第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑧――
覡巫の長屋にカザドを知る者たちが集められた。覡巫、淑女、長の三役の他、淑女の夫たるケヴァンと覡巫の立場となるエイナル。
そしてフェンリルとトルヴァ。
夕食時なのだからと、エイナルの妻が食べられるものを用意してくれたが、フェンリルもトルヴァも、とてもではないが喉を通りそうになかった。
「悪いこた言わない。リル坊もトル坊も、もうおよし!」
突然グズリが鋭い声を発した。
「むしかえしたって、得られるものなんて何ひとつないよ。養い親の見方が、悪い方に変わってしまうだけさ。――あの御仁とのこれまでは、夢だったと忘れてしまいなさい。それが一番良いんだよ」
「おいグズリ……やめなさい」
二人の様子にトルヴァはたじろいだ。ケヴァンがグズリをたしなめようとしているが、彼も妻と同じ考えなのは間違いない。
彼女たちの中では、既にもう、カザドは過去の人になりつつあるのかもしれない。そうしようと、つとめているように見えた。
「あんたの見方も変わったの? グズルーン」
フェンリルは優しく問いかけた。
「じいさんへの態度が、ずいぶん変わったね。でももう、今さらだよ」
「リル坊……! 何も意地悪で言ってるんじゃないんだよ!」
グズリの声はより切実になったが、フェンリルはゆるゆると首をふった。
「あんたたちの真心は伝わってるし、感謝もしてる。でもそれとこれとは話が別だ。――じいさんが何をしたのか、おれには知る権利がある。おれたち全員だ」
「子供が何を言うのさ。どうしても知りたいって言うなら良いかい? あんたたち全員が今よりもっと大きくなって、名実ともにここの一員となって、それでも忘れらなかったらその時に――」
「彼は既に成人している」
なお喰い下がろうとしたグズリを黙らせたのは、エイナルだった。
エイナルは、おしなべて丁寧な口調で続けた。
「本人が望んでいるのだし、子供たちを代表して養い親のやったことを知るべきだ」
「屁理屈を! あんた、いったい、誰の味方なのさ?」
「しいて言えば古き友の」
「はあ?」
エイナルは肩をすくめて、トルヴァを見つめた。
「君はどうする? ひと足先に帰るかい?」
トルヴァは即座に首をふった。フェンリルの言う通り今さらだ。濁したとはいえ、ロッタに決定的なことを告げたのは、彼らの方ではないか。
エイナルは次に、促がすようにブラギを見やった。
ブラギは口を開いた。
「結論から言おう。お前たちの養い親は、宴の晩にヨトゥンヘイムを去った。奴が去ることは、はじめに交わしていた取り決めだ。推測通り、この俺が見送った。天王に誓って言うが、行き先までは知らん」
「取り決めってなんだ。おれたちは何も聞いてない」
「移り住むのは、お前たち養い子だけという取り決めだ。もっともこれは、俺とグズリがいない間の仮の取り決めだったがな。後に妥当だと判断した」
『奴』という呼び方に、フェンリルは唇を引き結んだ。
敬意を払った呼び方ではない。思えばブラギは最初から、ずっとそういう態度だった。
「そんな長も淑女も揃っていない間の仮の話に、じいさん一人を追放することに、三役全員が頷いたっていうのか。――彷徨い人来たれば、家主は誠意をもって、これをもてなす。そうじゃないのか」
フェンリルはなるべく抑えたつもりだったが、非難の響きは隠しきれなかった。ケヴァンとグズリが痛切な表情を浮かべているのさえ、今は白々しく見える。
「もてなしたとも。だがここで暮らすことまでは、容認できん。奴はそれに値しない。幼くして死に別れたとはいえ、お前も長の子だ。おおよその見当がついてるから、詳細を聞きに来たんじゃないのか?」
「……何年だ。じいさんはいったい何年、追放されることになったんだ」
「年数は設けていない。奴には二度と、このヨトゥンヘイムの地は踏ません」
「なんで、そこまで」
ブラギの本気を聞きとり、トルヴァが唖然とした声をもらした。
「……じいさんは、何をしたんだ」
フェンリルの膝にのせた握り拳が、意図せず固くなる。これを口にのぼらせるのは、それだけ勇気のいることだった。
ブラギは青ざめた固い表情を、しばし見つめてから答えた。
「同族殺しだ」
「――いや、おかしいでしょ」
トルヴァはほとんど叫んでいた。
「だってそれなら、同族殺しなら、罪人の焼印がいれられるはずだ! 片腕だって斬り落とされる。でも、じいさんは――」
トルヴァの指摘には、フェンリルも同意見だった。
同族殺しという最大の禁忌を犯した者は、ひと目でそれとわかるよう、見えるところに焼印を入れ、さらに片腕を斬り落とされて追放する。
そこまでするのは同族殺しに下される追放が、実質の死刑にほかならないからだ。
そうやって追放された同族殺しは、助けを必要としながら、誰からも手を差し伸べられることはない。
やがて人知れず果てたとしても、誰にも弔われることはない。ブラギがカザドにふさわしいと言った、犬死にである。
――だがブラギたちは、大きな勘違いをしている。
カザドは罪人なのかもしれない。しかしカザドは五体満足だ。老いてなお頑健な肉体には、大小様々な傷やら火傷やらこそあれ、両手、両足、指の一本すら欠けていない。
そして顔。
カザドがそうだというなら、焼印が焼きつけられたなら、カザドの顔にある刺青は、火傷によって潰れているはずではないか。
「焼印はある。彼の左頬に」
エイナルが静かに口を開いた。
「あれは刺青だ。焼印じゃない」
彼の発言をフェンリルは無理やり失笑しようとしたが、口元が奇妙にゆがんだだけだった。
「彼は焼印の上から、さらに墨を入れたんだ。同族殺しであることを隠すためにね」
「馬鹿言え! 焼けた皮膚の上にそんなことをすれば、ぐちゃぐちゃになるだろうが! 氏族の証として丁寧に入れなけりゃ、あんな綺麗なものにはならない」
一瞬かっとなって反発するフェンリルに、エイナルは首を振った。そして提示された点と点の間に、決定的な一線を引いた。
「カザド殿は元は奴隷で、生まれがどこかもしれないそうだ。だからあの刺青は、彼の氏族を表したものじゃない。どこかの市に、傷や火傷の上から墨を入れる技術をもった地の民がいて、そこで入れたらしい」
「それ……じいさんから聞いたの?」
トルヴァの問いにエイナルは頷いた。そしてブラギが再び口を開いた。
「昔な、地の民の貴族の元で飼われていた、ある一人の天の民が逃亡した。そいつは逃げる際、屋敷の住人を皆殺しにしたのだ。当然追われることになり、何年も追手がかけられて――ここまではわりとよくある話だが、これより先は覡巫の方が詳しいな」
促がされて、次に覡巫がとうとうと語り出した。
「――今より、四十年ほど前の話じゃ。そやつは、かの天王ヴィセーレンと同じ似姿をしておった。紺碧の髪と、金の双眸の両方をな。そして類稀なる戦いの才と、鋼のような肉体を備えておった。追手を退けることができたのも、そのおかげよ。それゆえに惜しく、恐ろしい――そやつのその力は、あろうことか同胞にも向いたのじゃ――。地の民の元で、同じ苦境にあったであろう、同胞にな」
フェンリルとトルヴァは今度こそ言葉を失った。
カザドの刺青が――あの鷹から、羽がばらばらと抜け落ちていくように、次々と、知らない出来事が覡巫の口からこぼれ出てくる。
悪夢でしかなかった。
「それだけではない。地の民から追われるそやつを、そうとは知らずに天幕に招き、かくまった氏族があったのだ。家畜の為に草を求めて遊牧し続ける、ごく少数の氏族たちであった。――そやつはそこで彼らに、何をしたと思う? 同胞の真心に、何をもって応えたと思う?」




