二人は風になりました
「私、風になるんだな」
呟く少女の顔は、まるで悟りを開いたかのように穏やかだった。
心地よい風に彼女の金糸の髪がなびき、目を閉じれば辺りを包む木々から虫や鳥たちの声が聞こえる。
まさに僕たちは今、この星の命を一身に感じている。
「こんな場所で余生を過ごせたら最高じゃないか?」
同感だ。
老後は田舎暮らしが良いなんて言う人が多いが、なるほど確かに、これほどの心地よさを知れば、利便性を捨て去ってでも田舎暮らしを望む声が多いのも納得できる。
まあ、それはさておきだ。
「じゃあ、言いたいことも言ったようだから」
「さっさと死ね」
「……え?」
僕の言葉に彼女が振り向く。
それと同時に、彼女の足元からガコッ!と何かが外れる音がして、次の瞬間に彼女は僕の前から姿を消していた。
彼女のいた場所を覗き込むと、そこからは弾力性抜群のロープで体を固定され、地上五十メートルの高さからバンジージャンプを決めた勇敢な少女の姿が見えた。
“大自然で大絶叫!地上五十メートルのダムからバンジージャンプ!”
看板の文字を一瞥して、僕は振り子の様に動く彼女の姿を見守る。
約三分の空中遊泳を終えると、ようやく彼女は地上、というか僕のいる足場まで帰還を果たした。
「押すときは言えって頼んだよな!合図くれるって言ったよな!」
「だから合図したじゃないか」
「あれは合図じゃなくてただの暴言だろ!」
必死に訴えかけてくるが、不思議なことに僕の胸には罪悪感なんてものはこれっぽっちも生まれない。
むしろ……。
「おい、何でそんなに満足そうな面してんだ」
おっと、これはウッカリ。
ついつい、感情が表に出てしまっていたらしい。
そんな僕を見て、彼女は呆れたように大きなため息をつき、それから何故かニヤリと口元を吊り上げた。
「それじゃあ、次はお前の番だな」
「は?」
「当然だろ。人を奈落に突き落としておいて、自分だけ無傷で済むと思ってたんじゃねえよな?」
笑顔でそんなことを言い、彼女はそばで待機していた係員さんに頼み、僕にも先ほどまで彼女が着けていた固定具とロープを装備させた。
そして、先ほど彼女が立っていた足場へと僕を連行し、
「安心しろよ。私はお前みたいに意地の悪いことはしねえから。……というわけで、とっとと死ねえぇ!」
叫びと共に、僕の立っていた足場は消え去った。
瞬間、風景は無数の線になり、全身にはまともに息が出来ないほどの風が叩きつけられる。
口からは言葉にならない悲鳴が零れ、涙腺が壊れたかのように涙があふれた。
死。
その一文字が脳内を埋め尽くし、ようやく恐怖の三分間を終え地上に戻って来た時には膝も腰も震えすぎて使い物にならなくなっていた。
「うわぁ、泣いてやんの」
「し、仕方ないだろ。バンジーなんてやったことないんだから」
「感想は?」
「最悪、もう二度とやりたくない」
素直な感想を口にすれば、彼女は満足そうに口を開けて大笑いした。
それから僕たちは係員さんに礼を言って、この場所に来るために利用した駅に向かい電車に乗り込んだ。
「女子みたいな悲鳴だったな」
「電車の中では静かにしなさい」
「別に良いだろ、私たちの他に誰もいねえんだから。……まあでも、面白かったけど、あれじゃあダメだな」
笑顔のまま、彼女はポケットから小さな手帳を取り出し、中に書かれていた一文に横線を引いて、
「やっぱり、人間はそうそう簡単には死ねない様になってるんだな~」
そんな物騒なことを、ずいぶんのんびりとした口調で言った。
思わず顔をしかめれば、そんな僕の顔を見て彼女はまた楽しそうに声をあげて笑った。
そうしているうちに、電車は緩やかに黄昏の空の下を走り、僕たちの降りる駅へと辿り着いた。
「なあ、腹減ってねえか?飯でも食べて帰ろうぜ」
「嫌だ。今日は疲れたから、帰って寝る」
強めの語気で言ってやれば、彼女は「つまんねえの~」と笑顔のまま電車を降り、僕もその後を追いかけた。
そして、見慣れた道を歩きながら彼女の他愛のない話に適当に相槌を打っていると、いつの間にか僕たちはいつも別れる交差点の前までやって来ていた。
「それじゃあ、僕はこれで」
「淡白な奴だな、せっかく女子と出かけたんだから、もう少し名残惜しそうにしろよ~」
そうしたいのは山々だが、残念なことにその“名残惜しさ”とやらが体のどこを探しても見つからない。
なので、誠に遺憾ではあるが、このまま愛想笑いの一つもせずに帰ろうと考えていたその時だった。
「あのさ、余命宣告を受けている女の子に、死ねなんて言ったらダメだろ」
言われて、ふと肩から力が抜けた。
「今さら?」
「私、もうすぐ死ぬんだぞ?」
「うん、そう言ってたね」
「それなのに、死ねなんて酷い言葉を使うのはあんまりじゃないか?」
「口が滑ったんだよ。死ねじゃなくて“いけ”って言おうとしたんだ」
「その“いけ”は“行け”だったか?それとも“逝け”だったか?」
鋭い指摘に、僕は逃げる様に、と言うかその場から逃げ出すために彼女に背を向け歩き出した。
家に帰ると、僕は母が作ってくれていた食事も取らず、自室のベッドに横になった。
「……疲れた」
電車の長旅もだが、何より地上五十メートルから落とされる体験は想像以上に精神をすり減らされた。
風呂も明日で良いや、とりあえず今日は寝よう。
そう思って目を閉じたその時、ポケットに入れっぱなしだったスマホがメッセージの着信を告げた。
見てみると、画面には予想した通り“七海 伊織”と言う名前が表示されていた。
面倒だと思いながら確認してみると、送られてきたメッセージにはたった一言、<またよろしくな>とだけ書かれていた。
どうしたものかと考え、<考えておく>と返事をしておいた。
ベッドの上で目を閉じると、先ほどの光景が脳裏に浮かんだ。
一瞬で離れていく青空と彼女の姿。
下を流れる川が急激に迫ってくる恐怖。
良い思い出なんて何一つない。
その証拠に、今でも心臓はやかましいほど脈打ってるし、自然と額に嫌な汗が流れて来る。
しかし、
「……久しぶりだな」
本当に、こんな思いをしたのは久しぶりだった。
いつの間にか、すっかり忘れてしまっていた感覚だった。
喧しい心臓の鼓動は、ちゃんと僕が生きていることを教えてくれた。
――今から一緒に、死にに行こうぜ
目を閉じた暗闇の中で、彼女の声が聞こえた気がした。
数日前に聞いた声だというのに、何だかそれがとても懐かしい気がした。
何度思い返しても、物騒すぎる誘い文句だと思う。
しかし、そんな物騒すぎる誘いをハッキリと断れないのは、彼女のあんな姿を見てしまったからだろう。
あの日の放課後、学校の屋上で七海伊織は声を押し殺して泣いていた。