう。しかしそんな気にはどうしてもなれなかった。
病室に戻ると、少年はSwitchで遊んでいた。
「あっお兄さん!早くやろうよ!もう少しで八面クリアできるよ!」
「おう」
いつものように少年の隣に腰掛け、画面を横から覗き込む。
「あー死んじゃった。はい次お兄さんね。土管から出るとすぐキラーが飛んでくるから注意してね」
少年から端末を受け取り、赤い帽子のチョビ髭を操作する。
「お兄さん今日はなんか上手いね!」
そのまま順調に進め、ゴールのフラッグに飛び乗ってクリア。だが次のステージで序盤の穴に落ちてしまった。
「ドンマイ、ドンマイ。次ぼくね」
そんな調子で着々と進め、ついにラスボスまでたどり着いた。しかしなかなか倒せない。橋を渡って右端の斧を取って終わり、なんて現代では通用しないらしい。
それから悪戦苦闘すること二時間。ようやくラスボスは溶岩の海に沈んでいった。
「やったーーー!初めてクリアできた!お兄さんありがとう!」
廊下を歩いていたナースがこちらをギロリと睨んできた。俺は手を合わせて許してくださいと、ジェスチャーをする。
「やったな。ていうかクリアできてなかったんだ」
「うん!でも全クリじゃないんだよ。まだ裏ステージがあるんだ。明日からはそれやろう!」
胃がチクっとした。なんだ、まだ治ってないじゃないか――。
そんな甘い考えを早々に諦め、俺は重い口をひらいた。
「……ごめん、お兄さんは明日、退院するんだ」
そのあとは大変だった。少年は泣きじゃくりながら「なんで!なんで!」と暴れ始める。飛んできたナースたちがどうにかなだめると、黙って囲いのカーテンを閉じ、ベッドに閉じこもってしまう。
夕方になっても、カーテンを抑えてつけては、夕食を拒否しナースたちを困らせていた。
消灯時間が過ぎ、俺は真っ暗な天井をぼうっと見る。YouTubeを見よう思ったが、動画の途中でアプリを閉じてしまった。
小さくため息を吐く。もっと上手い伝え方があっただろう、昼の一言を反省していると、今にも消えてしまいそうな声が聞こえた。
「……お兄さんまだ起きてる?」
「起きてるよ」
返事はなかった。しばらくすると
「昼間はごめんなさい。どうしてもお兄さんがいなくなるのが……イヤだったんだ」
「そっか」
「家族以外で生まれてから初めていっしょに遊んだのが、お兄さんだったんだ。もうお別れなんて……早すぎるよ」
少年は涙声で言った。
「ごめんな。でもお兄さんはもうここには居られないんだ」
「うん。もうわかってる。でもいなくなる前にお願いがあるんだ」
なんだろうと思っていると、カーテンが開いた音が聞こえた。
そして俺の目の前のカーテンも開かれる。ベットの脇に青白い顔に覚悟を決めた表情で少年が立っていた。
「僕と友達になってくれませんか」
なんだそんなことか。
「もう友達だよ」
夏の夕暮れ、汗で張り付いたシャツを鬱陶しく思いながら、俺は帰路についていた。
二年前、胃潰瘍で入院した俺は、退院するやいなや前の会社に辞表を叩きつけ、転職した。
ホワイトな職場に巡り会えたおかげで、陽が落ちる前にこうして退社することができている。前職では考えられない。
ふと、入院中に出会った少年のことを思いだす。
「もう友達だよ」だなんて吐きながら、俺は退院してしばらく会いに行くことはしなかった。
転職活動や新しい仕事を覚えるのに必死だったからだ、と心の中で言い訳をしたあと、自分の不義理さに少し自己嫌悪になる。
ようやく地に足がついたころ、花とお菓子を買ってから病院を訪れた。受付の女性に少年の名前を告げると、思わぬ答えが返ってくる。
「あぁあの子。最近退院したんです。担当医も驚いていましたよ」
今どうしているんだろうか。学校に通えているんだろうか。友達はできたのだろうか。
物思いに耽りながら住宅街を歩く。
近所の公園に近づくと、子どものけたたましい声が聞こえてきた。
元気だねぇと、ボールに群がる子どもたちを横目で見ながら、通り過ぎようとする。
その時、聞き覚えがある声が響いた。
「マイボ、マイボ!」
思わず、体を向け声を発した子どもを見つめる。
青白かった肌は日に焼け、あちらこちらにある生傷が目につく。
「触ってねーよ!」
「いや絶対触ってた!」
少年は他の子どもと揉めていて、輪の中で大声を上げている。
自分の知る面影は、最初からなかったかのように消え去っていた。
「やっぱり幽霊だったんだな」
俺は誰に聞かせるわけでもなくそう呟き、笑みを浮かべながら公園のそばを通りすぎた。