第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑫――
日の出と共にまずは牧へと向かうのが、ブラギの一日の始まりだった。
固いビスケットにチーズの軽食と矢筒と弓。それから手斧と解体用の小刀を携えて牧に出向き、月毛の愛馬、スキンファクシに跨り単身で、遠駆けを兼ねた狩りをする。
これはスキンファクシが彼の物となってから、ほとんど欠かしたことはない。呼吸と同じく沁みついた大事な日課だった。妻が産気づいた時にさえスキンファクシに乗っていたのに、今回、その日課を崩す例外が起きた。
牧へ出向いたブラギは、彼の気配を察して近寄る可愛いスキンファクシではなく、別の人物と顔を合わせることになった。
白い霧が立ち込める中、晴天を思わせる髪の色がまず目をさした。
もやに霞んだその姿は一瞬、ブラギを神代の歌の時代へといざないかけた――だが近づいて見てみれば、相手は彼の胸元までしかないような小柄さであり、寒さに頬を赤らめ、白い息を吐き出す肉体を持った若者だった。
相手はブラギに気づくと、そのよく光る青いまなざしを向けた。
「フェンリルか――こんな朝早くから、いったいどうした?」
「ここなら一番に会えると思った」
フェンリルは、待ち人来たりて嬉しいという風でもなく言った。
「おれたちを受け入れてくれたこと、あんたには感謝してる。ここに来れて、良かったとも思ってる。でもここにはいられない――おれはもう、行くことにする」
次にフェンリルが言い出したことに、ブラギはたいして驚きはしなかった。予想していたよりも行動が早かったと、呆れたくらいだ。
何せ養い親の真実についてを明かしたのはつい昨晩のことなのだ。なのに仲間も引きつれずたったひとりで、ブラギの元に現れた。それが意外だった。
「――俺はこれでも、馬鹿な真似はするなよと、念を押したつもりだったんだがな」
ブラギは、顎髭を撫でつつ言った。
「追ってどうするというんだ。お前が追いかけようとしてるのは、裁かれる時に裁かれず、死ぬべき時に死ねなかった、哀れな亡霊だ。それも、余命いくばくもないときてる。共にいても先は無いというのに」
「そうかもな――でもそんなことは、どうだっていい」
相手の強情さに、ブラギは眉をひそめた。
「奴の生き様は、この俺でさえ同情している。別の道さえあったなら、ひとかどの人物にもなれただろう。だがそうはならなかった――これ以上ないけじめのつけかただろうに、養い親としての最後の情を、お前ひとりのわがままで、台無しにする気か? お前のそれは愛情というよりも、執着じゃないのか」
「ただの意地だよ」
思わぬ鋭さで、フェンリルは切り返した。
「つまらない意地だよ。おれはあの日からずっと……どうしたらこの人に恩を返せるのかって、ずっと、そればかり考えて生きてきたんだ」
フェンリルは、哀れなヘイルや灰となったヴァナヘイムに報いるため、生きてきたわけではなかった。
いや、きっと望みのひとつではあったんだろう。でもそれよりもずっと報いたかったのは、今を生きるカザドの献身だった。
「本当はおれこそが、ヴァナヘイムの亡霊になっていたのかもしれない。でもそうはならなかった。あんたたちが狂嵐の獣だと呼んだ同族殺しが、おれを生かしてここまで導いてきたからだ」
血と炎と泥の中から引きずり出し、蘇れと促がす声があった。生かそうとする厚い手のひらが、常に側にあった。
カザドは今のフェンリルが、憎しみで作られていると言った。
だがフェンリルをフェンリルたらしめたのは、何もそればかりではなかったはずなのだ。
それこそ愛だろうか?
わからない。
でも、限りなく揺らがない何かだった。
カザドがそれを自覚していようといまいと、もう、どちらでも良いことだ。
フェンリルはそのことを信じることにした。
――信じることにしたのだ。
「おれがじいさんのこれまでに報いたいと思うことを、執着だと言いたければ言えよ。馬鹿だと、笑いたきゃ笑え。でもせめて、おれひとりくらいは、最後までじいさんについて行く――そのことだけは何があっても譲れない。どう思われようと構わない。天王にも、女神にだって、見逃してもらう」
ブラギは腕を組んだまま無言になり、食い入るようにフェンリルを見つめた。そのまま二度と動かないかのように見えたが、やがて、息を吹き返したように言葉を発した。
「黙って行くこともできたろうに、どうしてわざわざ俺の元へ来た?」
「世話になったことには違いないから、礼儀を通しただけだ。……おれが追放された罪人を追うことで、残る仲間が不当に扱われるのもごめんだった」
「俺をひとでなしとでも、思ってやしないか?」
ブラギは一度、渋い表情を浮かべた。そして次の瞬間には、意地悪く口元を歪めていた。
「まあ健気にも俺の顔をたてようと、ここに最初に来たことに免じて、お前の懸念は現実にならんことは請け負ってやろう。――だが、それだけだ」
去るなら追わず、来るなら拒まない。カザドと似た、ある種の潔さを信条とするブラギではあるが例外がある。
今度はフェンリルが眉をひそめる番だった。
「俺はこれでもな、奴については本当に惜しいと思っている。そして同時にお前たちのように場数を踏んだ、度胸のある若者を育て上げたことを、感謝してもいるのだ。良い拾いものだっただけに、黙ってこのまま行かせてしまうのは……なぁ?」
「……取引でもしようってのか」
どんな無理難題をふっかける気だろうと、フェンリルは身構えた。
ブラギはにやりとした。
「フェンリル。やはりお前、うちの入り婿になれ。お前を従わせるのは骨が折れそうだが、一度縁ができた女をお前は無下にはできなそうだし、今度こそ娘とねんごろにさせてやる。婿になるとこの場で約束するなら――」
「頭わいてんのかおっさん」
フェンリルは即座につっぱねたが、相手は笑みを深めるばかりだった。
「何、断っても構わんぞ。このままふん縛って、力づくで諦めさせることもできるしな。その場合はお前の強情が勝るか、こちらの要求をのむか、二つに一つだ」
荷物を落として手斧と縄を構え出す様から、宣言通りに縛り上げる気配を感じ取る。フェンリルは、じりじりと距離をとった。
「おれはもう行くと言ったろ。戻らないつもりなのに、嫁なんか持てるか。……第一、娘本人の気持ちはどうなる」
「だから行かせるつもりはないという訳だ。無論、娘の気持ちは何より大事だな。だが心配するな。こないだちらりと話をふってみたが、頬を染めこそすれ、嫌とは言わなかったぞ」
「そういう問題じゃない」
自分の預かり知らぬところでわが身の行く末が決まるなど冗談ではない。
しどろもどろに逃げ腰になるフェンリルを前に、弱点見たりとブラギは目をぎらつかせる。
「じゃあ何が問題だ。お前がおかしな奴であれば、そもそもこんな話持ちかけんさ。手塩にかけて育てた、大事な娘たちだからな。そういう意味でお前は、将来性を見込まれている訳だ。血統も良い。誇りこそすれ、嫌がる奴があるか。――なんならあれだ。トルヴァともども、婿にしてやる。あいつは気持ちの良い若者だからな、ぜひ縁者にしたい」
「嬉しくないんだよ。話をすりかえるな」
「まあまあ――」
なだめる口調になるや否や、ブラギはフェンリルの足首めがけて縄をしならせた。完全に巻きつかれる前に、フェンリルはその場から跳び退る。
次の瞬間には、胴体めがけて横薙ぎの手斧が迫りきていた。
「やっぱり来るんじゃなかった」
舌うちと共に言い捨てて、フェンリルは敏捷に牧を囲む柵の一本に飛び乗った。霧の奥で牧の馬たちが、ぴりつく気配に蠢きだす。
本当に入り婿にする気があるのかあやしい、次の一撃を避け、フェンリルは低い声で告げた。
「――そっちがその気なら、あとは好きにさせてもらうからな」
ブラギはまだ獰猛な笑みを崩さなかった。最初こそからかうだけのつもりだったが、もはや、楽しくなり始めていた。
「できると思うのか? 自分から言うのもなんだが、俺をひとりでいなすのはなかなか骨だぞ」
「あいにく、ひとりじゃない」
「何?」
するとフェンリルの背後からこちらへ向かって、駆けてくるひとつの影に気づいた。はずむような蹄の音、小気味いい律動の鼻息、影でもわかる美麗な曲線――いずれもブラギには覚えがあった。
そうして霧を払うようにフェンリルの真横に現れたのは、光沢のある美しい月毛の牝馬――ブラギの可愛いスキンファクシだった。
既にハミを咥え、鞍をつけたスキンファクシの背で、上下にはずむ銀髪の少年は何気なく挨拶をしてきた。
「おはようございます。長殿」
ブラギは呆気にとられて、トルヴァを見上げた。
「お前っ――お前いったい何を――」
「やっぱりスキンファクシは良い馬ですね。オレのことをちゃんと見極めて、鞍も自分からつけさせてくれましたよ。まめに世話してきて、つくづく良かったなあって思います」
「そうじゃない! いや、それは良い。乗ってしまったことは許す。――とりあえず降りてこい」
狼狽するブラギを見下ろして、トルヴァの目が嬉しそうに細められた。
「嫌だね」
「何をこのっ――」
「てめえが何より大事にしてるのは、娘じゃなくてこっちだろ」
ブラギを遮り、フェンリルが言った。
「おれを黙って見送るか、スキンファクシか。二つに一つだ――どちらか選べよ、ブラギ」
からかいすぎたことを後悔してももう遅い。完全なる仕返しに、ブラギは青筋をたてて歯噛みした。
だいたいスキンファクシもスキンファクシである。ブラギ以外の人間には誰であれそっぽを向く。そこがいじらしくて好ましかったというのに。
「ぽっと出の若造になびきやがって――この浮気者め」
主の嫌味などどこ吹く風で、スキンファクシは鼻息を鳴らした。
ブラギは額に両手をついて天をあおぎ、深く長くため息を吐いたのち、絞り出すように告げた。
「――ああ、わかった。好きにしろ! お前の勝ちだ!」
しかし相手はまだ疑わしそうに目を細めた。
「おれが出て行くことと、このことは不問にするか?」
「好きにしろと言ったろ。二言は無い。――だからスキンファクシはおいていけ。な?」
後半はどうしても切実な願望が滲み出ていた。
フェンリルはちらとトルヴァに目くばせをすると、そのままひらりと彼の後ろに跨った。
「おい……おいおい、何してる」
「一度思いきり、走らせてみたかったんだよね」
ブラギの問いに答えるでもなく、手綱を握るトルヴァが瞳を輝かせる。無邪気で危険な輝きだった。
「は? おい……おい待て」
トルヴァの合図と共に、耳を後ろに伏せてスキンファクシが駆けだした。
ブラギは絶句し、愚かにも追いすがろうと試みる。
「待て――スキンファクシ!」
哀れな声を上げるブラギに、馬上からフェンリルが言い捨てた。
「――じゃあなブラギ」
ブラギはまだ何か言っていたが、もう聞こえなかった。
あっという間に何歩ぶんもの距離が生まれ、スキンファクシはそのまま霧の彼方へと姿を消した。




