第八章――炎(ほむら)の子【前編】⑤――
「フェンリルさ。もうそのままおとなしく、結婚しちまえよ。いい話じゃん。今なら大抵のわがままは通りそうだし、何より、嫁さんをもてるぜ。いいもんらしいぜ、嫁さんって」
トルヴァが目を輝かせて強調すると――特に最後を――フェンリルの顔から途端に感情が消えた。
「あのおっさんの身内になるなんて冗談じゃない。それより、スコルがどこか知らないか?」
「スコル?」
「成人の儀が終わってからずっと、見かけていないんだよ」
トルヴァは首を傾げた。
考えてみればこのところ、じゃれつくハティの相手はしてきたが、スコルの姿は見ていなかった。
「あっ」
カザドの側にぴたりと寄りそうスコルの立ち姿を思い返し、トルヴァはつい声をもらした。
「どうした?」
「いや、べつに」
トルヴァはこの気づきを、フェンリルに伝えるべきか迷った。
カザドが人知れず、いずこかへと立ち去ったと知ったあたりから、スコルの姿も見なくなっていたのだ。
スコルはヨトゥンヘイムで飼われている訳ではない。かつては自分の群れも持っていたと思しき年とった雌狼で、ある日ヨトゥンヘイムに現れて、里の猟犬と番になりハティを生んだのだそうだ。
本来狼というのは、よほどちいさい頃からでなければ飼いならすことはできない。スコルも例にもれず、人に餌をねだることはなかったが、狩りの獲物を分け与えることもしなかった。
例外として、猟犬の主人だったケヴァンの狩りには伴ったが、スコルの関心は番と我が子にあり、ケヴァンに従うことはなかったそうだ。
そんな孤高の狼が何の気まぐれか、遭難しかかっていたカザドをヨトゥンヘイムまで導いたという。
(じいさんは、スコルに懐かれてたな)
スコルはどこへ行くにもカザドについてまわっていたし、カザドもそれを受け入れているように見えた。
もしもカザドがスコルを連れていったのなら。あるいはスコルが、我が子を残して、自らカザドの出先についていくことを選んだのだとしたら。
ひょっとしたらスコルは。
いや、カザドは。
カザドは……
「――案外新しい縄張りを求めて、出て行ったのかもな」
ひとつの結論に到達しかけたトルヴァだったが、神妙な面持ちで急に黙ってしまった彼よりも先に、フェンリルが話題に見切りをつけた。
「ハティもほとんど成犬だし。なあ。もう、親離れする頃だよな」
落ち角を齧るのに夢中なハティの背を撫でるフェンリルの声は、とげとげしさがなく穏やかだった。
成人の儀からこちら、この兄貴分にも変化があった。
もちろん無表情ではあったし、食は当たり前に細い。眠ることにだって変わらず困難さを示したし、口数も際立って増えたわけではない。
しかし常に張りつめられた弓弦のような雰囲気が和らぎ、くつろいだ表情を見せることが多くなっていた。そういう一面はフェンリルが気を許した、ごくわずかな相手しか知らない顔だった。
グズリが見習えというほどに、集落の仕事にも積極性を見せていたので、ひそかに感心していたくらいだ。
――もしかしたら、カザドの行方を探そうとしないのは、養い親へのこだわりを、彼なりに手放し始めたことの表明なのかもしれなかった。
(良いこと、だよな。多分)
雪山での女神の戦士との戦闘ぶりを思い起こす。あんなことよりも、もっと他のことへ――よそにも目が向くようになった、良い変化なのだろう。
「なんでじいさんは――」
「うんっ?」
トルヴァは思わず声が裏返った。納得しかけてたところに、唐突に話を振られてびっくりしたのだ。
フェンリルはそんなトルヴァの表情を見て、一度はそのまま続けようと口を開きかけた。だが、結局そっぽを向いた。
「やっぱりいい」
「はあ? なんだよそれ?」
「やっぱりなんでもない。忘れろ」
「いやいや、言いかけて止めんなよ気持ち悪い。じいさんがなんだって?」
「トルヴァしつこい」
「はあー?」
それきりフェンリルは、カザドについて語ることをやめてしまった。おかげでトルヴァはやきもきした。
(じいさんについて話し出したのなんて、いつぶりだ? なのに、やっぱりなんでもないって?)
そのもどかしさは、一日中トルヴァについてまわった。
仕事をこなしてても、ヨトゥンヘイムでできた新しい友人たちの輪の中にいても、可愛らしい子馬の相手をしても気は晴れない。
いっそ本人にしつこく問い詰められたら良いのだろうが、一度ああなったフェンリルの口を割ることは難しい。
(聞き分けよくしてる風だから、いやに静かだから、かえってそれが不気味なんだよ……嫌だなあ。これじゃまるで、オレの方がじいさん子みたいじゃんか)
嵐の前の静けさとは、きっとこんな状態を示すに違いなかった。
そしてトルヴァの予感は、すぐに現実のものとなる。
* * *
夕暮れ時だった。空が星と月の帳に幕変えをする直前の、あたりがようようと赤く染まる、ものさびしさを覚えるほんのわずかな時間。
羊を天幕に迎え入れていたトルヴァたちの元に、ダインがやってきて、ひそやかにたずねてきた。
「なぁ、ルクーってどこ?」
「ルクーなら天幕だよ。ヘルガと一緒に、晩飯作ってるぜ」
「あのさ、こっそり連れだせない? なるべくおばちゃんに見られないようにさ」
トルヴァは、作業の手を止めてダインに向き直った。
「どうした?」
「ロッタがちょっとさ……」
ダインは途方に暮れた顔だった。しかし同時にあたりを世話しなく、きょろきょろとうかがっている。
――何らかの悪さを、しでかした後のふるまいである。
「何があったか知らないけど、謝るんなら早い方がいいんじゃないのか」
フェンリルが口を開くと、ダインは憤然とかみついてきた。
「ちがうよ、ばか! そんなんじゃないって! そうじゃなくってさ……とにかく、ルクーだよ。それかヘルガ。なんならこの際、トルヴァでもフェンリルでもいいよ」
「オレ『でも』だぁ?」
トルヴァはなんとしても、悪ガキの口を割らせてやろうという気になり、腰に手を当てた。当然、嫌がらせのつもりである。
「それならケヴァンのおっちゃんでも構わないよな。どこにいたっけな?」
「ブラギのところだ。そろそろ戻ってくるんじゃないか」
「わーっダメダメ! おばちゃんはダメだけど、おっちゃんもダメなんだって!」
慌てふためきながら、ダインは大手を振った。グズリの雷のおそろしさは、すでに体験済みだ。
「あの二人は絶対だめ。逆効果だから。だからルクーだよ。ルクーが効果抜群。まちがいないって」
「劇薬みたいに言うんじゃないよ。ロッタに何したんだ。それとも二人で何かしたのか? 大人に知られたくないようなことか? 白状しろって」
「ああもう!」
じれったそうにダインは激しく頭を掻いた。
「――とにかく、もう、一緒にきてよ。オレもお手上げなんだってば」




