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チェスガルテン創世記  作者: ノミ丸
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第八章――炎(ほむら)の子①――

 馬番をしていたボザは、どきりとする予感に胸を掴まれた。

 すばやく辺りを見渡すも、ボザの菫色の目に映るのは密集する白樺の木々と降り積もった白い雪。それに覆われながらも時折のぞいた黒土と、ほかの氏族たちの天幕だけである。

 馬は突然動きをとめたボザに、早く好物の根っこを寄こせとせっついた。


「ああ、はいはい」


 生暖かい息に吹き上げられてボザは我に返った。獣の気配に敏感な生き物がこの調子なのだから、聞き間違えたのかもしれない思った矢先、おぉーん……と、遠吠えがひとつこだました。

 息をひそめ、耳をそばだてる。その遠吠えに続く声も、答える声もいなかった。やがてもう一度、おぉーん……と聞こえた。

 今度は馬の耳も動いたが、やはり遠吠えはひとつきり。狼の言葉などわからないが「どこにいるの?」と、ここにはいない誰かに向けた訴えのように聞こえた。

 馬の世話もそこそこに、天幕に引っ込むなりボザは言った。


「とうさま、狼がいるよ。遠吠えが聞こえるの。でも一匹だけみたい」


 天幕の中で矢じりの手入れをしていた父親は、視線だけを彼女に投げかけた。


「気にするな、はぐれ狼だろう。さすがに一匹だけで、こんな人の多い所までは来たりしない。飢えているふうでもなし、気がすんだらどこかへ行くさ」


 天幕越しの声だけでそこまで予測をつける父に、ボザは感嘆した。

 以前、冬眠できずに彷徨う熊の足跡を見つけた時もそうだった。その時は父の言う通りに行動したことで、一度も熊と遭遇せずに下山できた。優秀な狩人の父がそう言うのだから、今回もきっと大丈夫だろう。

 ボザはそのまま天幕の中心で焚かれた火の側にいき、まずは暖かさの恩恵を受けた。      

 そして凍りつくようだった指先を揉みほぐしながら、そこで鍋の番をしている人物を見て驚いた。


「あれぇ、あんた。もう大丈夫なの?」


 相手は鍋越しにちらとボザを見上げると、無言で頷いた。

 鍋の中身をぐるぐると混ぜているこの少年は、縁あって三日程前からボザたちと寝食を共にしていた。しかし天幕に招いて以来熱を出し、今日まで寝込んでいたのだった。


「ついさっき起きたとこでな。何かしたいって言うんで、晩飯をまかせてる」


 少年の代わりに父が答えた。ボザは少年の隣に腰を下ろすと、くしゃくしゃの前髪をかきわけて額に手を当てた。


「――うん、そうだね。もう熱は引いたみたい。起き上がれるようになって良かったけど、無理はしないでね」


 少年はびっくりした表情で身を縮こまらせていたが、やがて鍋のものを椀によそい、彼女に差し出してくれた。

 湯気のたつ椀にはじっくり煮込まれたすじ肉と、そこから融けだした黄色い油膜がいくつも浮かんでいる。


「ありがとう」


 差し出された椀を受け取って、少女は塩気の強いスープをすすった。芯から指先まで、じんわりと温まりほぐれていく。

 少年はボザが受け取ったスープを口にするまで見つめたあと、再び鍋の中に視線を落とした。少年の垂れ下がった目元は、まだじっとりと熱っぽく腫れぼったかった。


「ねえあんたさ。元気になったんなら、そろそろ名前を教えてよ」


 匙を握る少年の手がぴたりと止まった。


「ずっと具合が悪かったから聞けないでいたけど、あんたどうやってここに来たの? ここってね、ご覧の通り地の民もいるから、誰でも彼でもがやってこれるってわけじゃないのよ」


 そうなのだ。この市という所は天の民(ヴィト)からも地の民(アマリ)からも隠されている。ボザと父の集落でも、ごく一握りの人物しか知りえない。ボザとてやってきたのはこれが初めてだ。

 何せ双方が互いに良き隣人だったのは遠い神代の時代。まだ神々が仲睦まじく交流できていた太古の話だ。今や天の民(ヴィト)地の民(アマリ)に見つからぬように息を潜めなければ、生きてはいけない。互いに相いれない存在として成り立っている。

 だから神代の頃の交流が今もひそやかに続いていたことが、ここが誰の目にも明らかになったら。もしもそんなことになったら。それこそ星空の彼方の天王が、地の底の女神が知るところになったら……いったい世の中どうなってしまうのだろう?

 ボザにはわからない。わかるのは、ここが密かに語り継ぎ守っていかなければならない場所なのだろう、ということくらいだ。


「ねえ、家族はどうしたの? 家族じゃないなら氏族の誰かと代表で来たの? まさか一人で来たなんてことはないでしょう? あんたが寝込んでいる間にね、わたしもとうさまもそれから叔父さま一家も、市であんたのことについて聞いてまわったのよ。でもあんたを探している人たちは見つけられなかったの」


 矢継ぎ早にまくしたてるボザに少年は目を丸くした。

 ボザは少年に興味津津だった。元気になったなら聞きたいと思っていたことが、たくさんあったのだ。集落を旅立ってからこっち、年の近い相手との会話はご無沙汰だったので、一度はずみがつくと止まらなかった。


「あんたさ、顔が腫れてたよね。誰かに殴られたんでしょう? ……もしかして地の民(アマリ)のところから逃げ出して来たの? だとしたら……」


 その先は言えずじまいだった。

 何故なら少年の顔が苦痛にゆがみ、そのまましくしくと泣きだしてしまったのだ。


「うわあごめん! 嫌なこと聞いちゃった?」


 ボザは大慌てで布巾を取り出し、少年の顔にあてがった。


「そうだよね、言いたくないことだってあるよね。ごめん、ごめんね? 大丈夫だから泣かないで……」

「こらボザ。病み上がりの人間を、そう質問攻めにするもんじゃない」


 父の言うとおりだった。好奇心に任せてつい無神経なことまで口走ってしまった。知らないところで一人、きっと心細いに違いないのに。

 口から生まれたのだと言わしめる生来のおしゃべりは、時に短所に成りえる。ボザはしゅんとした。


「とはいえな、娘の言うことも一理ある。呼ぶのにも不便だし、名前ぐらいは教えちゃくれんか」


 父が促がすと、少年は目元を布巾でこすってからしゃべりだした。


「……あんたの名前ぇ。もしかして、アングルボザぁ?」


 語尾が少し間延びした、独特のしゃべり方だった。


「え、うん。そうだよ。よくわかったね、わたし霜降る朝の子(アングルボザ)なの」

「お、おれぇ」


 少年は若干つっかえながら言った。


「おれの名前もおんなじでぇ、アングルボザぁ……」

「ええ?」


 ボザは驚きのあまりその場で飛び上がった。


「それ本当? ねえ、とうさま聞いた? この子わたしと同じ名前だって!」


 こんな遠い地までやってきて、そこで巡り合ったとしの近い男の子が、まさか自分とそろいの名だなんて!

 ボザは笑みの湧きあがる両頬を抑えながら続けた。


「ええ、すごいすごい! こんなことってあるんだね。霜降る朝に生まれたのは、わたしだけじゃないんだ。わたしね、いつもは短くボザって呼ばれてるんだよ。あんたはいつも、なんて呼ばれてるの?」


 もう一人のアングルボザは、ボザの瞳よりも暗い紫紺の瞳で上目づかいに呟いた。


「ボズゥ……」

この第八章で一区切りつく予定です。

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