第八章――炎(ほむら)の子【後編】③――
試行錯誤の、いや、悪戦苦闘の日々が続いた。このような失態は久しぶりだった。
そんな中で、新たな発見もあった。
現在の位置を知るため、星を見れればと言ったトルヴァに、フェンリルが星よりも世界の支柱の破片から昇る、光の束のほうがよくわかると言った時だった。
「光って?」
「あの光だよ。ほら、世界の支柱の破片から空に伸びている」
「破片が光るのは知ってるけど」
放射状に広がる光の先は、フェンリルたちのもとに届く前に虚空に融けていた。だが光源は薄暗がりの中でもあれほど青白く、それこそ柱のようにふちどられている。夜が深くなればより煌めくというのに、なんのことかトルヴァにはわからないようだった。
「……覡巫には見えていたけどな」
光が刺すようだと言って上空をあおいでいた、枯れ木の如き姿を思い出す。トルヴァは寒さから両腕をからめて唸った。
「でも覡巫はかなりのとしで、目は見えてないはずだろ?」
「ルクーに聞いたことがあるけど、見えなくても光の明るさはわかるらしい。たとえば焚火を何かが遮ったら、ふいに消えたのか、生き物か何かが横切ったかの違いくらいはわかるんだってさ」
「へえ。じゃあ、ルクーにも見えてたのかもな。……お前はなんで?」
「さあ……」
あの光は、どうやら誰しもに見えるものではないらしい。どんな理屈かはわからないが、それならそれで、納得のいくところもあった。
まばゆい光を空に放つ、神代時代の遺物ともなれば良い目印だ。場所の特定は容易であり、そこを目指す者にとってはありがたいだろう。だが同時に、そんな場所に拠点を設けるのは悪目立ちとも言えた。
安定と豊かさの頭角が現れ始めた天の民の集落を、地帝や帝国はどう思うだろうか。それがどんなものであれ、面白くないのではないか。
ヴァナヘイムという前例が、既にある――大川に山壁という天然の要塞の元で手が出しにくいとしても、けして脅威がなくなった訳ではない。
だがあの光を目にする者が二つに分かれるのなら。
そして見える者が少数であり、ヨトゥンヘイムが秘匿されているのなら、場所の特定は難しいかもしれない。
(――今のところは、まだ)
もう戻らないと決めたのに、自ら手放した居場所の今後が気になるなんて、我ながら調子が良すぎるとフェンリルは思った。
二人が夜の支度をしていると、ハティがおぉーん……と一声長く吠えた。いただきに挑み始めてからこちら、ハティは決まって同じ時に遠吠えをしていた。
ヨトゥンヘイムが近かった頃は、猟犬の群れが応えてくれていた。やがてその声は遠くなり、もうフェンリルやトルヴァの耳では、聞き分けられなくなっている。
かわりに山には狼の群れが存在していた。恐ろしく間近で複数の遠吠えが響いた夜もある。ただし、ハティを品定めしているからなのか、人間を警戒しているのか、姿をはっきりと見たことはない。
ハティの声にいつでも応えてくれるわけでもなかったが、この日の夜は返事があった。
「近い」
フェンリルが橇の寝床から身を乗り出すと、再び、ひとつの遠吠えが返ってきた。ハティが喉をのけぞらせて、おぉーん……と応える。
「お前の友達か?」
ハティは黒々とした目でどこかを見つめていた。日が落ち暗い藍色に沈んだ景色の中、積もった雪とところどころ剥き出しの岩とが重なり、模様のようだ。
眠りについたまま身じろがない、大きくて無慈悲な生き物の背にいるような心地がする。
今回も何も見いだせないだろうと、諦めて身体を戻そうとした時だった。ハティがさっと腰を上げて四肢をつっぱり、尻尾を高く持ち上げた。
「どうした?」
ぐるぐるとその場で回転し、見つめていた先に向かって吠えるハティの様子は、フェンリルを遊びに誘ってくる時と良く似ていた。
まさか本当に、お仲間でもやってきたのだろうか?
フェンリルが目を凝らすと、真正面の岩場で、切りとられたようなひとつの影がかすかに揺らいだ。ピンと立つ三角の耳と体格が、狼の輪郭をかたどっていた。
「――スコル?」
その名が口からこぼれ出た途端、狼はさっと、きびすを返して岩陰に身を躍らせた。眼光が虚空に光の筋を作った。
「待て――スコル!」
一度そうだと思ったら、もうそのようにしか見えなかった。咄嗟にフェンリルと、彼につられたハティが飛び出した。
ひとりと一匹で岩場まで辿りついた時には、もう、その姿はどこにも見出せなかった。
そのかわり、別の物を見つけた。
「おい、どうしたよ」
突然飛び出したフェンリルたちに、トルヴァが追いついた。
「スコルだ――スコルがいた」
しゃがみこみトルヴァに背を向けたままで、フェンリルは呟いた。
「確かか?」
「それから、これ」
フェンリルが差し出した物は、トルヴァがつまんだ瞬間にぼろぼろと崩れ落ちた。
それがなんだったかを察する前に、フェンリルが更にその場を掘った。そして雪に埋もれていた、炭化して黒ずむ木々と、小動物の骨を発見した。
トルヴァはどきりとした。野営の跡だ。
雪深い険しいいただきで、火を使う何者かがここにいた――彼ら以外に。
「じいさんは、ここにいた。ここを通った――今すぐに、追わないと」
「――いや、駄目だ。待て!」
ゆらりと立ち上がり、今にも駆け去ってしまいそうなフェンリルの肩を、トルヴァが掴んだ。
「動くなら明るくなってからだ。もう夜が来る」
フェンリルはふり返るなり、トルヴァを睨みつけた。カザドを追ってからこちら、野営の跡ひとつ発見できていなかったのだ。道中、ひとすじの煙すらも見ていなかった。
彼らの予想を越えてカザドの歩みがずっと早かったのか。あるいはとうの昔に雪の下で凍りつき、知らぬ間にその上を通り過ぎてしまっていたのか――
口にこそしなかったが、何の足取りも掴めていないことが、じりじりとフェンリルの胸を燻り焦がしていた。
「足元が見えなくなってから動けば、危なくなるのはオレたちのほうだ」
「それなら――松明を持てばいい。ハティだっている」
「マジで言ってる? それ」
トルヴァは掘り出された骨を齧ったり、その場で腹を見せて転げまわるハティを半眼で見やった。
「あいつ、ずっと獣道ばかり行ってるだろ。オレたちでさえばてたのに、じいさんのとしを考えるときついぜ。病のことだってあるんだ。――本当にハティがじいさんのところまで案内してくれてるとは、限らないんじゃないか」
それはなるべく考えないようにしていたことだった。ハティの案内はどうあっても、伴う人への気遣いに欠けていた――つまりは、到底人間が使うような道ではなかったのだ。
「良い案内役」とは、もはや疑わしい称号だった。
「だったら、なおさら早く見つけないといけない。手遅れになる」
目線を落として、フェンリルは呻いた。
譲るつもりはまったくなかったが、トルヴァはいくらか口調を和らげた。
「それはオレたちだって同じだろ。こんな所で、ましてや暗闇で、足でも滑らせたらそれこそお終いだ――じいさんの教えを思い出せよ」
頭に血が昇った時ほど慎重になれ。冷静になれ。
カザドの教えはこびりついているはずだが、いざその時が来たら、ほとんど堪え切れないのがフェンリルだった。フェンリルの分、今はトルヴァの方が冷静だったと言えた。
今は彼らしかいないのだ。どちらかが無謀に振る舞えば、そのまま両方の危険に繋がる。
フェンリルは固く握りしめていた拳を緩めて、長く息を吐きだした。
「……明るくなったら、それからまた、探すことにする」
「おうよ。今は食って寝ようぜ」
事なきを得て、トルヴァはこっそりため息を吐いた。
「実際さ、そろそろオレたちの心配もしないといけないぞ。何か狩らないと、ハティを食う羽目になる」
エイナルが積んでくれていた食料には、まだ余分があった。だがトルヴァの言うことは一理ある。現地での調達を、視野に入れたうえでの量には違いないのだ。
腸詰めはとっくに食べ終えていたし、ハティにわける分も考えると、生きた獲物が必要だった。
「うん――そうだな。そうしないと」
トルヴァは抑揚なく答えるフェンリルの背中を、渇とばかりに叩いた。
「しょげんなよ。じいさんのことだ。そう簡単に、くたばりゃしないって」
「うん――」
励まされながら、フェンリルは別のことに思いを巡らせていた。カザドの痕跡を前にして、愕然としたことがあった。
こんな厳しい所であっても、カザドが倒れるとは思えない。カザドがいなくなるなど、考えられない。信じられない――
しかしカザドがいなくなった後も、彼らの人生は続くのだ。
その時はもう、すぐそこまで差し迫っている。
ブラギにあれだけの啖呵を切ったフェンリルだったのに、その実、未だ現実に向き合おうとしていなかった自分自身に、気づいてしまったのだった。




