匂い
この日、僕と宮崎さんは生まれて初めて学校を抜け出した。
七海に腕を掴まれ歩き続けている彼女は、誰かに見つかりはしないかと不安そうに視線をさまよわせている。
そうして迷いのない足取りの七海に着いて行き、電車に揺られること十五分。
僕たちは最近オープンしたばかりのスポーツジムへと到着した。
「七海さん、どうしてこんなところに」
「なんでって、もちろん死にに来たんだよ。委員長は死にたいんだろ?」
「それは……」
「安心しろよ、ここなら絶対に死ねるから。というわけで、行くぞ」
何の説明もないままジムの中へ。
平日の昼間ながらに、ジムの中にはかなりの利用者の姿があった。
賑やかなジムの中を進んでいくと、七海は僕と宮崎さんを置いて受付へ向かい、見覚えのある物を借りて僕たちの元へと戻ってきた。
「あの、それって」
戸惑う僕に、七海は借りて来たボクシンググローブを手にニヤリと口元を緩めて、ついでにカバンの中からずいぶん昔の漫画を取り出し、
「燃え尽きるんだよ、真っ白にな」
と、漫画の中でも特に有名なセリフを得意顔で言い放った。
それから僕たちはレンタル用のジャージに着替えると、七海に連れられて“スペシャルトレーニングルーム”なる場所へと足を踏み入れた。
音楽とボクシング、そして暗闇の融合体験。
このジムの大人気エクササイズメニューのようで、ブルーライトのみに照らされた室内には僕たち以外にもたくさんの利用者の姿があり、彼らはサンドバックの前で何やら精神統一の様な事をしていた。
「ボクシングって結構体に負荷がかかるらしいからよ。私の情けない心臓だったら、全力で打ち込んでいる間に負荷に耐えきれなくなって、ポックリ逝けるんじゃねえかなって思ったんだ」
七海ならそうかもしれない。
しかし、心臓に病を抱えている七海はともかく、これでは健康体である宮崎さんは死ぬことは出来ない。
それなのに、どうして七海はここに彼女を連れて来たのだろう。
考えていると、突然室内の明かりが落とされ、設置されていたスピーカーから音楽が鳴りだした。
それと同時に、七海は手に付けたグローブを振りかぶり、
「誰が不良だクソ教師いいぃ!!」
声を張り上げながら、七海がサンドバックを殴った。
その怒りの濃さと変貌ぶりに、僕たちは口を開けたまま固まってしまうが、そんなことなどまるで意に介さず、七海は感情のままに拳と言葉をサンドバックにぶつけ続ける。
「髪の色だけで人を判断するんじゃねえ!私がくわえてたのは煙草じゃなくてポッキーだっつうの!殴り合いなんて生まれてこの方一度もしたことねえよボケがああぁ!」
「な、七海さん?」
「イチゴ味とか超似合ってるだろうが!辛い物好きの肛門が汚いってのは偏見が過ぎるだろおぉ!」
もはや何を言いたいのかが分からない。
しかし、意味不明な嘆きを叫ぶ七海の姿は、宮崎さんの中にあった何かを揺さぶった。
サンドバックを殴る七海を横目に、宮崎さんはなれない手つきでグローブをはめて、
「……私にばっかり、お仕事押し付けないでよー!」
一撃、弱々しい拳がサンドバックを叩いた。
同時に、宮崎さんの表情が歪む。
おそらく人に暴力をふるったことのない宮崎さんには、殴った手の方が痛かったのだろう。
しかし、それでもひるむことなく、歪んだ表情のまま、秘めていた思いを叫びに変えていく。
「マネージャーだって、委員会だって、私一人じゃ大変なの!偶には私の話も聞いてよ!私だって、嫌だって思うことはたくさんあるんだからー!」
叫びと共に、彼女の瞳から涙が流れ出した。
一度流れ出した涙は堰を切ったようにあふれ出す。
だけど、それを止める人はいない。
真っ暗な闇と鳴り響く音楽は、彼女の心の奥に沈んでいた思いを、涙を、騒がしく包みこむ。
「勝手に期待して、勝手にガッカリしないでよー!」
「学食の肉うどん!もうちょい肉増やせ!見回りの爺!昼寝を始めたときに限って巡回に来るんじゃねえぇ!」
「夜遅くに一人で帰るの凄く怖いの!部室の戸締り、誰か一緒にやってよー!」
涙も、叫びも、止まることは無い。
こんなことをしても、何も変わらないかもしれない。
でも、それでも
「バカ!もう全部、バカヤロ―!」
この瞬間だけは、誰にも咎められず、本当の気持ちを吐き出せる。
「うぅ、ひっく。うわああん!」
音楽が鳴り止むまで残り何分だろうか。
分からないが、僕は願った。
少しだけで良い。
あと少しだけ、この時間が続いてくれ、と。
トレーニングの時間が終わり、僕たちは一人だけ元気な七海の手を借りて休憩スペースにある丸テーブルへと移動した。
「いやあ、良い汗かいた。やっぱり運動って良いよね」
「何言ってんだ。お前と委員長は途中で力尽きてたじゃねえか」
「それはほら、僕って生粋のサッカー部だから、手を使うスポーツは肌に合わないんだよ」
「都合の良いように言いやがって」
「……あの、二人とも」
軽口をたたき合っていると、うつむいていた宮崎さんがようやく口を開いた。
揃って顔を向ければ、彼女は視線をテーブルに向けたまま、静かな声で言った。
「ありがとう」
小さな声で告げる宮崎さんに、七海は呆れたようにため息をつく。
「礼なんていらねえよ。結局、死にたいって願いは叶えてねえからな」
吐き捨てるように言うと、七海はそのまま席を立ってジム内に設置されている自動販売機へと歩いて行った。
そんな彼女を見つめながら、宮崎さんは僕にだけ聞こえるような声で話を続ける。
「学校の屋上でも言ったけどね、私は皆が思うほど凄くないの」
「……うん」
「でも、何とか皆の期待に応えようとして、全部一人でやろうとしてた。私が引き受ければ皆が安心してくれる、そう思って頑張ってたけど、それじゃあダメだった。私は凄くないから、結局皆にたくさん迷惑かけちゃった。それが凄く悲しくて、申し訳なくて……」
「……だから、死のうとしたんだ」
呟いた僕の言葉に、宮崎さんは小さくうなずく。
「でも、二人のおかげでちゃんと分かった。私はずっと、助けてって言いたかったの。誰かに話を聞いてもらいたかったの」
「……いつでも聞くよ。まあ、僕なんかが力になれるか分からないけど」
顔を上げた彼女に、もう涙は無かった。
それが嬉しくて笑えば、宮崎さんも応えるように微笑んでくれた。
少しして、飲み物を買いに行っていた七海が三人分の飲み物を手に僕らの元へと戻って来た。
それをありがたく受け取り喉を潤すと、僕たちは汗を流すためにジムの隣にある銭湯へと向かうことにした。
「悪いな、私だけ委員長の裸を拝ませてもらって」
「だから、隙あらば僕を変態に仕立て上げようとするな」
「それじゃあ湯上りの写真とかはいらねえか?」
「………」
黙り込んだ僕を見て、七海が下品な笑みを浮かべ、宮崎さんは顔を赤く染める。
「て、照れてないよ!」
「いや、僕は何も言って」
「それじゃあ進藤君!また後で!」
話を聞いてもらえないまま、女湯の暖簾をくぐる宮崎さんを見送る。
彼女の中で今の僕はどういう人間になっているんだろう。
不安になるが、生憎それを聞きだす勇気は持ち合わせていない。
「心配すんな。あの隠れ巨乳を前にして下心を抱かない男はいねえよ」
七海が慰めるように僕の肩に手を置く。
お前が元凶なんだよとツッコミを入れたいところだが、しかし今はそれよりも聞きたいことがあった。
「あのさ、どうして君は宮崎さんが追いつめられていたことに気が付いたんだ?」
僕の問いに、七海の顔から笑みが消えた。
しかし、僕はそれに気が付かないフリをして言葉を続ける。
「いつからかは分からないけどさ、気が付いていたから、宮崎さんにだけはなりたくないって言ったんだろ?」
僕の予想は当たりだったらしい。
小さく舌打ちすると、七海は微かに目を細めて、
「距離を置いているからこそ、分かることもあるんだよ」
面倒くさそうな顔をして、それでも七海は僕に聞かせてくれた。
「いつか教室でアイツの顔を見たときに思ったんだよ。アイツは、必死に心を押し殺して現状を受け入れようとしているって。私が親や医者の言うことを聞いてベッドの上で大人しくしていたのと同じで、皆が安心するためだけに今の役割に甘んじているんだろうってな」
「……」
「アイツが相談を引き受けてくれれば、アイツが仕事を手伝ってくれれば、それだけでクラスの奴らは安心する。だから、それを壊さないようにアイツは全力で皆の期待に応えようとしていたんだろ」
ちょうど聞いていなかったはずの宮崎さんの本心をピタリと言い当てる。
それに驚いて息を飲む僕に、七海は一つ溜息をついて、
「要するに、私と同じ匂いがしたんだよ。全部を我慢して心が腐っている、そんな悪臭が」
話を聞いているうちに、いつか聞いた彼女の願いが脳裏をかすめた。
心が腐ってまで生き続けるくらいなら、一瞬だけでも輝いて死にたい。
そう思っていた彼女だからこそ、誰も気が付かなかった宮崎さんの本心に気が付けた。
だから、そのことをもっと誇っていいはずなのに
「まあ、同じ悪臭でも、皆の役に立っているアイツの方がマシだな」
どうして君は、そんなに寂しそうな顔をするんだよ。
そう言うのは、いつもみたいに笑って言えよ。
自分のことを“腐ってる”なんて言うなよ。
僕は、今この瞬間だけは、七海が自分を卑下するのが悔しかった。
だからなのだろう。
気が付けば、僕はそれを口にしていた。
「匂いなんかしないよ」
不意に呟いた言葉に七海が振り向く。
僕は視線を合わさず、暖簾を見つめたまま言葉を重ねる。
「腐った匂いなんてしないよ。もしも匂って来るとしたら、せいぜい汗の匂いだけだろ」
言い終えると、僕たちの間に沈黙が舞い降りる。
時間にして僅か数秒の短い沈黙の後、七海が小さく息を吹き出した。
「……確かに、お前の言う通りだな」
「だろ。それに、匂いが気になったとしても、どうせ今から洗い流すんだから関係ないよ」
そう言って顔を向ければ、七海は振り向いた僕から顔を逸らして宮崎さんの後を追った。
上手く気持ちを伝えられたのかは分からない。
だけど、暖簾をくぐる直前に見えた彼女の横顔は、笑っているようにも見えた。
結局、どうあっても宮崎さんは皆から頼られる生徒だった。
学級委員として、サッカー部マネージャーとして、とにかく皆は困ったことがあれば彼女に期待し話を持ち掛ける。
それが苦しくて彼女は思いつめていたのだが、あの日以降、彼女は少しだけ、本当に無理な時だけは頼みを断れる人間になっていた。
「申し訳ないとは思うんだけどね。でも、出来ないことを引き受けてみんなに迷惑をかけちゃう方が嫌だから」
どこまでも相手を思いやっている選択だと思う。
だけど、その話をする宮崎さんの表情に迷いや憂いの色は無かった。
「あ、ホッチキスの位置は右上でお願い」
放課後の教室の中、宮崎さんは机の上に広げられたプリントを束にして、それを次々と机を挟んで向かい合っている僕に手渡す。
そうして受け取ったプリントを、僕は彼女の言う通りホッチキスで一つずつまとめていく。
ずっと下を向いているせいか、肩と首が痛くなってきた。
「これは、一人でやるには大変だね……」
「そうなの!お家に帰る頃には肩こりが酷くてさ!指先もカサカサになるし、部活にも遅れるし、これを頼まれた日は一日憂鬱なの!」
「だろうね。本当、宮崎さんは頑張ってたんだね」
素直な感想を口にすると、宮崎さんは突然作業の手を止めて僕を見つめ固まってしまった。
それを見た途端、偉そうなことを口にしてしまったと不安になり、慌てて謝罪の言葉を述べようとした。
しかし、それより早く彼女の表情が緩んで、
「うん、いっぱい頑張ってたの」
頼りになる委員長ではなく、どこにでもいる普通の女の子の笑顔で彼女は言った。
ハッキリ言って、可愛すぎる笑顔だった。
反則級の笑顔に、僕は情けないことに言葉を失ってしまう。
「進藤君だけだよ。頑張ってるなんて言ってくれるの」
「そうなの?」
「だって、雑用は私がやるのが当然みたいな空気があったから。頑張ってお仕事を終わらせても、それが当たり前だったから」
それは僕も反省するべき点だ。
いくら彼女が仕事の出来る人だからって、一人で出来ることには限界がある。
それを見誤り、僕たちはずっと一人の女の子にすべてを任せて来た。
「本当、今までありがとうございました」
頭を下げる。
すると、宮崎さんは何かを言いかけて、かと思えば今まで見たことのない悪戯な笑みを浮かべて
「お礼なんていらないよ。だって、私はもう一人じゃないからね」
告げられた言葉と瞳の先には、間の抜けた僕の顔がある。
「話くらい、いつでも聞いてくれるんでしょ」
穏やかで、少しだけ照れくさそうな声に、僕は口元を緩めながらうなずいた。
——死にに行こうぜ
物騒な言葉に誘われ学校を抜け出したあの日、全てを一人で抱え込み苦しんでいた少女は死んだ。
しかし、だからと言って彼女自身に大きな変化があったわけではない。
宮崎由衣は、今でも皆から頼られ、多忙な日々を過ごしている。
だけど、以前とは違い、彼女には愚痴を吐き出せる相手が出来た。
話を聞くついでに仕事を手伝わされるのは大変だけど、それでも、この笑顔が見れるのなら、このくらいの苦労は喜んで引き受けようと思った。
「二人にはお礼をしないとね」
「お礼?」
「そうだ。今度は私がご飯奢るよ。この前、商店街の中で美味しそうなラーメン屋さんを見つけたの」
「商店街の……ラーメン屋?」
まあ、なんと言いますか、やはり嫌な予感というものは、やはり当たってしまうらしい。
後日、お礼として僕と七海は宮崎さんにとあるラーメン屋に案内された。
見覚えのあるそのラーメン屋では、宮崎さん一押しの真っ赤なラーメンが出てきて。
僕はまた味覚を焼き切られ涙を流しながら死ぬことになるのだけど、それはまあ、また別のお話ということで。




