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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸


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第八章――炎(ほむら)の子【後編】⑤――

 カザドは火の灯った樹皮を、組んだ枝の中に落とした。そこらに点在する白樺から拝借したものだった。

 火を大きくするために、細く息を吹きこもうとした途端、咳がこみ上げる。この咳は一度発すると、呼び水のようにしばらく続くのが厄介だった。

 痰の絡む咳をしばし繰り返す。合間、合間に、息を吸っても足りない。顔面が赤くなり、生理的な涙が目尻に滲む頃には、口元を覆っていたカザドの手のひらが赤く濡れていた。燃えさしも消えてしまっている。

 カザドはぜっぜっと喉を震わせたのち、ため息をついた。そうする間にも咳が出た。カザドの袖口が、真新しい血の色で上書きされていく。

 観念して懐から小袋を取り出す。中をまさぐり、取り出した黒い丸薬をいくつか口に放り込む。噛み砕きつつ飲みこみ、その場に腰を下ろした。血で汚れた手のひらを、無造作に雪面へこすりつける。

 首を持ち上げると、薄雲越しに青い色が見えた。山頂を覆い隠す雲の揺らぎを無心に眺めているうち、いつしか胸の痛みは和らいでいた。

 小袋を開いて中身を確かめる。(いち)で手に入れたこの丸薬は、帝国製の強力な痛み止めだった。使えばありとあらゆる痛みを即座に和らげ、いっとき病や怪我を忘れさせてくれるのだ。

 しかし市という特殊な交流場だとしても、一般に出回ることなどあり得ないはずの薬だった。単純に値が張るのだ。民衆ではまず手が出せない。

 そして一部の地の民(アマリ)は、治療ではなく享楽にふけるために、これを用いるのだ。彼の主人だった地の民(アマリ)の貴族も、お遊びの際に常用していた。

 強い酒のように意識を酩酊させ高揚させ万能感を与えてくれる。……楽しくさせる。

 その一方で効果が切れた時の反動は大きかった。鎮静を越えた気力のなさと、指一本動かすのすらも努力がいるような倦怠感に襲われる。訳もわからない不安にとりつかれる者もいたし、幻覚を見る者もいた。

 大概は辛抱ならずに再び手をつけ、緩急差のありすぎる快楽と苦痛の虜となって――やがては、生きたまま壊れる。そんな代物だった。

 このような物なので、発見した時には我が目を疑った。

 最後に寄った市ではカザドが購入した分のみであり、屋台の主人もどこかでこれだけ手に入れたのだと言っていた。どんな結果をもたらすものかまでは知らない様子で。帝国内で、貴族間で、何が起こったのか。

 カザドは嗤った。帝国がなんだ。どうなろうと、もう自分には関係ない。今さらだ。今さら……


(ともかく、火だ)


 何はともあれ、今は火を熾さなくては。

 億劫で仕方ないが、腰を上げて火打ち石を取り出すとふっと、視界が陰った。そしてぼさりと、白銀の狐が放り出される。


「――またお前か」


 手の届く距離に雌狼のスコルが座っていた。一瞥したのち、無視して火打ち石を打ち出す。

 するとスコルは放った狐を、鼻先でぐいと押しやってきた。

 どういう訳だかヨトゥンヘイムを追放されてからこちら、カザドはずっと、この狼につきまとわれていた。

 はじめは日が暮れ夜になった頃にやってきて、カザドの側で暖をとり、翌朝にはいずこかへと去っていくという具合だった。だが逃してしまった狩りの獲物を横取りされて以来、日中にも現れるようになった。

 そうしていつからか、スコルは狩りの獲物をカザドに貢ぐようになっていた。吐血の回数と量が増えてから、その貢ぎ物も増えたような気がする。 

 これがつきまとい以外のなんであろうか。


「獲物を持ってくるのはやめろ。全部お前のだ」


 カザドは未だ狐を押しつけてくるスコルの頭に手を乗せた。耳を伏せて自ら撫でられにくる姿に、弱りきってしまう。老齢の狼とは聞いていたが、半開きの赤い口腔からは獰猛な牙がぞろりと覗いていた。

 再び火打ち石に手をかけ――とさりと、滑り落としてしまった。拾おうとして、やめた。指先が震えていた。その場に腰を降ろし、雲海の向こうで点滅する星のような光をぼんやり眺める。


(ここを目指して良かったんだろう)


 十五になるまでと明確に定めたのは、吐いた痰に混じる血が鮮やかな色に変わった頃だった。

 喉が裂けた量の鮮血とは言い難くなった頃、ふいに胸がつまるような感覚に襲われることも増えた。命の残量を自覚して、なんなら安堵した。

 これ以上はもう、いいのだと。カザドはずっと、この日を待ちわびていたと言っても良かった。

 守るという崇高な誓いなど、踏みしだかれた霜のようにたやすく儚くなった。

 昼には虚ろで、まともに何もできない子供。夜には泣き叫んで、混乱の中ですべてを拒絶する子供――

 食べ物はほとんど無駄にされ、眠りは妨げられる日々に、情が育つ(いとま)などあったものではない。

 なけなしの優しさは少しずつ摩耗し、積もり積もった削りかすが、行き場のない鬱憤に成り変わるまでは早かった。

 爆発するままに怒鳴り声を浴びせて叩き飛ばしたことも、一度や二度ではきかない。

 なんのために手を尽くして生かさなければならないのか。どうせあの時死んでいたのだから、今そうしようと同じことではないかと、何度考えたかしれない。

 せめてこの夜が過ぎたら。朝が来たらやめてしまおう。もう一日、あと少しだけ。あと一年くらいならと、やけくそのような思いで齧りついて。いつのまにか離れがたくなっていただけだった。

 子供たちのためなどとは建前に過ぎない。ただ殺せなかっただけ。捨てられなかっただけ。それだけだった。

 それも随分長く、自分のわがままと贖いようのない罪に、つきあわせてしまった。


(……カザディアだとよ)


 くつくつと、喉の奥が鳴った。もういい。持っていくものは、これだけで充分だ。 スコルが鼻を寄せてきた。側にいるのが狼だけというのも、らしい最期だった。


「……俺がくたばったらな、死体はお前にくれてやるよ。……うまくはないだろうから、それでも良けりゃだけどな」


 いっそ丸薬の残量が尽きる前に、一気に煽ってしまおうか。いや、そのように薬臭くては、スコルが困るか。などと考えついて苦笑いがこみ上げる。

 こちらの言ってることなどさっぱり伝わっていない様子で、スコルがまた狐を押しつけてきた。


「わかった、わかった」


 しつこさに負けて、受け取る真似だけすることにした。だが狐に触れる直前で、伸ばした手が止まる。狐のわき腹には一本の矢が刺さっていた。

 まさか。

 ふいにスコルが喉をそらして、おぉーん……と遠吠えを発した。長めに一度。波紋のように昼の虚空へ響き渡った。

 そうしてせり出した岩場に駆けのぼったスコルを、向こうからやってきた人物が、鼻先を寄せて身体を撫でてやっていた。

 ……未練も高じれば、都合の良いまぼろしを招くものらしい。あるいは薬を乱用した弊害か。

 相手はこちらに気づくと、背筋を伸ばした。青い髪が風にさらわれ、隙間から覗く鋭い視線が青く閃く。駆け寄りもせず、表情も変えず、こちらを見下ろしたままじっと無言でいた。

 幻覚と知りつつその強情さに呆れはて、更にはそれを通り越して怒りが湧いた。

 何をしてる。何をしに来た。帰れ。消え失せろ。お前のせいで、こちらはいらぬ苦労ばかりだったのだ。やっと肩の荷が下りて清々しているのに。

 今度こそ手放さなければならない。カザドに追ってくるような価値は無い。慕われて喜ぶような資格は無い。お前が共にいたのは神でも聖人でもないと、知らしめなくてはならない。しがみつく手を斬りつけてでも、振り払わなければいけない――

 様々な疑問が、罵倒が、葛藤が、渦巻いたままで。

 結局カザドも無言だった。

 ふいにフェンリルが左手に携えていた物を、無造作に放り投げた。


「返す」


 片羽をもがれた鳥の無様さで滑空したそれは、狙いすましたようにカザドの目の前に落下した。穿った後があちこちにある、歪な長剣だった。

 かつての主人が自慢げに見せてきたその宝剣は、カザドが歩んできた人生そのものだった。ごてごてと目障りな宝石は剥がして売り払い、とりあえず使えるように研いだ。いまや落としきれない錆の浮いたなまくらだ。

 養い子と共に捨てたつもりで手放したそれが、なんの冗談か舞い戻ってきた。


「おれにはもう必要ない。……ブラギたちから、あんたのことを聞いたよ。奴隷だったこと。やってきたこと。知ってる限り、全部」


 カザドの心臓の鼓動がどっと大きくなり、瞳孔が収縮と拡大を交互に繰り返す。額に脂汗が浮かび、指先の震えが強くなった。

 目を閉じても、耳を塞いだとしても、このまぼろしから逃れることなどできはしないだろう。カザドの身の内から生じている、偽りようのないカザド自身なのだから。 罵倒か軽蔑か。それとも拒絶か。

 次にフェンリルがしたのは、予測したどれでも無かった。彼は自らの腰から短剣をとり、鞘から引き抜いた。

 ちょうどその時、背後から茶黒の狼犬が喜び勇みながら現れて、母狼にじゃれついた。更にもう一人、銀髪の少年が這いあがってくる。


「――じいさん!」


 トルヴァがカザドに気づいて、晴ればれとした表情で手を振った。こちらに駆け寄ってこようとするのを、フェンリルが制す。

 戸惑うトルヴァの隣で、フェンリルは切っ先をカザドに向けた。


「同族殺しの罪人。狂嵐の獣(ベルセルク)。おれは、ヴァナヘイムの長ディアスとその妻リンネアの三子、カザディア=フェンリル。――お前に決闘を申し込む」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 その隣で呆気にとられて彼を見つめるトルヴァを、フェンリルは顎で示して続けた。


「立ち合いはこの銀梟(ぎんふくろう)の氏族。レイフとその妻ヴァルマの子。レイフィア=トルヴァが務める」

「えっ――はいっ?」


 トルヴァが、間の抜けた声を上げた。

 その声。幻覚にしてはどこか生々しい、その間の抜けたやりとり――本当にこれは、カザドのおつむが作りだした、都合の良いまぼろしなのか?

 ……では、まぼろしでなければなんだ。何をしようとしている。


「お前の罪の采配は星空の彼方におわす……いと高き天上の(あるじ)が決めるだろう。剣をとれ――さだめを委ね、受け入れろ」


 疑問に答えるように、相手は淡々と断罪を告げて身構えた。

 そして刃が閃き、一陣の風が吹き抜けた。


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