引退試合
七月が終わりに近づいてきた。
期末試験が目前に迫ったこともあり、宮崎さんとの勉強会はいつも以上に熱が入る。
「頑張れ進藤!お前が赤点を回避できれば、一万円は俺のものだ!」
「先生!生徒のテストの結果を賭けの対象にするのは良くないと思います!」
思惑はともかくとして、この一カ月ずっと指導してもらった甲斐はあった。
その証拠に、先生がテスト対策に用意してくれる小テストの点数が少しずつ上がってきている。
「このまま赤点を回避出来たら分け前をくれてやる。自販機で好きなジュースを選ぶと良い」
「一万円の賞金に対して分け前がセコイですね!分け前に加え口止め料としてコンビニのチキンを要求します!」
「……進藤、先生が言うのもなんだけど、もう少し意地汚くなっても良いと思うぞ」
などとくだらないやり取りをしている僕たちの隣では、宮崎さんの優しいスパルタレッスンで死にかけている七海の姿がある。
あちらもそれなりの成果が出ているようだが、しかし喜んでいるのは宮崎さんだけで、七海は虚ろな目をしてテーブルに広げた問題集を見つめている。
最初は宮崎さんに勉強を教えてもらう彼女が心底羨ましかったが、今となっては金を積まれてもあちらには行きたくない。
そうして、死にかけの七海を横目に今日の勉強会が終わりを迎えたころ、先生が思い出したように僕と宮崎さんを一瞥して言った。
「そう言えば、サッカー部の試合ってもうすぐじゃなかったか」
「ええ、テストが終わった週の土曜日です」
「そうか。その日はうちの教師全員で応援に行く予定だから、頑張ってくれよ」
「はい。ありがとうございます」
お礼を告げると、僕たちは先生と別れて校舎を出て駅に向かって歩き出す。
道中、夕暮れ空の中で宮崎さんはどこか寂しそうな顔をして僕に言った。
「進藤君、来てくれるよね?」
本来ならば聞く必要もないことだ。
僕はサッカー部に所属しているのだから、怪我をしていたってベンチや応援席から皆の試合を見届けるのが当たり前なのだ。
しかし、生憎今の僕には宮崎さんの質問に素直にうなずけるほどの度胸も余裕もなかった。
言葉の代わりに返した曖昧な笑みは、宮崎さんにどう映っただろう。
宮崎さんは少し寂しそうに笑って、部活を見て来ると言い残し僕たちの元を去った。
それを見届ければ、僕たちのやり取りを黙って見ていた七海が僕の肩を叩いた。
「腹はくくったか?」
「うん、もう大丈夫」
「……そうか、それじゃあ行くか」
聞きなれた音が夜の闇を超えて耳朶を揺らす。
何千、何万回と聞いてきたはずだが、例えそれが何回目だろうと、この音は僕の胸を高鳴らせる。
もしも怪我をしていなければ、この音を聞きながらアイツと一緒にがむしゃらにサッカーを楽しんでいたに違いない。
「全く、何度言ってもお前は言うことを聞かないな」
呆れ交じりの僕の声に、肩を大きく震わせながら振り向く影があった。
すっかり暗くなったグラウンドに残るその人影は、僕と、隣に立つ七海を見て緩やかに表情をほころばせた。
「……本当、お前たちって仲が良いのな」
「お前たち宮崎さんファンクラブの連中ほどじゃないよ。それより、試合はもうすぐだけど調子はどうなんだ、河野」
名前を呼ぶと、河野は小さく笑い声をあげた。
「見ての通り絶好調。過去一番ってくらい調子が良いぜ」
その言葉を証明するように、河野はゴールに向かってシュートを放つ。
聞きなれたボールの音は、間近で聞くほど心地が良い。
「今ならゴールのポストの角全部に一発でシュート決められるぞ。やってみようか?」
「別に良いよ。調子が良いのは今ので分かったから」
「なんだよ。せっかく七海にもカッコいいところ見せてやろうかと思ったのに」
病院でのやりとりが嘘のように、気軽な言葉が僕たちの間を舞う。
宮崎さんを除けば、サッカー部で僕とまともに言葉を交わしてくれるのはコイツだけだ。
だからこそ、それがどうしようもなく嬉しくて、同時に胸が詰まりそうになるほど悲しい。
「新エース様、今からちょっと付き合えよ」
黙り込んだ僕の代わりに、七海が不敵な笑みと共に言葉を継ぐ。
戸惑う河野をよそに、彼女は転がっていたボールの一つを拾い上げて、
「新旧エース対決だ。コイツの足のケガが治った祝いに腕試しと行こうぜ」
「は?な、治ったって、マジなのか?」
河野の問いに、僕は何も答えず七海からボールを受け取る。
「ルールは簡単だ。互いにオフェンスを繰り返して、先に五回相手を抜いたほうの勝ち」
「良いのか?怪我が治ったからって、いきなりそんな……」
「気遣いはいらないよ。全力でやろう」
そう言って笑いかければ、河野の表情が少し強張った。
「スパイク履いてるところを見るのも久しぶりだな」
「サイズが変わってなくて良かったよ」
話しながら僕は七海に視線を送る。
すると、彼女は小さく頷いてグラウンドを後にした。
「あれ、見て行かねえのか?」
「新エース様が無様に負けるところを見せるわけにはいかないからね。……それじゃあ、いくよ」
軽口と共に、一気にボールを蹴って河野を抜き去る。
まずは一勝。
あと四回抜けば僕の勝利だ。
「……進藤、お前」
「さあ、次は君の番だ。かかってこい」
有無を言わさず次の勝負へ移る。
河野は、歯を食いしばりながらボールを蹴りだした。
荒っぽいドリブルだが、以前と比べてキレがある。
あっさりと僕は横を抜かれてしまい、その勢いに押されて尻もちをついてしまう。
「大丈夫か!?」
「……ごめん、ちょっとふらついた。続けよう」
急いで立ち上がり次の勝負へ。
今度は先ほどとは違い、フェイントで揺さぶりをかけ河野を抜き去る。
すると今度は、河野が僕を真似たかのようにフェイントをかけて僕を抜き去った。
そうして、互いに四回ずつ相手を抜き去り、迎えた僕の五回目の攻撃。
攻撃を仕掛けた僕より早く、河野が僕の持っていたボールを奪い去った。
これで、四勝一敗。
次の河野の攻撃を止められなければ、僕の負けだ。
もちろん、わざと負けるなんてふざけた真似はしない。
今の僕に出来る全力で河野を止めにかかった。
しかし、
「あらら……」
残念ながら一歩及ばず、五対四で河野の勝利が決まった。
「流石だね。これならインターハイ優勝だって夢じゃないよ」
「……おい、嘘つくなよ」
今の勝負で全ての事情を察してくれたらしい。
目に涙を貯める彼に、僕は口元を緩めて、
「最後の勝負に付き合ってくれてありがとう」
最高の感謝を込めて、そう言った。
しかし、河野はどうしても認められなかったのだろう。
険しい表情を浮かべ、乱暴に僕の胸倉をつかみ上げた。
「最後って何だよ。俺たち、まだ二年生だろ。来年が、あるだろ」
「……そうだったら良かったね」
今だからこそ、ブランクがあるとはいえまともな勝負が出来た。
しかし、僕たちに生まれてしまったこの差は、残念ながらもう二度と縮まることはない。
子供たちとサッカーをしたとき、具体的に言えば七海と一対一の勝負をしたときに思い知った。
元々、完治は難しいと言われていた。
幼いころからサッカーばかりしていたせいで足に疲労がたまっていた。
それを知っていながら、僕は最近の河野と同じようにオーバーワークを重ね、取り返しのつかない怪我を負った。
「リハビリも頑張ったんだけどね。おかげですぐに歩けるようになったけど、やっぱり元の状態に戻るのは無理みたいだ」
病院の屋上で七海からボールを奪おうとしたあの時、力を入れたはずの右足が体を支え切れなかった。
それだけじゃない。
ホームから落ちそうになっていた宮崎さんを駅で助けたときも、僕は足に力が入らず、そのまま彼女を抱えてホームに倒れてしまった。
「足に上手く力が入らないんだ。だから、僕はもうサッカーは出来ない」
言葉にした途端、喪失感が津波の様に襲い掛かってきた。
サッカーが出来ない。
たったそれだけの事実は、僕にとっても、河野にとっても筆舌しがたい痛みを生んだ。
「……なんだよそれ。聞いてないぞ」
「ごめんね。もっと早く認めれば良かったんだけど……」
理由がどうあれ、大好きなサッカーを諦めたくなかった。
だって、僕にはそれしかなかったから。
「でも、今の勝負で分かったよ。僕はもう“そっち”へは戻れない。……ここでお終いなんだ」
「……なんで認められんだよ」
「なんでって、今の勝負を見ただろ。怪我をする前とは比べ物にならないほど衰えてたじゃないか。だから、僕はもう」
「お前の怪我は、事故じゃなかったんだろ?」
……なんだ、知ってたのか。
知っていて、それでも黙ってくれていたことが嬉しくて、こんな時だというのに口元が緩んでしまう。
「お前も気がついてたんだろ。お前が怪我をしたあの時、ボールを奪いに来るふりをしてわざとスパイクで足を蹴られたの」
ボールを奪いに来た選手を抜こうとする際、相手の出した足に引っかかり転んでしまうなんて言うのは、試合中に一度は目にする程度のことだ。
だから、その日僕が紅白戦で相手を抜こうとした時、足を引っかけて転んでしまったことなんて、誰の目にも止まることのない些細な事件で片が付くはずだった。
「あの後、お前は病院に運ばれて、それを見てた連中が言ってたんだよ。“上手くいった”って」
「……」
「分かってたんだろ。お前がサッカーが上手くて、そのことに周りの連中が嫉妬していたことも、陰で色々と言われてたことも。それなのに、何でお前、何にも言わないんだよ」
悔しそうな彼の声を聞いて、流れる涙を見て、ようやく僕は理解した。
七海の言った通りだった。
河野は、僕を友達だと思っていたから言えなかった。
だけど、僕が裏で何を言われているのかを知っていて、それでも河野は僕と一緒にサッカーをすることを望んでくれていた。
「俺、お前が戻って来てくれると思ってたから頑張ってたんだぞ。お前は、ずっと俺の目標だったから。戻ってきたら、また中学の時みたいに一緒にやれるって思ってたのに……」
「……そっか」
「お前の方が上手いのに、どうして俺が選ばれるんだよ。お前、選ばれなかった先輩たちのためにって頑張ってただけだろ。それなのに、どうして誰もお前の努力を認めてやらねえんだよ。何で頑張ってる奴が皆の敵にならないといけないんだよ」
「……」
「お前の代わりになれるようにって頑張ったけど、やっぱり無理なんだ。どれだけ頑張っても、俺は……」
僕がいなくなったから、自分が選ばれてしまったことに責任を感じてしまった。
そして、それを全て一人で抱え込んでいた。
本当に、馬鹿としか言いようがない。
呆れてため息が零れそうになる。
腹が立って手が出そうになる。
でも、そんな些細なことより、僕には彼に伝えるべき言葉があった。
「そんなに苦しそうな顔をするなよ。中学の時の君は、もっと楽しそうだったよ」
いつだって思い出すのは、部屋に飾ってある写真の中の光景だった。
中学最後の試合で共に喜び合ったあの瞬間、僕たちは試合の勝ち負けなんて忘れて、サッカーそのものを楽しんでいた。
「誰よりも楽しそうだったから、皆は君と一緒にサッカーがしたかったんだよ。僕じゃなくて、他の誰でもない君と一緒に戦いたかったんだ」
向けられた悪意は、刻み込まれた痛みは、きっと一生忘れることは出来ない。
それでも、僕は胸を張って言える。
「どんな終わり方だったとしても、僕は河野と一緒にサッカーが出来た時間を誇りに思うよ。だから、もう苦しまないでくれ。僕は隣にはいられないけどさ、君が楽しそうにサッカーをしているのを見るの、結構好きだからさ」
復帰できないのに、退部届も出さず朝練に顔を出していたのはそう言うことだったのだろう。
僕のせいで河野が苦しむのは見たくない。
僕がサッカーへの未練で苦しみ続ける限り、彼もまた苦しみ続ける。
ならば、僕がしなければいけないことは一つだけだ。
「ありがとう。最後に、君とサッカーが出来て良かった」
最後。
念を押す様に、もう一度口にした。
彼に認めさせるように、認めてもらえるように。
もう苦しまないでくれと、願いを込めて。
僕は、彼に笑って見せた。
校門を出て少し歩くと、電柱の下で空を見上げている七海の姿が見えた。
「もう良いのか?」
「うん。十分だよ」
「そうか」
短いやり取りの後、僕たちは駅へ向かって歩き出す。
「ありがとう。君のおかげで色々と吹っ切れた」
「何のことか分からねえが、礼があるなら形で示してくれ」
微笑む七海に、僕は「現金な奴」と言い大袈裟にため息を吐く。
——お前、本当はもう治らないんだろ?
子供たちとサッカーをしたあの日、病院の屋上で七海が僕に言った。
話によると、どうやら七海も僕と同じく、僕が宮崎さんを助ける時に違和感を覚えていたようで。
それが確信に変わったのが、僕がボールを奪おうと勝負を仕掛けた時だったらしい。
「倒れ方が変だったから、何となくそうじゃねえかなって思ったんだ」
「見かけによらず、大した観察力だね」
「私の観察力がすげえんじゃなくて、お前の観察力が低いんだよ。普通に見てたら気が付くだろ」
「出た、悪気のない嫌味。君はもう少し人と接して世の中の普通を学んだ方が良いよ」
「……片足だけじゃバランス悪いだろうから、もう片方もやっとくか」
パキポキと指を鳴らす七海から慌てて距離を取る。
怪我人相手にも容赦なく暴力をふるうのはどうかと思うが、それを彼女に説いたところで無駄なのは分かっている。
「大丈夫か?」
ふと、七海が言う。
僕は、一瞬だけ間を開けて首を縦に振った。
「うん。もう無茶な練習とかプレーはしないと思う」
彼の、河野の願いは死んだ。
僕と彼は、同じ場所で戦うことは出来ない。
ならば、彼はもう理想に苦しまされ、自分を追い込むような真似をする必要はなくなるはずだ。
「本当、手間のかかる奴だよ」
言いながら、彼女の横を通り過ぎ駅へと向かおうとしたその時だった。
「お前のことを聞いてんだけど」
冷めた声が投げかけられた。
黙り込む僕に、七海は静かに、再度問いかけた。
「お前は、少しは楽になったのかよ」
なんと答えるのが正解だったのだろう。
いつもみたいに軽口で流す?
それとも、何のことだと知らぬふりをした方が良かったのかもしれない。
選択肢はいくつもあったけど、結局僕に選べたのは一つだけだった。
「……楽になんて、なるわけないだろ」
ああ、ダメだ。
これ以上言いたくないのに、口にした瞬間、必死にとどめていた気持ちがあふれ出して止まらなくなった。
「僕だって、河野と一緒にグラウンドに立てる日を楽しみにしてたんだ。河野は凄い奴だから、負けない様にって頑張ってたんだ。それなのに、どうしてこんな形で辞めさせられなきゃいけなかったんだよ」
喉の奥が焼け付くように痛い。
視界が悔しさに滲む。
「僕は、皆と少しでも長くサッカーをしたかっただけだ。それなのに、下らない嫉妬で僕の邪魔をするなよ」
僕に言い分があるように、彼らにも言い分があるはずだ。
それを分かっていながら、それでも黙っていることなんて出来なかった。
「ムカつく。僕の邪魔をするアイツらも、治らない足も、なにも出来ない自分も!」
なんと思われようが知ったことか。
これが僕の本音だ。
誰にも言えず、腹の奥底で抱え続けて来た僕の怒りだ。
「何で僕がこんな目に合わないといけないんだよ!僕は、もっとサッカーがしたかった!高校を卒業して大学に入っても、社会人になったって続けたかったのに、何で……」
恨みが胸を詰まらせる。
腹が立つなんて言葉では収まりきらない。
誤魔化さずに言おう。
僕は、彼らが憎い。
僕から大好きなサッカーを奪っておきながら、明日も仲間たちとグラウンドを駆け回る彼らが憎くて仕方がない。
もしもこの手にナイフが握られていたら、迷いなく僕はその切っ先を彼らに向けるだろう。
それほど、僕は彼らが憎くて仕方ない。
だけど、それでも
「それでも、勝って欲しいな」
「っ!」
「本当は、皆と一緒に喜びたかっただけなんだろ。勝ったら一緒に笑って、負けたら一緒に悔しがりたかった。本気でサッカーと向き合って、皆と一緒に楽しみたかっただけだよな」
ふわりと、全身が優しい温かさに包まれた。
抱きしめられたと理解すると同時に、背中に回された手に力が込められて、それが引き金となった。
あれだけ恨み言を吐いておきながら、河野の前で格好つけておきながら。
結局、こみ上げてくるものを我慢できなかった。
「……悔しい」
「……そうだな」
「皆に認めてもらいたかっただけなんだ。入部した時は、仲良くできてたんだ」
「そうか」
「皆は僕のこと嫌いかもしれないけどさ、それでも僕は……ムカつくけど、でも……」
言葉が途切れると、七海は優しく僕の背を撫でてくれた。
涙が止まるまで、ずいぶん時間はかかった。
それなのに、彼女は文句ひとつ言わず僕のそばにいてくれた。
礼を告げた僕に、七海は「なんのことだ」と笑った。
夏休みが始まって数日が経った。
今日は全国的にも気温が高いようで、この夏の最高気温を叩きだす可能性があるとお天気キャスターのお姉さんが言っていた。
「今日も元気だな~」
七海が窓の外を見つめながら、紙パックのジュースを片手に呟く。
彼女の見つめる先には、今日も元気よく声を上げて汗を流している運動部たちの姿がある。
「よく考えてみたらさ、陸上部と野球部とサッカー部が同じ場所で練習しているのってかなり危険じゃねえか?野球部のボールとか飛んで来たら大怪我になるだろ?」
「過去に何度かあったらしいけど、生憎うちの高校には専用のグラウンドを作るほどのお金がないから、仕方なくこの形で落ち着いてるんだってさ」
「なるほどな~。……あ、何分経った?」
「二分五十秒」
「マジか」
駆け寄ってきた七海は、僕と向かいあう様に席に着き、残り十秒をキッチリと数え終え、テーブルの上に置かれていたカップ麺のうちの一つを手に取った。
「ちょっと、みそ味は僕の物だろ」
「早い者勝ちだ」
嬉しそうに頬を緩めながら、七海は出来立てのカップ麺を口へと運んでいく。
こんな暑い時期にカップ麺はないだろと思っていたが、なるほど、こうして冷房の効いた図書室で食べるカップ麺と言うのも、中々に背徳感があって素敵じゃないか。
「ああ美味え~。やっぱりラーメンはみそに限るな」
「そんなこと言って、君が買ったのはキムチラーメンだろ。僕、辛いの苦手なのに……」
「辛い物を食えたら委員長と出かけるときに困らなくて済むぞ」
最近知ったことだが、宮崎さんも七海に負けないくらい辛い物が好きらしい。
そう言えば、いつかラーメンを食べに連れて行ってもらった時も、二人してあの真っ赤なラーメンを笑顔で完食していたな。
「でも、甘いものも好きだって言ってたよ」
「つまり食うのが好きなのか。あの調子だと、十年後は間違いなくデ……」
「おい、それ以上言うのは許さないぞ」
言葉を遮るように声をあげれば、七海は肩を揺らして楽しそうに笑う。
「言い方が悪かった。肥満って言えば良かったな」
「結局言うのかよ」
「なんだ?お前の委員長に対する想いは、見た目が変わったら冷めちまう程度なのか?男なら増えた腹の肉ごと愛してやるくらいの度量を見せろよ」
「君から愛なんて言葉を聞くとは思わなかった」
「似合うだろ?」
「ノーコメント」
睨みつけて来る彼女の視線を無視してカップ麺を一口。
うん、やっぱり辛いのは苦手だ。
カレーも甘口しか食べられないのに、キムチ味なんてハイレベルなものを食べられるわけがない。
それでも捨てるのは勿体ないと根性で食べ進めていると、早くも自分の分を食べ終えた七海が、窓の外を見つめて言った。
「昨日は惜しかったな」
「……うん」
昨日は、サッカー部のインターハイ予選準決勝の日だった。
そして、その試合を最後に、うちのサッカー部は大会から姿を消すことになった。
「それでもベスト4だろ、大したもんだな」
「だからこそ、余計に悔しいだろうね」
今年の夏は例年より多く勝ち進むことが出来た。
先輩たちの夏を長く続けることが出来た。
しかし、目標としていた全国へは行けなかった。
いくら勝てても、彼らにとってそれが全てだった。
「試合が終わってから、アイツと話はしたのか?」
「……いや」
「どうして?」
「試合前にたくさん話したし。それに、今はまだ先輩たちとの時間だから」
七海と同じようにグラウンドへ視線を向けると、グラウンドの隅っこで紅白戦をしているサッカー部の姿が見えた。
「引退試合ってやつか」
「うん。あれが終わるまでは、部外者は黙っておいた方が良いと思って」
昨日負けてしまったのが嘘のように、グラウンドの選手たちは生き生きとした笑顔で試合に臨んでいる。
勝ち負けも忘れてサッカーを楽しむ姿は、先日病院の屋上で見た子供たちの姿と似ていた。
どんな事情があろうと、結局彼らがサッカーを愛していることには変わりない。
それがまっすぐに伝わって来て、思わず口元が緩んでしまう。
「大丈夫か?」
ふと聞こえた声に顔を向けて見れば、七海が静かにこちらを見つめていた。
少し考えて、僕は笑みを浮かべたまま答えた。
「凄く羨ましくて腹が立つ。でも、同じくらい頑張れって思ってる」
本心を口にすれば、七海は小さく口元をほころばせた。
「お前あれだな。変態だな」
「え、この流れでそんなこと言う?」
「この流れだからだよ。考えてみれば、昨日の試合で一番泣いてたのお前だし」
「それは……、悔しかったんだから、仕方ないだろ」
「引退する三年生たちだったら分かる。でも、他に泣いてたのって、お前とアイツだけだろ」
七海の言った通り、応援席も含めて試合が終わると同時に泣き出したのは僕と河野だけだった。
「委員長が心配してメッセージ送ってきたんだぞ。“進藤君、メチャクチャ泣いてたけど大丈夫?”って」
「それ、僕のところにも来たよ。問題ないって返しておいたけど、まさか泣いてるところを見られてたとは……」
「隣にいる私まで恥ずかしかったよ。やっぱりお前って変な奴だよ」
いつになく楽しそうに、七海は僕の顔を見つめて言った。
褒め言葉ではないのだろうが、不思議と嫌な気はしなかった。
そうして、どこまでも緩やかな昼食の時間を過ごしていると、突然図書室の扉が、大きな音を立てて開かれた。
二人して顔を向けて見れば、そこには学校指定の体操服に身を包み、息を切らしながらこちらを見つめる宮崎さんの姿があった。
宮崎さんは能天気にカップ麺を食べている僕と、その対面でデザートのプリンを食べ始めた七海を見ると、形の良い眉をひそめて、
「二人とも!どうして補習を受けてるの!」
珍しく声を荒げる彼女に、僕たちは思わず顔を見合わせる。
「どうしてって言われてもなあ?」
「冷静に考えてみれば、成績って期末試験だけで決まる物じゃなかったね」
幸いにも、宮崎さんの勉強会のおかげで、二人そろって全ての教科で赤点を回避することが出来た。
それどころか、七海に至っては理数系の科目でトップ10に入るほどの点数を叩きだした。
しかし、先ほども言った通り、学校の成績とは期末試験の点数だけで決まるものではない。
期末試験の点数に中間試験の点数、加えて普段の授業態度が生徒の成績となる。
だとすれば、真面目に授業を受けていない七海や、中間試験で口に出せない様な点数を取ってしまった僕が補習を受けるのは当然のことだった。
「一発逆転の奇跡なんて起きねえんだな。それどころか、私なんかいきなり点数が上がったもんだから、カンニング疑惑かけられて職員室に呼ばれたし」
「僕は先生たちからタコ殴りにされたよ。時間を返せバカヤローって」
「まあでも、どうせ夏休みの予定はなかったし、これはこれでちょうど良かったかもな。おかげで毎日図書室のクーラーで涼める」
「確かに。どうせなら、明日はゲームでも持ってこようかな」
僕の提案に七海が「良いなそれ!」と嬉しそうな声をあげた瞬間だった。
「私、怒るよ?」
突如、図書室の中に聞きなれない声が響いた。
それが宮崎さんのものだと分からなかったのは、その声が普段の彼女のイメージからかけ離れた、あまりにも冷たい声色だったからだ。
恐る恐る二人で顔を向けると、宮崎さんは怯える僕らを睨みつけて、
「二人とも。今日は補習が終わっても、教室に残っててね」
それだけ言い残すと、宮崎さんは静かに図書室を後にした。
遠のいていく背中を見送りながら、七海は珍しく引きつった表情で僕に言った。
「……委員長とマンツーマンレッスン、男の夢だよな?」
「僕の幸せなツラを見るくらいなら、喜んで地獄に落ちるんだろ?」
いつか言われた言葉を、満面の笑みで返してやる。
その瞬間七海の顔が凍り付いたが、それに気が付かないフリをして僕はテーブルの上を片付け始める。
「おっと、そろそろ昼休みが終わるね」
「おい話を逸らすな。お前、私に色々と貸しがあるよな?」
「余ったお菓子は、宮崎さんとの勉強会に取っておこうか」
「タオル!あの分を今ここで返せ!今日はお前が委員長から勉強を教われ!」
「次の試験で合格できると良いね。夏休みの思い出が補習だけなんて寂しすぎるよ」
片づけを済ませ席を立ち、補習が行われる教室へと向かう。
「最悪だ。テストで良い点とったのに、どうしてこんなことに……」
「まさしく日ごろの行いってやつだね。お互いに生活態度を改めた方が良さそうだ」
笑顔でそう告げれば、七海が悔しそうに僕の肩を小突いた。
折角の夏休みだと言うのに、僕たちにはまだ楽しい思い出が一つもない。
それどころか、午後からは補習と宮崎さんによるスパルタ勉強会が待ち受けている。
考えるだけで眩暈がする。
地獄の様なスケジュールだ。
だけど、
「……まあ、仕方ねえか」
諦めの混じったため息とともに、口元に笑みを浮かべて七海は言った。
「それじゃあ、今から一緒に、死にに行こうか」
グラウンドには、子供の様にサッカーを楽しんでいる親友の姿がある。
最後の勝負をしたあの日、未練に縛られ続けた僕と、そんな僕のために苦しみ続けた彼は死んだ。
二度と同じ舞台には立てないけど、それでも僕はもう寂しくはない。
「頑張れ」
窓から見えた河野に、届くはずのない声でエールを送る。
すると、まるでそれが聞こえたように河野がこちらを振り返り、僕たちに向かって手を振ってきた。
出来過ぎた偶然に、僕たちは顔を見合わせ、声をあげて笑った。




