第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑨――
これ以上聞いてはいけないと思った。だがもう、彼らは引き戻せないところまで来ていた。
二人が何も言えないでいるうちに、突如として覡巫は白んだ目をかっと見開き、顎を振るわせて吠えた。
「――虐殺と略奪じゃ! 奴は老いも若きもその手にかけた! 同胞の真心に対して、奴は惨たらしい死のみを振りまき立ち去ったのだ! 天王と同じ似姿でありながら、なんという不義理! 畜生にも劣ることをっ……」
ひととき顔をのぞかせた、秘めた激情に覡巫はむせた。エイナルがその背をさする。見下しているはずの息子の手を、この時ばかりは振り払わなかった。
覡巫の眼前には当時の恐ろしい惨状が、ありありと浮かんでいるのだった。
「――奴は訪れた先で、虐殺と略奪を繰り返した。地の民も天の民もみな平等にその刃にかかり、皆がこの新たな脅威に怯えた。そして氏族たちが手を組み、奴が逃げ込んだという山で山狩りが行われた。一度は捉え、証を焼きつけることができたのじゃ。だが――奴は、片腕を切り落とされようとする、一瞬の隙をついて逃亡した。その場の全員を再起不能にしてな。――その後は二度と、誰の手にも捕まることはなかった。やれあそこの山に現れただの、地の民の村を血で染め上げただのと、噂ばかりが飛び交った。とはいえ罪の印があり、目立つ容姿をしておる以上、警戒することはそう難しくはない。前もって遭遇を避けることも、時にはできたのじゃ。それでも皆、怯え、恐れた。奴は嵐そのものであった――噂がふいに途切れたのは、ほんの二十年か十年そこらのことよ。奴の行いの惨状を知る者たちは、きっといずこかで果てたのだろうと、胸を撫でおろしたものじゃ。――だが生きておった。しかも子供を何人も連れて、ここまでやってきた――奴が目の前に現れた時、わしは天王に試されている心地であったよ」
「それがじいさんだって言うのか」
フェンリルは不気味なほど静かな声でたずねた。
「――遙か古、神々の大戦のおりに女神の率いる地の民の軍勢に対抗するため、天王によって人としての魂を肉体より剥がされ、獣のさがを植え付けられた戦士たちを知っておるかね? その驚異的な力は天も地も、それこそ己をも、破壊し尽くしかねず、最後は天王の雷をもって、荒ぶる魂を鎮めねばならなかった――奴は正にこれよ。神の狂気を体現せし戦士、狂嵐の獣じゃ。けして我らの助けにはならぬ……」
「それが、じいさんだって言うのか」
フェンリルがくりかえしたずねると、覡巫は哀れな者を見るまなざしを向けた。
「……獣の魂が、既に鎮まっておったのは幸いであった。でなければわしは……わしなどは、まなざしひとつ、言葉ひとつ、交わすことすらかなわなんだろうて……」
フェンリルは目眩がした。
覡巫が語る狂嵐の獣となった奴隷の男と、彼の知る頑固な老人が結びつかない。――どうしても、結びつけることができない。
なのに、もてなしを惨たらしい方法で反故にしたのは、カザドの方だったのだと。
カザドのその本質は、フェンリルを襲った獣たちと同じなのだと。
彼らの知る養い親としての顔は、自らの罪を隠し、自らを守る為の皮にすぎなかったのだと、彼の過去が告げてくる。
「俺ははじめ、そんな輩が子供を養育しているからには、何か裏があるんだと思ってな」
沈黙がおりてしばらくしたのち、ブラギが口を開いた。
「市には様々な人間がやってくる。それこそ地の民の人買いなどもな。今でこそ治安はマシになったが、昔は暗殺術などを叩きこんだ天の民の子を奴隷として買いとらせて、要人の始末に使う。などということも行われていたらしい。――俺は奴がそれだと思った」
その考えに至らなかったフェンリルは、どきりとした。
人買い。そうだったのだろうか?
これまでカザドに保護された子供たちは、彼らの元から離れる際、本当に皆、望むべきところへ行ったのだろうか?
(そんなはずない。じいさんは……)
フェンリルは一瞬よぎった最悪の想像をふりはらった。
……だがわからない。
何故。どうして。
イル=カザドとは、本当は何者だったのだ。
「虐殺と略奪のみで、何十年も生き抜いてきた輩だ。弔いを口にするなど白々しい。さぞや老獪なタヌキに違いないとな。だがいざ対面してみて思い直した」
ブラギは腕を組んで言った。
「改心するとまではいかなくとも、悔いてはいるのだろうとな。だからこそ、申し出を受け入れる気にもなった。――奴は追放の日にさえ、自らの保身を口にすることはなかったぞ」
「……じいさんの腕は、どこにあるんだ」
フェンリルがかすれたような声で言った。まなざしは暗く陰り、今にも吐きそうな顔色だった。
フェンリルは覚悟を込めて再びたずねた。
「もう、犬に喰わせたのか。それとも――」
「いいや。奴は五体満足で追放した」
思わぬ答えに、フェンリルは目を見開いた。
「どうして」
「今回に至っては、そうするまでもないと判断したからだ。――奴はもう、そう長くない。人にうつりこそしないが、胸の内から身体を蝕んでいく、死に病に侵されている。時々、変な咳をしていただろう?」
フェンリルは旅の道中での手合わせを思い出した。
ふいに胸をおさえ、その場に膝をついたカザドの姿を。フェンリルを組みしき、咳き込みながらも意地悪く笑ったあの顔を。
「……ヨトゥンヘイムは広く、人も増えている。いつかは知られるだろう。事が露見した時、お前たちがどのように見られるか――。これは奴の望みでもあるということを、覚えておくがいい」
ここで初めて、ブラギの顔に同情の色が浮かんだが、フェンリルにはもう届いていなかった。
引き時なのさと、カザドは言った。
きっとカザドはここを目指すと決めたその時から、そのつもりだったに違いない。
あるいはもっと前から。
死に病など関係なく、出会った最初から――この別れは決まっていたのかもしれなかった。




