第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑭――
「ヨトゥンヘイムの山壁には、いくつか抜け道が存在するのはもう知っているね。君たちを向かえに行く時にも利用したものだ」
道すがらエイナルが語るのを、彼の背後でフェンリルたちが聞いていた。エイナルの先頭を行くのはハティだった。進めば進むほど、木々が細く、まばらになっていく。世界の支柱のもたらす暖かさから、遠ざかりつつあった。
やがて辿りついたのは、ヨトゥンヘイムを外界から遮断する、山壁のふもとだった。
突然立ち止まったハティが、その場で一声吠えた。
「ハティに案内をさせると、いつもここで止まってしまう。おそらくだが、カザド殿はどの抜け道も利用せず、山越えを試みているのかもしれない」
「山越え?」
フェンリルは唖然として目の前の山壁を見上げた。遙かないただきはてっぺんが完全に霞んで、全貌が窺えなかった。
同じく見上げていたトルヴァが、訝しげに言った。
「本当にじいさんは、こんなところを行ったのかな」
「おそらくね。ご覧の通り、険しい山壁だ。だからまだ、それほど遠くには行っていないだろう。山の天候は変わりやすいから、どうしても足止めを食らうはずだ」
カザドの装備については不明だが、罪人として追放されたのならそれほど荷物は持っていないはずだ。ブラギが別れ際に色々と持たせたのなら別だが、どこまで私情をはさんでくれたものか。
――軽装でここを行くのは、自殺行為と言えた。トルヴァが疑問なのはそこだろう。カザドにそれが、わからないはずがないのだ。
(……じいさんは今、得物を持っていない)
トルヴァとエイナルの問答を聞きながら、フェンリルは腰に携えていた、カザドの剣に触れた。
(山越えなんかじゃない。じいさんは、あえて誰も行かないような険しいところを選んだんだ)
フェンリルにはわかる気がした。
カザドはどこへ向かったのでもない。きっと、自分の人生にけじめをつけに行ったのだ。
「ここからはハティを連れていくと良い。落ち着きが無いのが欠点だが、あのスコルの子だ。きっと良い案内役になるだろう」
「なんで、ここまでしてくれるんだ?」
とうとうフェンリルはたずねた。
「あんたはどちらかと言えばブラギの側だろう。でも正直――」
言いよどんだ先を、エイナルが引き継いだ。
「ひっかき回して、面白がっているように見える?」
思い返してみればエイナルは、ここぞという時にはカザドに肩入れするような発言をしていた気がした。
同時に、妙に馴れ馴れしいという印象もあった。
覡巫やカザドのように、何かにつけて天王の導きを口にするでもなく、ケヴァンやグズリのように、お人よしが過ぎるあまり、頼んでもない世話をせっせと焼く人柄という風でもない。
悪人ではないだろう。だがルクーのように、味方だと手放しに信じる気にはなれない。その気になれば今だって、フェンリルたちをブラギの元に引き連れていけそうなのだ。
エイナルという男は全体的に、得体が知れなかった。
「こうやって先回りしていたことも、秘密裏におれたちに協力した訳もわからない。覡巫やブラギに、反発してるとしか思えない。――どうしてじいさんに肩入れする?」
「まあ、それはそうだ」
エイナルは、拍子抜けするほどあっさり肯定した。
「人の先を読むのは割と得意でね。君たちは黙っていないと思った。それと、面白かったことも否定はしない。――ひとつ訂正するなら、私が肩入れしているのは、カザド殿ではなく君のほうということかな」
「おれ?」
「三役の決定よりも養い親の情よりも、君の気持ちのほうを優先するだろうと思った。ヴィーダルならね」
「ヴィーダル? ヴィーダルって……」
トルヴァがフェンリルを見つめる。思わぬ名前が、思わぬ人の口から飛び出したことに、二人とも驚きを隠せないでいた。
天駆ける天王の翼。
いや、エイナルの言うヴィーダルとはきっと、神代の生き物のことではない。
「実は私は、本当ならここにいるはずの人間じゃなかった――父の期待はできの良い長男のほうにあって、末の私には関心が無くてね。だから父とブラギ殿たちの出立には同行していない。私は私で、後に旅立つことになった別の氏族たちに伴うことにしたんだ」
エイナルは細い木立にもたれて軽く腕を組むと、ちらりと微笑んだ。
「――だと言うのに縁が切れなかったらしくて、父たちと合流する羽目になった。私と父たちの出立には、一年近く差があったというのに。結局あれよあれよという間に、ヨトゥンヘイムを築く人材の一人になってしまった。私が伴った氏族たちは、他へ行ってそれきりだ」
エイナルは懐かしむように目元を伏せて続けた。
「私が旅立つ前日に、君が生まれた。ヘイルは青い髪の男の子だと言った。ヴィーダルは彼女に反発して、弟は銀髪だと言う。二人は疲れて眠る奥方の側で、大事にくるまれている赤ん坊の前に私を連れてきて、淡い色の頭髪を判別しろと命じてきた。私はヴィーダルと同じ意見だったよ。ヘイルだけが強情に、青だと信じていた……」
知らない出来事だったが、やり取りの場面を想像するのはたやすかった。ヘイルならば、そう言ったんだったろう。
ヘイルは、フェンリルの青い髪を羨ましがっていた。
フェンリルの頭に顎を乗せ、ことあるごとに毛先を引っ張って弄んでは、そんなことをしたってお前の髪は青くなったりしませんよと、母に嗜められていたものだった。そんな他愛なく、まろい日々があった。
「……やがてヴァナヘイムの訃報を知って……再会を約束したはずの友人は。言い出したらきかないあのじゃじゃ馬は。彼女が青い髪だと言い張っていた、あの赤ん坊は……どうなってしまったんだろうと、何度思ったか知れない」
「……おれを、知ってたのか」
「誰にも言ったことはないけどね」
エイナルは灰色のまなざしを、状況がいまいちのみ込めていない表情のフェンリルに向けた。そして次にトルヴァを見た。
「最初、ヴィーダルの弟は君のほうだと思ったよ。だけど違うね。フェンリル、君がそうだ。君はそんなに彼と似ていないし、一緒にいた時間も短いだろうに、ふとした時の表情が、ヴィーダルと通うものがあるよ。不思議だね。血なのかな。……カザド殿からヴァナヘイムより伴った、青い髪の養い子がいると聞いて……私がどんな期待を抱いて君たちの元に出向いたか、わからないだろうね」
フェンリルは改めてまじまじと、目の前の人物を見つめた。
くすんだ銀髪の、二十半ばの男。ヴィーダルが生きていたなら、きっと同じ年頃だった。
きっと彼のように、妻子を持っていたりしたのかもしれない。
「ようは君たちが無事でいることを、ついつい期待していた人間がいたって話だよ。……君はね、もしかしたらカザド殿に、恩返しをしたいなんて思っているのかもしれない。なのに彼の過去が明らかになって、これまでの行いや考えが、わからなくなっているのかもしれない」
エイナルは眩しそうに目元を細めた。
「これは年長者の、よくあるつまらない戯言として聞き流しなさい。何故彼が罪人であることを隠して、危険を承知で共にいたのか。なのに何故今になって手放したのか。カザド殿は君が――君たちのことがかわいくて、しかたがないんだ」
「なんっ――はあ?」
「私も人の親だからね。まったく同じとは言わないが、なんとなくわかるところもある。君たちを育てた理由なんて、きっとそんなものさ。単純だよ。だからまあ、恩返しだの何だのと難しく考えて、あまり思いつめないことだ」
「――そんなことは、わかってる……つもり、です」
「ふっふふ」
渋面を作るフェンリルを見て、エイナルは愉快そうに笑った。
「そういう顔をすると、特に似てる。さて、ヴィーダルに代わって君を後押ししよう。もう行きなさい。やりたいようにやると良い。――そのかわり、戻ろうと思えば戻れるのだということを、覚えていてほしい」
そうしてエイナルはフェンリルとトルヴァの肩を軽く叩き、元来た道を戻りだした。
フェンリルはふり返った。
何か言うべきなのかもしれない。だが言葉が出てこない。
まごつくフェンリルにもう行こうと促がすべきか、トルヴァが迷いだした頃、ようやっと彼は声を張った。
「――エイナル、ヴィーダルはどんな人だった?」
そして迷った挙句、もうひとことだけつけ加えることにした。
「もう、あんまり覚えていないんだ。としも離れてたし……優しかった気はする」
エイナルはフェンリルたちに向き直ると、細い顎に指を当て、思案気に一度足元を見た。
そして顔を上げた時には、あの企むような笑みを浮かべていた。
「もてたよ」
呆気にとられるフェンリルに、エイナルは腕を上げた。
「天王の息吹のあらんことを」
とことん食えない人物だった。エイナルの姿が見えなくなる頃、トルヴァが肩に腕をまわして言った。
「もてたってさ」
「うん」
「オレはその、もてる兄貴に似てるってこと?」
「うぬぼれるな。――ヴィーダルのほうが良い男だよ」
「覚えてないくせに」
フェンリルは笑った。家族のことを、笑って話せる日が来るとは思っていなかった。
カザドのことも、いつかそうできる日が来るんだろうか? できるならそうしたい。でもそれは、もう少し後だと良い。
フェンリルは口笛を吹いて、ハティを呼び寄せた。
「行こう」




