第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑩――
覡巫の長屋からどうやってケヴァンの天幕まで帰ってきたのか、フェンリルは覚えていない。
天幕ではケヴァンの息子一家とヘルガたちが待っていて、フェンリルたちを出迎えてくれた。共に食事をし、他愛ない会話もした。そのはずだが、自分がそこにいたという実感はなかった。
気づけばフェンリルは、羊毛布団にくるまり横になっていた。パンを小さくちぎっては口に運ぶ、ロッタの赤く腫れた目だけが、夢の名残として瞼の裏に張りついていた。
寝がえりをうって起きあがると、すぐ側から寝息が聞こえてきた。
少々迷ったが二つ並ぶ人影を、踏みつけないように這い出ていこうと試みる。するとそのうちの一つが話しかけてきた。
「――よう」
トルヴァの声だった。彼も眠れないでいたらしい。トルヴァはルクーを起こさないよう、フェンリルと同じく慎重に起きあがった。
二人はそれから、無言のまま天幕から出ていった。どこへ行こうと指し示すわけでもなくもくもくと歩き続け、やがて暗闇の中で際立つ光源――世界の支柱の根元に辿りついていた。
「夜だとけっこう眩しいものなんだな」
そう言ってトルヴァは淡く発光する世界の支柱に触れた。その手のひらに光る結晶が集まり、物憂い顔が白く照らされる。
「じいさんと初めて会った時、顔を隠してたな」
トルヴァが手元の光を見つめながら切り出した。
「刺青を入れはじめたのは、きっとあの頃だ。――ちょうどその頃にオレたちさ、世話になってる集落で騒ぎになって、出て行くことになったよな」
「……そんなことあったか?」
「あったよ。じいさん、子供は置いてけって、集落の人たちに追いかけ回されたんだ。それでオレたち、そこの一員になるとかそんな話じゃなくなって……とにかくそれっきりだったろ。覚えてないのか?」
フェンリルは首をふった。
「オレだって自信満々じゃないけど、色々思い出してきたぜ。あんな大ごとになったのは、お前のせいでもあったぞ。確か」
トルヴァが眉根を寄せるので、フェンリルは思い出す努力をしてみた。だが、やはり答えは同じだった。
「あの頃のことはぼんやりしてるんだ。もやがかった感じで……」
「じゃあオレがいつから、どうして一緒にいるのかも、わかんないないわけか」
「正直あんまり……いつのまにか、なんかいるなあと……」
「この薄情者」
脛を蹴られそうになったため、フェンリルは数歩ぶん後退した。追撃が来るかと身構えたが、蹴りはその一度きりだった。
トルヴァは眉間の皺を緩めた。
「まあ、しゃーないか。あの頃フェンリルもじいさんも、なんか大変そうだったもんな」
「そう見えたか?」
「訳ありそうだなとは、チビながらに思ってたよ。――騒ぎになった時は、理由がわからなかったけど、今ならわかる。じいさんは顔を見られたんだ。それから集落に立ち寄ることが、めっきり減ったんだよな」
トルヴァが白い息を吐きだした。世界の支柱のすぐ側とはいえ、真夜中ともなればさすがに冷え込むのだった。
「オレ、じいさんが何かにつけて天王様を引き合いに出すから、覡巫のお告げで、子供を拾うことになった巡礼者なのかな、なんて想像したこともあったぜ」
トルヴァは苦笑気味にぼやいた。
「……でも考えてみたらじいさんは、自分のことを話したことはなかったな。オレたちみんな……じいさんのことを、なんにも知らなかったのかもしれない」
トルヴァの言うことを否定することはできない。
むしろその通りだと思った。
「……おれは、じいさんは集落を追い出された人なんだろうと、なんとなく察してはいたんだ」
「罪人だってことをか?」
フェンリルは首の鎖を引っぱった。服の下から引きずり出た、鎖に通されたヘイルの腕輪に、世界の支柱の光が映える。
腕輪を見つめて、フェンリルは言った。
「きっと昔、何かの罪を犯して追放されて、それで、帰れなくなってしまった人なのかもしれないって……おれを助けて側においているのは、きっと、そういう理由からなんだと……」
ヴァナヘイムからずっとフェンリルを伴ってきたのは、同じ故郷をなくした人だからなのだと思っていた。
同じ郷愁、同じ喪失を知る人だから。
だからこそフェンリルであり、ここだったのだと。
「どこにもいつこうとしないのは、許される機会を失ってしまって……だから、いま、ここだったんだと。ヴァナヘイムの……故郷の流れを汲むっていうここで、じいさんの贖罪が終わるんだと、そう、勝手に思い込んでた」
だがそうではなかった。カザドこそ真実どこにも居場所のない――許されざる、同族殺しの罪人だったのだ。
「前も言ってたよな。そのヴァナヘイムってのは、お前のなんなんだよ」
フェンリルは、そういえば教えたことがなかったと気がついた。
「……ヴァナヘイムは、おれの生まれ育った集落の名前だよ。おれの祖父の代に作られて、ちょうどここと似た感じで……それで、ある日、女神の戦士がやってきて……全部壊された」
フェンリルが懸命に言葉を選んで語るのを、トルヴァは根気強く聞いていた。フェンリルは、腕輪を握りしめる手に力を込めて言った。
「ここは……ヨトゥンヘイムは、ヴァナヘイムから旅立った人たちで作ったらしい。ブラギやグズリ……覡巫にエイナルも、同じ故郷の人なんだ」
「――なるほどね」
トルヴァは腕を組んだ。
「だから女神の戦士に対してあんなに――納得した」
彼は彼で、この無口な兄貴分にずっと疑問を抱いてきたのだった。そして真剣な口調で、トルヴァは切り出した。
「それならやっぱり、じいさんは、お前のためにここに来たんだ」
それはフェンリルもうぬぼれのように考えつき、そしてやはりうぬぼれだったと、カザドの正体に打ちのめされたことだった。
「ブラギたちの見解は、そんな風じゃなかったろ」
フェンリルはため息をつきながら、前髪をかき上げた。
「じいさんのこれまではつまり、贖罪のためで……おれたちを拾って育ててきたのは、その延長だってことなんだろう」
もしかしたらカザドはヴァナヘイムにやってきたあの日、すべてを壊す狂嵐の獣のさがに従い、破壊と死をもたらすつもりだったのではないか。
少なくともブラギはそう判断したから、あのような問答をしたのだ。カザドの過去を知った今となっては、そこに結び付ける方が妥当だった。
だが、獲物を横からかっさらわれてしまって、やることがなくなって――気まぐれに、罪を贖う気になったのかもしれない。
子供たちを拾い育てたのは贖罪のひとつに過ぎず、死に病を経て、今こうして彼らの元を去ったのだって、成り行きに違いない。
カザドと共にいた日々のすべては、彼の贖いのために費やされていた。
カザドは自らを偽り、フェンリルたちを偽り、そして再び去った。
誰ひとり、必要としないまま。
「本当にそれだけか?」
腕輪越しの視界に、トルヴァが侵入した。
「それなら同族殺しであることを隠してまで、オレたちを手元に置くことに、なんの意味があったんだ。もっと他の方法だってあっただろ」
それも何度も考えたことだった――でもぐるぐると渦を巻き、堂々巡りだ。どうして、カザドはあの日、フェンリルを助けたりしたのだろう?
「それがわからないから、苦しいんだ……」
「本気で言ってんのかよ」
トルヴァは驚いた顔になった。




