第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑪――
カザドの人柄を誰より知ったつもりでいた。なのに、今や誰よりも遠かった。知らなかったことのすべてが明らかになったのに、フェンリルの胸中は解放感どころか、裏切られたような虚しさでいっぱいだった。
盲目的にカザドを信頼していた分だけ、反動もまた大きかったのだ。
「そうじゃなきゃ、わからない……だっておれは、どう考えても面倒なガキだったはずだ。……なのに、なんで追われる身で、自分から厄介事を抱え込むような真似をしたんだ……」
フェンリルは、力が抜けたようにその場にしゃがみこんだ。
「それならオレたち全員、足手まといだったろうが」
トルヴァは歯切れよく言い放った。
「覡巫や長殿が言った通りの悪人のままだったなら、オレたちなんてとっくに斬り捨てられてる。その場でそうしなくとも、そこらに置きざりにするなりなんなり、いつだって好きにできたはずだ。そうすることになんの抵抗もないはずだろ。でもそうしなかったのは、お前と会って、何かが変わったからだ。お前がじいさんを変えたんだろうが」
フェンリルは自嘲気味に笑った。
「狂嵐の獣とまで言わしめた、血も涙も凍てついた同族殺しが、死にかけのガキひとりに、心を動かされたっていうのか?」
「オレはそう思うね。ただの気まぐれだけで、何年もこんなことやってられるかっての」
「……おれにそんな価値無い。誰かを変えられる力なんか……持ってないよ」
フェンリルは唇を噛んで、抱えた両膝に頭を乗せた。
するとトルヴァがフェンリルの前にかがみこみ、両手で彼の青い頭を掴んでわしわしとかきまわした。犬にするのとそっくりの手つきだった。
呆れ果てた口調で、トルヴァは続けた。
「馬鹿。肝心のお前がへこんでどうすんだ。――お前を自分と同じような復讐者に育てようとしなかったのが、何よりの証拠だろ」
ぐしゃぐしゃにされた頭で、フェンリルは世界の支柱の光が灯る、トルヴァの目を見返した。
トルヴァの目はフェンリルと同じように青いのに、発する光はまったく異なっている。――まばゆい程にまっすぐだ。
フェンリルはそんなトルヴァのまなざしを受けて、迂闊にも泣きそうになった。
彼にだって、フェンリルと同じくらい辛いことがあったはずなのに。その強さや優しさは、どこからくるのだろう。
……カザドは市で、フェンリルが過去の傷を愛していると言った。憎しみを手放せないことを愛だと。彼が囚われた復讐心を、そうして嘲笑った。
フェンリルが愛した人たちは過去の水底にしかおらず、憎悪と苦痛の中でしか蘇ることはないのだから、カザドの言うとおりなのかもしれなかった。
ぐちゃぐちゃに壊された心を癒そうとしないまま、固まりかけた血や膿でもってなんとか形を留めせたのがフェンリルなら、トルヴァはもっと、別の方法で新たに築き上げたのだろう。
きっとそれは、フェンリルには真似できない。思いつきもしないような方法だ。
根本から生ずるものが違うのだと思うと、より悲しくなり、再び膝に頭をうずめた。
「トルヴァはすごいな」
「は? ――どうした急に」
「すごいよ。いつも思ってる。でも、おれは駄目だ……どうしたら、お前みたいになれるんだろう……」
突然の賞賛に、トルヴァは喜ぶよりも寒気がした。
これはいよいよ、駄目になっている気がする。こんなものを黙って放置していったカザドに、若干恨みが湧いた。
渋い顔で口を何度か開閉したのち、トルヴァは後頭部を掻いた。
「――いいんじゃねぇの。お前はそれで」
フェンリルが腕の隙間から、こちらを見つめてきた。泣きまではしないが、潤んだ目もとだった。
「いいよ、それで。変わろうとしなくてもさ。もう、これは性分ってヤツだろ。――そのかわり、お前が取りこぼした分は、オレが拾ってやるよ」
改めて告げると、トルヴァは口の端をわずかに持ちあげて、フェンリルに手を差し出した。握手を求める仕草だった。
「オレは銀梟の氏族。レイフとその妻ヴァルマの一子。レイフィア=トルヴァ。じいさんに拾われる前は、祖父と両親の他に、弟二人と暮らしてた」
突然名乗りあげたトルヴァを、フェンリルは怪訝そうに見た。
「なんだ急に」
「いや、きちんと名乗ったことなかったよなと」
カザドは成り行きで共だったトルヴァに対して、積極的に身の上を聞き漁ることはしなかった。反対にトルヴァも、彼らのこれまでをたずねたことはなかった。
無言のままでいたことは、当時の彼らにしてみれば、お互いに対する最大限の思いやりだったのかもしれない。
だがその結果、どうだろう。
お互いについてびっくりするほど、何も知らないままで来てしまっていた。
「ここは良いところだし、ケヴァンさんたちも良い人だけどさ。でも、オレたちはオレたちで、ずっとやってきたよな。それなのに、お互いにしっかり名乗ったことすらないんだ。それはそれで、気楽だったかもしれないけどさ――ちょっと水臭いよな」
フェンリルはトルヴァの顔と、差し出された手を交互に見た。
やがて鼻をすすると、トルヴァの手をとってゆっくり名乗りをあげた。
「おれは……ヴァナヘイムの長、ディアスとその妻リンネアの三子。ヴァナシア=ディアス=サグム=フェンリル。両親の他に兄と姉がひとりずついて……それから、イル=カザドの養い子、イル=フェンリルとなった。そしていまは……カザディア=フェンリルだ」
「兄貴の名前はもう知ってるぞ。ヴィーダルだろ」
トルヴァは破顔した。
「きっとお前ほど名前が変わった奴、そういないぜ。――それで、どうする?」
「どうするって?」
「これからだよ。フェンリルはどうしたい?」
思いがけない質問に、フェンリルは考え込んだ。
ヘルガに似たことを聞かれた際もそうだった。あの時もフェンリルは、答えられずに言い淀んだ。
フェンリルは自分の望みや将来について真剣に考えてきたことはなく、カザドの動向やヘルガの望みに、自身をあてはめてきてばかりだったのだと、この瞬間気がついた。
――自らの願望に最も近い行いをしたとすれば、女神の戦士との戦闘だ。復讐心に駆られ、衝動のままに刃を振るった。あの行為にほかならない。
でもそうではない。フェンリルの望みは、そうではなかったはずだ。
フェンリルは上空に昇り、四方へと広がる光の束を見上げた。この光が伸びる先、同じ空の下のどこか――どこかに、カザドがいる。
きっとまだ、この世のどこかにいてくれている。
「……言ったら最後だ」
「そんなの、わかんないだろ」
「だって」
フェンリルはヘルガやルクー、ダインとロッタの顔を夜空に思い浮かべた。目の前のトルヴァの顔も思い浮かべた。どこで何をしてるかもわからない、ボズゥの顔も。
ボズゥもここに、辿りついてくれたら良いのに。
みんな、やっと、安らげるかもしれない場所に、辿りついたのに。
「もう、戻らないかもしれないんだ」
「お前は馬鹿」
トルヴァはフェンリルの額に、でこピンを喰らわせた。
「こういう時は、黙ってついて来いと言うんだよ。――じいさんに物申したいのが、自分ひとりだけだなんて思いあがるなよな」
額をさすり、フェンリルはトルヴァを見返した。
かつて兄の面影を見た銀髪の少年は、やはりなんでもないように笑った。
「オレが必要だろ? 言ってみろよ兄弟」




