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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸


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第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑬――

 トルヴァとフェンリルは、美しい駿馬の早駆けをしばし堪能した。ブラギが自慢するだけあって、スキンファクシは素晴らしかった。

 伐採された横倒しの倒木も切り株も、彼女にかかれば何の障害にもならない。周囲の景色が流れるように後方へと遠ざかり、ぐんぐん速さが増していく。風のように駆けるとは、きっとこのことを言うのだ。

 息をすることも忘れてしまいそうなほど冷たい風が、容赦なく頬を打ち、身を切りつけてきたが、二人は気にしなかった。

 歓声が上がる。してやったりという気分だった。

 しかし残念なことに、すべてを忘れるほど夢中になれはせず、目的地に辿りついてからは潔く馬足を弱めた。

 まだ霧は深かったがフェンリルが風で晴らすと、松の木陰で彼らを待つヘルガとルクーを発見した。


「お別れは無事にすんだ?」

「どうにかなったよ」


 フェンリルが、スキンファクシから飛び降りながらルクーに答えた。

 風にあおられて揺れる耳飾りを抑えながら、ヘルガがスキンファクシを訝しげに見上げた。


「この子をまだ連れているって、どういうこと?」

「脅迫せざるを得なかったんだ」


 フェンリルは濁したが、ヘルガはごまかされなかった。目を光らせて声高に追及してくる。


「念のために連れ出すって話じゃなかったの? これじゃあ窃盗でしょう。今までと何も変わらない。長殿相手に、喧嘩を売ったようなものだよ。わかってるの?」

「だって、おれとトルヴァの二人で、婿に来いだのなんだのとしつこかったから……つい」

「――はあ? 何それ?」


 ヘルガの眼光が、殺人的に鋭くなった。

 フェンリルは背筋がヒヤリとして、これ以上この話を続けるのは得策ではないと判断した。


「不問にするという約束はとりつけたから、大丈夫だ。多分。今度こそ諦めたはずだ。大事な馬を盗むような奴、さすがに嫌だろ」

「ふうん」


 いくらかまなざしを和らげたヘルガにほっとしたのも束の間、今度はトルヴァがぼそりと呟いた。


「やっぱりオレ、戻ろうかな」

「――おい」

「この期に及んで、何言ってんのあんた」

「だってさー長殿の娘さん、みんな可愛くて美人だったんだよ……褒められたし。今からでも謝ったら、許してくれないかな」


 いかにも悔しそうなトルヴァに、フェンリルは冷めた視線を投げかけた。


「べつに残ったっていいぞ」

「あ、うそうそ」

「ブラギが言うように、これはおれのわがままなんだから。無理についてこなくたっていい」

「冗談じょーだん! 一緒に行くって」


 慌てて飛び降りたトルヴァだったが、ふり返ってスキンファクシを見上げて食い下がった。


「じゃあさ、せめてスキンファクシだけでも連れていけないか? 強いし早いし、これからのいい相棒になってくれると思うんだよ」

「だから残れよ。もう」

「私もそれは賛成しかねる」


 フェンリルもトルヴァも、ぎょっとして飛び上がった。

 ヘルガとルクーが現れた木陰から、数歩と離れていない距離の切り株に、目尻に翼の刺青を入れた次代の覡巫(ヴォルヴァ)、エイナルが腰かけていた。

 おまけに彼の膝では、こっくりこっくりと舟をこぐロッタがもたれかかっている。

 エイナルは、二の句がつけずにいる二人を見つめて穏やかに続けた。


「まずブラギ殿の元に、別れの挨拶に向かったのは良い判断だ。長とは話をつけたのだと、言い訳ができるからね。スキンファクシを人質にとったのも、まあ良いだろう。これに懲りてしばらくは、彼も若者いじめを控えるに違いない。でもスキンファクシは、彼が命の次に大事にしている馬だ。連れていけば、一生恨まれるよ。名残惜しいだろうが、置いていきなさい」

「……もしかして、長殿の命令で、オレたちをひったてに来たんですか?」


 ありえる話だったが、それにしては行動が早すぎる。警戒を見せる二人に、ルクーが待ったをかけた。


「エイナルさんは大丈夫。味方だよ」


 するとエイナルの背後から、ダインがハティと共に現れた。

 こちらも少々眠たげだったが、フェンリルたちに気づくとぱっと表情を明るくさせた。


「フェンリル、トルヴァ、これ、エイナルさんが持っていけって!」


 ダインは手にしていた縄を引っ張った。

 縄に引きずられてきたのは小ぶりな一台の橇で、荷袋の他、天幕用の毛皮に矢筒と弓矢。そしてなんと食べ物まで積まれていた。明らかに、誰かの協力が無ければ手に入りそうにない代物ばかりだった。

 フェンリルとトルヴァは、ますますエイナルを危ぶんだ。そもそも彼らが夜明けと共にヨトゥンヘイムを去ることは、ヘルガとルクーにしか伝えていなかったはずなのだ。

 エイナルは、腹の底が知れない微笑を浮かべた。


「さあ急ぎなさい。血眼になったブラギ殿に、追いつかれる前にね」


 確かにのんびりしている暇はない。フェンリルとトルヴァは急いで旅支度を整えた。


「おっちゃんたちにお別れする?」


 ダインに聞かれて、フェンリルは首を振った。


「いや、このまま行くよ。二人には、ダインからよろしく言っといてくれ」

「ん。いいよ。ていうか、そのほうが良いかもね。おばちゃんたち、泣いて引きとめてきそうだし」


 すべてを承知しているように、ダインが頷いた。

 あの二人に泣かれたら、堪えるものがある。それくらいには、フェンリルも気を許すようになっていた。


「ロッタ」


 フェンリルは次に、エイナルの膝で瞼をこするロッタの前にかがみこんだ。


「最後に会えて良かった。ずっと、仲直りしたかったんだ」


 フェンリルはロッタの小さな手をとり、できるだけ優しく話しかけた。


「市ではごめんな。あれは、ただのやつあたりで……ロッタは何も悪くないんだ」


 ロッタは目線を手元に落としたまま、フェンリルの顔を見ようとはしなかった。

 ダインとロッタは、どこまで知らされたのだろう? 本当なら幼い二人には、カザドの真実や、フェンリルたちがカザドを追うことを伝えるつもりはなく、別れの挨拶もしないまま行くつもりだった。

 特にロッタは市での一件以来、フェンリルを意図して避けるようになっていた。フェンリルもあえて近づこうとはしなかった。いつかきちんと話をしたいと思っていたものの、なかば諦めてもいたのだ。

 だからこうして最後に顔を合わせられたことが、嬉しくもあり気まずくもあるのが本音だった。


「……許してくれるか?」


 この幼い子は、本当ならまだ眠っている時分なので、ほとんど伝わらないだろうという気持ちだった。

 すると、ふいにロッタがフェンリルの手を放し、エイナルの膝から滑り降りた。そして両腕をいっぱいに広げて、フェンリルの首にまわした。


「いーいーよー」


 間延びした声と重なる体温にほっとして、フェンリルはロッタを抱きしめた。


「ごめんな……ありがとう」


 しばらくの抱擁のあと、身体を放したロッタがフェンリルに例のお守りを掲げた。


「おじいちゃまに、わたしてくれる?」

「うん――必ず渡すよ」

「きっとだよ」

「うん」


 フェンリルが受け取って懐のかくしにいれるのを見て、ロッタは満足そうににっこりした。


「二人とも、これも持っていって」


 同じく腰をかがめていたルクーが差し出したのは、白木を削った留め具だった。

 大きな翼を広げた空の生き物が、今にも羽ばたいていきそうな程、それは細かく丁寧に彫られている。


「昔一度見たきりだからうろ覚えだったけど、天王の翼(ヴィーダル)を彫ってみたんだ。旅のお守りだよ。無事を祈ってる」

「ありがとう」

「さすが。ちゃんと天王の翼(ヴィーダル)だよ」


 祈りなんて何もならないとは思っている。でもそれよりも単純に、ルクーの真心が嬉しかった。

 フェンリルとトルヴァは、外套の胸元をその留め具でまとめた。


「本当にヘルガは来ないのか?」


 トルヴァがたずねた。


「何がなんでも、絶対ついてくると思ったのに」

「あてが外れた?」


 ヘルガは皮肉気に口元をゆがめた。


「あんたたちならきっと、じいさまに追いつくよ。――それに、誰かがいるでしょう?」


 ヘルガはルクーの次にダインとロッタを見つめて、最後にフェンリルとトルヴァに向き直った。

 フェンリルは、ヘルガの視線に気まずくなって呟いた。


「結局、おいていくことになったな」


 ヘルガは驚いたように、一瞬目を見開かせた。そして次にその目元をほころばせた。


「ちがうよ。あたしがそうしたいの。でも、気にしてくれてありがとう」


 トルヴァは軽口を叩いたが、ヘルガが残ることは、フェンリルたちにとっても安心できることだった。

 集落の女性らしい装いになり、グズリの元で働く彼女は、きっとルクーたちの助けになるだろう。そして、ヘルガ自身の助けにもなるだろう。

 いくばくかの淋しさを感じながら、フェンリルは手を差し出した。ヘルガはその手を一度じっと見つめ、それからそっと、相手の指先に触れるようにした。


「……また会えると、思っても良い?」

「生きてれば会えるよ」

「……そうだね」

「こっちは任された」


 触れ合う二人の手の上から、トルヴァが自身の手を重ねた。


「そっちは、ルクーとチビたち任せたぜ」


 ヘルガはまぶたが震えそうになった。だが口の内側を噛んで堪えた。今見ているものを、涙で滲ませたくはない。 

 ――泣くものか。泣き顔を最後にしてたまるか。


「きっと、じいさまを見つけてね。あたしたちの分も、側についててあげてね。みんなじいさまに――すごく感謝してるんだって、伝えてね」

「うん」

「おう」

「お別れは済んだかい?」


 エイナルが呼びかけたのをきっかけに、三人は離れた。


「さて、そこまで見送ろう。私がいれば、誰かとすれ違っても見とがめられずに済む」


 エイナルが腰を上げて口笛をひとつ吹き鳴らすと、ハティが彼の前に駆けだした。


「――天王の息吹の、あらんことを!」


 遠ざかるフェンリルたちに、ヘルガが声を張った。

 二人はふり返り、スキンファクシの手綱を握るヘルガと、閉じたまぶたでこちらを向くルクーと、眠気と戦う兄妹を、惜しみながら見つめた。

 フェンリルとトルヴァはカザドを追い、ヘルガたちはここに――ヨトゥンヘイムに残る。

 彼らの道は、今日を境に分かたれるのだ。


「――あらんことを!」

「あらんことを!」


 でもきっと、これが最後ではない。

 二人は声を張って腕を振った。ヘルガたちはいつまでも手を振っていた。二人の姿が完全に見えなくなるまで、そうしていた。

 

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