第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑧――
包み込まれる安心感に身を任せていたヘルガだったが、天幕の外が何やら賑わい出していた。
喧騒の気配を敏感に察して、名残惜しい母の胸からヘルガは身体を放すと、同じく気がついていたグズリも腰を上げた。
「――なんだか騒々しいね」
人々の大声と、馬の嘶きが、無数の蹄の音が、行ったり来たりしている。
二人が天幕の入口から外を覗くと、彼女らのすぐ目の前を、火のついた尾をなびかせた馬が疾走していった。
二人は思わず互いの肩を抱き合い唖然とした。
取り乱した鼻息と共に駆け去った馬は、一頭だけではなかった――荒れ馬の大群が雪煙を巻き上げていたのだ。そのうちの何頭かは尻尾やたてがみが焦げて、ちぢれてしまっている。
激しい嘶きと地響きが去るのをしばし待ってから、グズリは天幕を飛び出した。ヘルガも後に続いた。どこからか煙の臭いが漂ってきた。
「ちょっと! 何があったんだい?」
水がなみなみ張った木桶を持つ男を捕まえて、グズリは尖った声を発した。相手は彼女の倍、焦りの混じった剣幕で返してきた。
「火事だよ、火事! グズリ、これはみんな、あんたんとこの牧の馬だ!」
「なんだって」
「逃げた馬はあとまわしだ! 火の回りが早い――他に燃え移らないようにしないと――人手がいるんだ!」
足を止めてる場合ではないと去っていく男を、二人は追った。
グズリが「ケヴァン」と、吐息と共にもらしたのをヘルガは耳にした――今日の牧は、ケヴァンとルクーが管理していたはずである。
煙の上がるところが近づくにつれ、被害が明らかになっていった。
馬を囲うための柵を赤々とした炎がなめ、早くも端から黒ずんでいた。更には馬小屋の屋根がごおごおと音をたてて、業火が黒煙と共に噴き上がっている。
混乱する馬をなだめようとする人がいれば、消火のために水を撒く人もいた。
身体の半分が無惨にも焼け焦げて、悲痛を訴える子馬は、見るに堪えなかった。
「嘘でしょう――ケヴァン!」
突然グズリが金切り声を上げた。
彼女がしゃにむに駆け寄った先、灰色の煙を吐きだす小屋の中から、二、三人の男たちが、ほとんど引きずるようにしながらケヴァンを運び出していた。
「ああ、ケヴァン! ケヴァン! しっかりして! 目を開けて! わたしのお日さま――」
ぴくりともせず横たわるケヴァンに、グズリが寄りすがる。彼を助け出した男たちは皆、痛みを堪える表情を浮かべていた。
身体のあちこちが煤けて汚れたケヴァンに、それ以上、誰も、何もしようとはしなかった――ケヴァンは既にこときれていた。
身知った人の突然の死に、グズリの嗚咽に、ヘルガは血の気が引いた。だがグズリと共にケヴァンにすがって、嘆く訳にはいかなかった。
男たちが小屋から運んできたのはケヴァンだけだ。ケヴァンと一緒にいるはずの、ルクーがいない。この場のどこにも見当たらない。
ヘルガは咄嗟に、火消しのために並べられた木桶のひとつをとって、頭から水をかぶった。視界の邪魔になる、額当ての揺れる飾りも引きちぎった。たった今男たちがともだってきた小屋の入口は水が撒かれている。
でも中で煙にまかれていたら、ルクーにはもう、どこへ逃げれば良いのかわからない――
「おい――嬢ちゃん何してる!」
「中にまだいるの!」
「待て! まだ火が――」
引き止める声を振り切って、ヘルガは立ちこめる煙の中へ突っ込んだ。
「ルクー!」
叫んだと同時に思いきり煙を吸い込んでしまい、激しく咳こむことになった。熱気で目もやられ、無謀だった己の行動を早くも呪った。
濡れた袖口で口元をおさえ、姿勢を低くする。咳が落ち着き涙が引いてからよくよく見てみれば、中は柱のあちこちがちょろちょろと燻り出していた。火の手が回りきってはおらず、外では消火のために人が集まっている。これ以上燃え広がる前にきっと収まるだろう。そのはずだ。
でも煙と熱気でルクーが死ぬのと、どちらが先だろう? あるいはヘルガが、蒸し焼きになるかもしれない。
「ルクー! どこなの!」
ヘルガは声を張り上げた。
しばらくその場に留まり、もしかしたらいないのかもしれないと思いかけた時、燻られてはじける木の音に紛れてルクーの叫び声がした。
「……て、放して!」
その方向をヘルガは聞き逃さなかった。
行けば行くほど強くなる煙に怯んだが、低い姿勢のまま慎重に、小走りに、ルクーの声を頼りにして更に進んだ。
「いやだ、やめて」
煙の中でやっと見つけたルクーは、地べたでもがいていた。干し草と泥で、彼の顔や袖は汚れている。暗い色の外套を纏った何者かが、そんなルクーを組みしいていた。
膝で背中を踏みつけ、逃れようと抵抗して伸ばした彼の手首を無情にひねり上げ、指先へ、既に血濡れている短剣をあてがった。
「手は――指はやめて! とるなら、目のほうにして!」
ルクーの悲痛に満ちた懇願を聞きつけて、ヘルガはかっとなった。
――なんてことを。
こいつ、ルクーに、なんてことを言わせる!
「放せ!」
胸元の小刀を引き抜いて相手に躍りかかったヘルガだったが、短剣で受けとめはじき返されてしまった。相手の帽子が刃で引き裂け、衝撃でヘルガはよろめき後ずさった。
そして信じられないものを見た。
裂けた帽子から溢れ出た、ひと房焦げたくしゃくしゃの金髪。わし鼻に浮かぶそばかす。目尻の下がった暗い紫紺の瞳――
「――ボズゥ?」




