男の大半は包帯に憧れたことがある
「ふざけろよ」
帰り道、唐突に七海がそんなことを言いだした。
今日は宮崎さんの都合で放課後の勉強会がなかった。
しかし、どうやら七海は宮崎さんが放課後の代わりに昼休みを使って勉強を教えてくれたことが不満だったらしい。
「あいつ、図体は小さいくせに体力だけは巨人並みにあるんだよ。お前は気が付いてないかもしれないけど、勉強中に一度も休みを挟まねえんだぞ。それに付き合わされる私は永遠に教科書とにらめっこさせられるんだよ」
「そ、そうだったんだ」
「……そうだ。お前、委員長から勉強教えてもらいたいって言ってたよな。明日から私と代わらねえか?」
以前までなら二つ返事で首を縦に振っていたが、そんな話を聞かされた今では素直にうなずくのは難しい。
最初は放課後まで先生たちに厳しく指導されるのが辛くて仕方なかったが、もしかすると僕は僕で恵まれていたのかもしれない。
考えておくとだけ答えると、七海は体中の酸素をすべて吐き出すくらい大きなため息をついて言った。
「……よし、決めた。今から付き合え」
「え、何を?」
聞き返すと、ニヤリと彼女の口元が吊り上がり、何も答えず僕の手を引いて歩き出した。
本当に心臓を患っているのか?
そう思ったのは、これで何度目だっただろうか。
あの後、僕は七海に連れられて学校から駅への道にある小さな公園へと連れて来られていた。
そして、公園に到着するや否や、彼女はどこで用意していたのか知らないが、カバンの中からグローブを二つと軟式の野球ボールを取り出し、キャッチボールをすることになった。
「よし、行くぞ~」
のんびりとした声の後、彼女は大きく振りかぶり、野球部顔負けの見事な腕の振りでボールを投げ込んだ。
綺麗なスピンのかかったボールは、風を切る音と共に僕のミットに収まり、乾いた破裂音を響かせる。
グローブを外してみると、熱を帯びて赤くなった左手が露わになった。
学校を抜け出してスポーツジムに連れていかれた時にも感じたことだが、七海は普通の人より体力がある。
僕や宮崎さん、他の利用者はトレーニングが終わると同時に息を切らしてその場に倒れていたと言うのに、七海だけは息を乱さず、平然とした顔をしてサンドバックの前に立っていた。
更に考えてみれば、屋上で宮崎さんと話したあの日も、彼女は壁を伝って屋上に上ると言う荒業を披露していた。
バンジージャンプも激辛ラーメンも、健康体の僕ですら死にかけているのに、彼女はその全てを笑顔で乗り越えている。
「野球経験者だったの?」
「いや?キャッチボールなんて一度もしたことねえよ」
「え、冗談だよね?」
そう思えるほど、彼女の投げるボールには威力がある。
投げるフォームも、いわゆる女の子投げではなくキッチリとしたオーバースローだし、誰が見ても経験者だと思ってしまうくらい彼女がボールを投げる姿は様になっている。
「ボール投げるくらいで大袈裟だろ。こんなの教えてもらわなくても子供だって出来るって」
そんなことを平然と言ってしまうのは、これまで自分の運動神経を誰かと比較したことがないからだろう。
お世辞抜きに、サッカー部の僕から見ても彼女のピッチングは見事なものだった。
「ていうか、何でキャッチボール?」
「ほら、野球漫画ってよく登場人物が死ぬらしいから。双子の弟とか、おとさんとか、魔球投げれるサムライとか」
「野球漫画ってそんなに物騒なの?」
「この前に古本屋で適当に立ち読みしたやつは、全部登場人物が死んでた。だから、私もこうしてボールを握ればもしかするとって思ったけど、よく考えたらそいつら野球とは関係ないところで死んでるし、そもそも私は魔球も投げられないから無理があったわ」
何を言っているのか分からないが、とりあえず彼女の目論見は今日も外れてしまったと言うことだけは分かった。
「ボール投げる時って、髪の毛すげえ邪魔なんだな」
「君は長いから余計にだろうね。切ったりしないの?」
「大事に育てて来たから、どうしてもな~」
言いながら、彼女は背まで届きそうな髪に指先で触れる。
「髪型とかあんまり気にかけないと思ってた」
「失礼な、こう見えても手入れとかしっかりしてるんだぞ」
言われてみれば、彼女の髪の毛がぼさぼさになっていたり、寝癖が付いているなんてところは見たことなかった。
「出来ることの少ない入院生活の、数少ない楽しみだったんだよ」
「……ああ」
そう言うことか。
余計なことを言ったと後悔しながら、空気を変えようと別の話題を切り出す。
「そう言えば、このグローブとボールはどこから持って来たの?今日の体育の授業で用具が減ってるって先生が言ってたけど関係ないよね?」
「……野暮なこと聞くな」
「おい」
そうして、少々問題のある会話をしながら、彼女の運動神経を見せつけられていた時だった。
「調子乗ってるからだな」
唐突に、悪意のこもった声が鼓膜を揺らした。
声のした方に顔を向けると、そこには駅へ向かっていくサッカー部たちの姿があった。
彼らは公園にいる僕たちに気が付いていない様で、声を落とすことなく堂々と話を続ける。
「アイツがいなくなったおかげで、河野と一緒に試合に出られるチャンスが回ってきたな」
「レギュラー譲ってくれてマジで感謝って感じだわ!」
聞こえてくる声が胸を締め付ける。
名前は明言していないが、彼らの言う“アイツ”が誰を指しているのかは嫌でも分かってしまう。
……気付かないフリをしてろ、今までもそうだったじゃないか。
必死に言い聞かせ、なんとか視線を七海に戻してグローブを構える。
しかし
「このまま戻ってこなきゃいいのにな」
誰が言った言葉かは分からないが、それが聞こえた瞬間に頭の中が真っ白になった。
やっぱり、そうなのか。
僕は、彼らにとって……。
「おい!」
「……え?」
我に返った瞬間、頭に強い衝撃。
不意の一撃に視界が揺れ、僕はバランスを崩してその場に倒れてしまう。
「大丈夫か!?」
「あ、ああ。ごめん、よそ見してた……」
心配させないようにと急いで体を起こして笑いかける。
しかし、そんな僕を見て七海の表情が凍り付いた。
「……垂れてる」
「え、なにが?」
「頭」
「ん?」
額に手を当てると、ぬるりと生暖かい感触が指先を伝った。
確認してみると、何故か僕の指先は赤色に染まっていて、ようやく僕は七海が驚いている理由を把握した。
「……病院って、まだ開いてるかな?」
僕の言葉に、七海は青い顔をしたままポケットからスマホを取り出した。
ボールを額でナイスキャッチした後、僕たちは七海が呼んだタクシーで学校の近くにある病院へとやってきた。
僕が七海に借りたタオルで傷口を押さえて呑気にしている間、七海はいつの間にか病院に連絡してくれていたようで、病院に着くと同時に僕は診察室へ通され治療を受けることが出来た。
まあ治療なんて言っても、実際は額にガーゼを貼りつけるくらいのもので、安静にしていればすぐに治ると先生から言われたのだが、
「あの、大丈夫か?」
「全然大丈夫だよ。頭って少し切っただけで大袈裟に血が出ちゃうんだってさ」
「そ、そうか……」
この通り、今は僕の怪我なんかより、彼女のしおらしい態度の方が気になって仕方がない。
てっきり僕は「キャッチボール中によそ見してんじゃねえよタコ!」みたいな感じで悪態をつかれるものだと思っていた。
もしくは、僕が怪我を理由に慰謝料だ何だと冗談を言って、いつもの仕返しにコンビニでお菓子でも買わせてやろうと企んでいたのだが、流石に今の彼女にその手の冗談は言えない。
「えっと、とりあえず帰ろうか」
丸まった彼女の背中に手を置き病院を後にする。
暗くなり始めた空の下、感じたことのない息苦しさと心苦しさに殺されそうになるが、それでもやはり言っておかないといけないだろう。
「ごめんね」
「……何でお前が謝るんだよ」
「僕がぼーっとしてたせいで君に嫌な思いさせちゃったから」
流石に動揺しすぎた。
いくらあんな話が聞こえたからって、頭にボールを食らうなんて運動部としてあるまじき失態だ。
しかも、よりにもよって女の子のボールを食らって、それで病院に運ばれるなんて。
字面だけ見れば、情けないことこの上ない。
「やっぱり、僕は生粋のサッカー部なんだよ。手を使う競技は向いてないんだ」
などと笑ってみれば、うつむいていた七海がふと顔を上げて、
「……確かに。ボールの投げ方、少し変だったな」
静かに呟き、少しだけ表情を緩めてくれた。
いつも通りと言うわけにはいかなかったが、先ほどまであった重苦しい空気がマシになったので良しとしよう。
「そう言えば、貸してもらったタオルはどうすれば良いかな」
「捨ててくれて構わねえよ。あれだけ血まみれになったら洗濯しても無駄だろうから」
「そ、そっか」
こういう時に「勿体ない」と真っ先に考えてしまうのは、僕が貧乏性だからだろうか。
七海から貸してもらったタオルは、明らかに僕が普段使っているタオルより質が良さそうだ。
もしかして、七海って結構お金持ちなのか?
先日も僕と宮崎さんに特大の牛丼を奢ってくれたし。
よく考えてみたら、この前スポーツジムに行った時も、映画館に行った時もバンジージャンプの時も、僕は一円もお金を出していない。
きっと、七海が僕に気が付かないところで支払いを済ませてくれていたのだろう。
「あの、いくらだった?」
「そのタオルか?よく覚えてねえけど、四、五千円くらいじゃねえかな?」
血の気が引くとはまさにこのこと。
値段を聞いてしまった瞬間、僕は取り返しのつかない悪事を働いた気分になった。
「……マジでごめん」
「たかがタオルでそんなに落ち込むなよ」
「タオルもそうだけど、これまでのお金も絶対に返すから……」
「別にいいよ。男のくせに小さいことを気にすんな」
すっかり立場が入れ替わり、今度は七海が僕を励ましてくれる。
そうして話をしているうちにホームに電車がやって来て、僕たちはいつもの様に二人並んで車両に乗り込むはずだったのだが、
「おぉ、進藤と七海じゃねえか!」
聞こえた声に顔を向ければ、改札から歩いてくる河野の姿が見えた。
ここまで走ってきたのだろうか。
表情こそいつも通りだが、額から汗が流れている。
「おお、サッカー部じゃねえか。久しぶり」
「河野だよ。この前話したばかりなんだから、名前くらい覚えてくれよ」
「まあ、名前は何でも良いじゃねえか。それより、サッカー部は何をそんなに急いでたんだ?」
「え、急ぐ?俺が?」
「走って来たんじゃねえのか?すげえ汗だけど」
「ああ、そう言うことか。別に急いでたわけじゃないんだ」
そう言って、河野は背負っていたリュックを下ろし僕に差し出して来た。
受け取ってみると、外見から予想していた以上の重みが手にのしかかり、危うくリュックを地面に落としそうになる。
「これを背負って走って来たのか?」
「体力付けるには丁度良い練習だろ」
「それはまた、ずいぶん練習熱心だね」
「当たり前だろ。少しでも長く先輩たちとサッカーがしたいからな」
そう言って、河野は照れ臭そうに笑う。
元々サッカーに対する熱意は人一倍あったが、レギュラーに選ばれたことで今まで以上にやる気が漲っているらしい。
「君がいるなら良いところまで勝ち進めるよ」
「そうか?進藤に言われたら少し自信がつくな」
「頑張れよ。インターハイに行けたら、もしかしたらプロから声がかかるかもしれないぞ」
僕の応援に、河野は嘘みたいに目を輝かせる。
プロ。
その言葉が、いつだってこの男のサッカーへの情熱を燃え上がらせる。
「契約金が入ったら美味い物でも奢ってくれ」
「おう。その時は七海も宮崎さんも呼ぶから、絶対来てくれよ!」
そう言って明るい笑顔を咲かせたところで、ホームのスピーカーが反対側の電車の到着を告げた。
それを聞いた河野は僕たちに別れを告げ、向こう側のホームへと続く階段を駆け上がって行った。
「単純なヤローだな」
「それが河野の良いところなんだよ」
子供みたいに素直で、誰よりもサッカーを楽しんでいる。
そして、その姿は見ている人たちを魅了し元気を与える。
きっと、河野の様なプレイヤーをスター選手って言うのだろう。
そう思いながら、河野が乗った電車がゆっくりとホームを離れていくのを見つめていると、不意に隣に立っていた七海が軽く僕の肩を小突いてきた。
「いきなり何だよ」
「眠そうな顔をしてたから」
「え、僕が?」
「しっかりしてくれよ。お前まで電車で寝たら、誰が私を起こしてくれるんだよ」
「自分で起きるって選択肢はないのか」
「ない。と言うわけで、今日も頼む」
微笑む七海に、僕はため息を零す。
相変わらず勝手な奴だが、おかげで少し気が紛れた。
ちゃんとしろ。
河野が試合に出られるんだ、しっかり応援しないと。
「勝てると良いな」
僕の心を読んだかのように、七海が呟く。
その言葉にうなずくと、やがて僕らのいたホームに電車がやって来て、僕らはいつもの様に二人で乗り込み空いている席に着いた。
「怪我、早く治ると良いな」
「……そうだね」
彼女が言っているのは額の傷か、それとも僕の足のことだったのだろうか。
だけど、この時の七海の声色が妙に暖かくて、それが少し嬉しかったのはここだけの秘密だ。




