悩み
「今朝、容体が急変したって立花さんから聞いてさ、つい焦ってお前に連絡しちまった」
話しながら、七海が眠る美羽ちゃんの頭を優しく撫でる。
すると、苦しげだった美羽ちゃんの表情が微かに和らいだ。
「大丈夫なのか?」
「今のところは。だけど、いつ具合が悪くなってもおかしくないってよ」
「おかしくないって、美羽ちゃんは良くなってたんじゃないのか?だから外に連れ出して……」
そこまで口にして、ようやく僕は外出の本当の意味を理解した。
「……治るの?」
「発見が早ければ、今より見込みはあったかもな」
ゼロじゃない。
だけど、限りなくゼロに近い。
独り言を呟くように吐き捨てた七海の表情は、相変わらず穏やかなままだ。
それから、どれくらい経っただろうか。
重苦しい沈黙の中、ふと何かが僕の手を掴んだ。
驚いて顔を向ければ、見慣れた小さな手と、僕を不安そうに見つめる美羽ちゃんの瞳が見えた。
「……お兄ちゃん、お姉ちゃん」
「おはよう美羽、具合はどうだ?」
「……眠たい」
「もう昼だぞ?美羽は相変わらず寝坊助だな」
「ち、違うもん。これはお薬のせいだもん」
そう言って顔を背ける美羽ちゃんの姿が、いつもなら可愛らしいと感じるそのしぐさが、今は見ているだけで胸が苦しくなった。
黙り込んでしまう僕に、七海は喝を入れるように僕の背中を叩き、目が覚めたことを報告してくると部屋から出て行ってしまった。
彼女を見送ると、美羽ちゃんが僕の手を握ったまま、静かに口を開いた。
「……ごめんなさい」
「な、何で美羽ちゃんが謝るの?」
「だって、心配かけちゃったから。お兄ちゃん、やっと元気になってくれたのに」
繋がれた手に、微かに力が込められる。
慌てて僕は首を横に振り、何とか笑顔を作って、
「謝る必要なんてないよ。美羽ちゃんは、何にも悪いことをしてないんだから」
「でも、お兄ちゃん、すごく辛そうだよ?私が……心配かけたからだよね?」
だからごめんねと、こんな時ですら美羽ちゃんは僕の心配をして心を痛めている。
何も悪くないのに、罪悪感を覚えている。
「違うよ。これは……外が暑かったせいなんだ」
「……そうなの?」
「うん。暑いのも、それに寒いのも苦手なんだ。ずっと春だったら過ごしやすいのにね」
そう言って顔を歪めて見せれば、美羽ちゃんは少し間を開けて、小さく息を吹き出した。
ようやく見せてくれた笑顔に胸をなでおろすと、やがて七海がお医者さんたちを連れて部屋に戻ってきた。
彼らは目を覚ました美羽ちゃんを見て、彼女のそばに歩み寄り、機器の数値等を確認し始めた。
「私たちがいたら邪魔になる、出るぞ」
「そうだね。それじゃあ美羽ちゃん、また来るよ」
そう言って、美羽ちゃんに手を振り部屋を出る。
それと同時に、全身から驚くほどの汗が吹き出した。
「大丈夫か?」
「ごめん。ちょっと、気持ちが落ち着かなくて」
「別に謝らなくて良い。私も似たようなもんだ」
言葉の割に、彼女の表情には不安の欠片すら見えない。
気持ちを隠すのが上手なのか、それとも生まれ持った強さなのかは分からないが、今はその落ち着きぶりが有難かった。
部屋を後にした僕たちは、改めて話をするために病院の屋上へと向かった。
「どこまで話したっけ?」
「頭に厄介なものを抱えているってことと、長い間病院にお世話になっているってこと。後は、病気が見つかるのが遅かったってことも聞いた」
「ああ、そうだった。もう少し早く見つかれば良かったんだけどな」
「どうして美羽ちゃんの病気は見つかるのが遅れちゃったんだ?美羽ちゃんの病気は珍しい物なのか?」
「いや、多分お前も知ってる」
七海が口にした病名は、確かに何度も耳にしたことはあるものだった。
とはいえ、まさかそれが身近な子供を蝕んでいるとは夢にも思わなかった。
言葉を失う僕に、七海は雲一つない空を見上げて言った。
「お前、病院で美羽の親を見たことがあるか?」
「……いや」
見たことが無い。
それどころか、病院で遊んでいるときも、どこかへお出かけした時も、一度だって両親の話が上がったことは無かった。
「どこにいるのか分からねえんだ」
七海が聞いた話によると、美羽ちゃんの両親は彼女が生まれてすぐに離婚していた。
美羽ちゃんは母親が引き取ることになったが、その母親は一人で美羽ちゃんを育てることに疲れ、そして現実から逃れるように外に癒しを求め、その時に出会った男性と会うため美羽ちゃんを一人ぼっちにした。
「確かに小さい子供を育てるのは苦労するって言うし、美羽の母親も色々と思うことがあったんだろ。でもさ、外で男と会うために美羽を放っておくのはどうなんだろうな」
「それじゃあ、美羽ちゃんの病気が見つかるのが遅れた理由は」
「ああ。誰もアイツを、病気で苦しんでいる美羽を見つけられなかったんだ。いや、正確には一人を除いてか」
「一人?」
「橘さんだよ。あの人は美羽と同じマンションに住んでいて、仕事帰りの夜にマンションの廊下で倒れている美羽を見つけたらしい」
それから橘さんは急いで自身の勤めている病院へ連絡を入れて、検査をして、ようやく美羽ちゃんの病気は明らかになった。
当然、橘さんはそのことを美羽ちゃんの母親に伝えようとした。
しかし、後から美羽ちゃんから聞いた話によれば、彼女は美羽ちゃんが見つかる数日前から行方をくらませていたそうだ。
「飯もろくに食えてなかったんだろうな。あの時の美羽はビックリするほど痩せていて、それどころかまともに口も利けなくて、毎晩部屋で声を殺して泣いてた。そんな美羽を橘さんは必死に励まして、おかげで今は普通の子供と変わらない生活を送ることが出来るようになったんだ」
そこまで話をしたところで、数人のスタッフたちが屋上へとやってきた。
お昼休憩の時間なのだろう。
彼らは楽し気に話をしながらベンチに腰掛け食事を始めた。
それを合図に、僕たちは会話を切上げ家に帰ることにした。
「どうなるかは分からねえけど、美羽の前ではいつも通りでいてやってくれ」
もちろんそのつもりだった。
しかし、そんな僕の決意は、ほんの少しのことで簡単に崩れ去ってしまう。
美羽ちゃんの話を聞いた帰り道。
いつも別れる交差点に着いた時のことだった。
「そう言えば、お前はもう準備出来たか?」
「準備?」
何のことだと首をかしげると、七海は「そりゃあ」と口元をいつもの様に緩めて
「美羽の、十歳の誕生日プレゼントのことだよ」
「……へ?」
間の抜けた声が漏れる僕に、七海はまるでこのリアクションを待っていたと言わんばかりに表情をほころばせる。
「あれ、言ってなかったっけ?」
「……初めて聞いた」
「ああ、そうだったか。いやあ、そいつは悪いな。うっかりしてた」
「ちなみに、その誕生日と言うのは」
「明後日の土曜日だな」
「思ってたより近いな!」
「近づいてきたから思い出したんだよ」
彼女の話が唐突なのはいつものことだ。
しかし、今回ばかりは言わないといけない。
「そう言うのは、もっと早く言えよ!」
ごめんごめんと笑う彼女を、僕はただ無言で睨みつける。
しかし、いくら睨みつけたところで美羽ちゃんへのプレゼントが決まるわけではない。
翌日の二学期初日、僕は始業式が始まる前に職員室へと駆け込み、美羽ちゃんと同年代くらいの子供を持つ先生たちに話を聞くことにした。
「可愛い洋服に決まってるだろ。うちの娘はおしゃれが大好きだからな!」
「大きいケーキですかね?子供はお菓子が大好きですから」
「アイドルのグッズとかどう?ほら、私も一緒に楽しめるし」
「進藤、いくらモテないからって小学生を狙うなんて……」
意見がバラバラな上に、あらぬ誤解まで受けそうになった。
通報だけは何とか食い止め教室に戻り、心底楽しそうにこちらを見つめる悪魔を睨みながら考える。
悪魔から情報によると、明日は橘さんや子供たちと一緒に美羽ちゃんにプレゼントを渡し、ケーキやお菓子を食べて十歳の誕生日を祝うことになっているらしい。
「何でこんなギリギリまで教えてくれなかったんだ」
「そんなのお前が慌てふためく姿を見たいから……じゃなくて、ほら、私って天然ドジっ子キャラだから」
「そうか、河野と宮崎さんには伝えてあったのに、僕だけに話していなかったのも天然ドジっ子だからか」
「てへっ」
「地獄に落ちろ!」
始業式中も、ホームルームの間も、ひたすら考えてみた。
僕と河野なら、サッカーのグッズを貰えれば一カ月は幸せな気持ちのままいられる。
いつも一緒にいるクラスの連中なら、ゲーム、アニメ、女優のブロマイドにおバカグッズ等々、分かりやすいことこの上ない。
多分、男が単純と言われるのもこういうのが所以だったりするんだろう。
しかし、今回の相手は女の子、しかもいくらか年齢の離れた年下の少女だ。
考えてみた結果、こういう時は我らが委員長に相談だと言う結論に至り、帰りのホームルームが終わると同時に、部活へ向かおうとしていた宮崎さんに声をかけた。
「あのさ、もしも明日が宮崎さんの誕生日だとして、何を貰ったら嬉しいのかな」
「……美羽ちゃんのプレゼント、決まってないの?」
無言の視線で訴えかけると、宮崎さんは困ったように笑って、それから口元に人差し指を当てて、
「ごめんね、これだけは教えてあげられません」
「え、どうして」
「だって、私は美羽ちゃんじゃないからね。私が欲しいものが美羽ちゃんと同じとは限らないでしょ」
「た、確かに……」
今朝、先生たちに話を聞いた時もそうだった。
と言うか、普通に考えればみんな欲しいものが違って当たり前だ。
しかし、ならば一体どうしたものか。
そもそも、これまで美羽ちゃんの口から何かが欲しいとか、そういう話を聞いたことなかった気がする。
遊びに行っても、彼女は決して自分から何か欲しいと言わず、ジュース一つすら欲しがったことがない。
と言うか、何で僕は夏休み中一緒にいたのに、好みの一つも知らないんだ。
それくらい会話の中で自然と出てくるように仕向けろよ過去の僕!
などと、遅すぎる後悔に打ちひしがれていると、ふと宮崎さんがどこか嬉しそうに笑って、
「そんなに心配しなくても、なんだって喜んでくれるよ」
「そ、そうなの?」
「そうだよ。大事なのは何を上げたかじゃなくて、どれだけ美羽ちゃんのことを想ったか、でしょ?」
優しい表情に、僕は増々何も言えなくなる。
そうして素敵な笑顔に心を癒されていると、ちょうどお手洗いから出て来た河野が僕たちの姿を見つけて駆け寄ってきた。
「よう。二人で何話してんの?」
「美羽ちゃんのお誕生日プレゼントのこと話してたの。河野君はもう決まってる?」
「もちろん!だって、話を聞いたのはキャンプに行った帰りだったからな!」
「つまり半月以上前か……」
増々あの悪魔の悪意が確信めいたものになってきたが、今はそんなことより聞いておかないといけないことがある。
「河野は美羽ちゃんに何を上げるつもりなんだ?」
恐る恐る聞いた僕に、河野は自信たっぷりに親指を立てて言った。
「キングカズのポスター!世界一カッコいいだろ!」
「……美羽ちゃん、サッカー選手が好きなのか?」
「知らん!けど、違うならこれを機に好きになってもらう!」
能天気な笑顔を前にすると、悩んでいる僕がまるでバカみたいに思えた。




