第八章――炎(ほむら)の子【前編】④――
「そう言えば見かけないね」
ぼさぼさに丸まった羊毛のひと固まりを梳きながら、グズリが答えた。
夫のケヴァン同様、彼女も日の出前に動きだすまめな働き者だったのだが、ケヴァンとは質も年季も格段に違っていた。
グズリは複数のことを同時にこなす手腕の持ち主だった。
今だって奥のかまどで晩の食事のためのパン種をねかせて、汁物を煮たたせている合間に毛糸の為の羊毛を梳いている。淑女の代表というのも頷ける、女衆の頼もしい手本だった。
グズリは持ってきた羊毛を弄ぶトルヴァを、ちらりと見て続けた。
「でも急にどこかへ行くことは、これまでにもあったんだろう? なら今回だって、べつに珍しかないんじゃないのかい?」
「まぁ、よくあることなんですけど」
トルヴァは言いよどんだ。確かにカザドの急な不在は、特別珍しいことではない。彼の性分や行動についてはグズリに指摘されずとも、トルヴァたちの方がよくよく承知している。
だからこそどうにも拭いきれない違和感があり、女衆の幕屋へのおつかいの最中に、ぼやいていたところなのだった。
「さすがに、オレたちになんにも言わないってのは初めてで。なんか、変だよなって」
あれだけフェンリルの成人の儀についてこだわっていたカザドなのに、宴の席で本人と顔も合わさず、祝いの言葉も贈らず、いずこかへと旅立ったというのが気がかりだった。
フェンリルが宴の中心人物であり、挨拶に来る人々がいるから気を使ったのかもしれない。だがそれならトルヴァなり、ヘルガなりに、何かしら言づけていきそうなものなのに、それすらなかった。
カザドは至って普段通りだったように思う。最後にどんな会話をしたのかすら、思い出せないほどだ。
「あれだけ盛り上がってる時に、いなくなってんだもん。どこかへ出かけたっていうよか、まるで、見計らって雲隠れしたみたいじゃないですか」
「――まぁ、水臭いと言えばそうだわね」
一旦は、トルヴァの疑問に共感するような口ぶりになったグズリだったが、目を光らせると、彼の期待とは真逆のことを言いだした。
「気がかりはわかったけどね、トル坊。あんた、まだやることがあるんじゃないのかい?」
「え? あぁ、えーっと」
口元を引きつらせるトルヴァに、グズリは胸をそらして睨みをきかせた。
「おつかいが済んだんならさっさと戻んなさいな。お日様が昇っている間にやることは、いっぱいあるんだから」
「いま、戻ろうとしてましたってば」
お説教が始まりそうな気配を察して、トルヴァはきびすを返そうとした。しかしグズリの追撃は免れなかった。
「成人前とはいえ、女衆の幕屋にばかりに居座る男はね、すけこましってんだよ。図体ばかりでかくて、まるきり子供ったらありゃしないね。リル坊を見習いな」
「はい、はーい。わかりましたっ」
すけこましの意味はわからないながら、トルヴァは慌ててその場から逃げ出した。その際、くすくすとそぞろ笑う少女たちに手を振り、ヘルガやロッタに、茶々をいれるのを忘れなかった。
「そういうところだよ」
ヘルガは白けた顔だったが、笑ってごまかした。トルヴァたちは相も変わらずケヴァンの家の世話になっている。それゆえか、一緒に過ごすうちにヘルガの口ぶりは、グズリに似てきたようだ。
(無理やり、話を打ち切られた気がする)
実はカザドの行方について話をふったのは、グズリで二人目だった。
「まぁまぁ。長く放浪してきた者には、ありがちなことだわ。それよりトルヴァ。この木彫りの馬だが、ロッタは気にいると思うかね? 我ながら良い出来だと思うが、いかんせん、女の子を育てるのは初めてでなぁ……」
最初に話した相手はケヴァンだった。単なる会話の流れでカザドのことを口にしたににすぎなかったが、話題の切り替えが少々強引に感じたのだった。ちなみにケヴァンお手製の馬のおもちゃは、色合いがロッタのお気に召さず、ダインが頂戴することになった。
成人の儀が終わってすでに数日が経過していた。その間大人たちは誰も、カザドの行方について話題にのぼらせようとしなかった。
特にケヴァンたちは初日にカザドを援護していただけに、違和感は増すというものだった。
そしてもっと奇妙なのが、フェンリルだった。
フェンリルはカザドを知る大人たち同様、無言を貫いていた。カザドの不在にはいの一番に疑問をもち、文句を言い、どこへ行ったのかを周囲に聞いてまわりそうなものなのに。
「――なんだよ」
ふと、トルヴァのもの言いたげな視線に気づいたフェンリルが、眉をひそめて見つめ返してきた。
「いや。ずいぶん汚れてるなぁと」
トルヴァは集めたシカの落ち角の先でもって、フェンリルの服の汚れを示した。フェンリルときたら、胸元や裾が黒いしみだらけなうえ、髪も乱れて草までつけている。
落ち角を選別するから手伝えと、呼びとめられた時からそうだった。
「ああ。これは、牧に行った時のだよ」
フェンリルは胸元をひっぱり、ふ、と落とすように笑みをこぼした。
「こないだ生まれたっていう子馬にあちこち吸いつかれて、引きはがすのに苦労したんだ」
ヨトゥンヘイムは農耕も行うが、生活の主な糧は家畜と狩りの獲物たちだった。特に春先となった今、続々と家畜の子が生まれるので、大人も子供も昼夜問わず出産に駆りだされていた。
貴重な馬乳酒を作るのにもさしかかり、あたりいちめん、閉じこもった凍える冬を割って命が芽吹く時期である。
「牧って、いったいどこの?」
「ブラギのおっさんのとこの――」
「ええ?」
トルヴァは大声になった。
「まさかその子馬ってのは、長殿の愛馬のか?」
「知ってるのか」
「知ってるも何も、お産を手伝ったのはこのオレだっての」
ヨトゥンヘイムに来た初日にブラギから、どうだ美人だろう、と自慢された彼の愛馬は、光沢のある月毛の美しい雌馬だった。
思わず手を這わせてみたくなる毛並みもさることながら、主人のブラギにしか愛着を示さない、女王のようなつれなさがたまらず、トルヴァは足しげく通っては時間の許す限り世話をしていたのだ。
「手間暇かけて、やっと顔を覚え始めてもらってたものをお前……。オレの許可なくその子馬に構うんじゃないよ。懐かせるな」
「子馬を見せてやると、はじめに誘ってきたのはおっさんだ」
落ち角をためつすがめつしながら、フェンリルは言った。
「父馬のほうも駿馬らしい。うまく育ったら、くれてやるって言われたよ」
「はあ? なんだそれ、聞いてないぞ!」
「成人の贈り物だとさ」
「世話してるのはオレなのに。なんだよもう。ずるいぞ」
「育ったらの話だよ。いいだろ」
フェンリルはにやりとした。
狙っていただけに、なかば本気で悔しがるトルヴァだったが、ふと、ブラギがフェンリルを娘婿に誘った話を思い出した。
(これってもしや、餌付けなのでは……?)
あの手この手で、懐柔しようと企んでいる気配がする。




