第七章――ヨトゥンヘイム⑨――
肘でつついてくるトルヴァを、フェンリルは渋面を浮かべてはたいた。この調子ではブラギから娘婿として狙われていると打ち明けたら、更に面白がるに違いない。
けれど胸のうちは晴ればれとしていた。一人で過ごしているうちに、気づかず凝り固まりだしていたものがあったのだ。特に一度渦巻いたカザドへの疑問は、他の誰とも共有できることではなかった。
気づいていなかったがフェンリルは、トルヴァの来訪をどこかで心待ちにし、念願叶って喜んでいたのだった。
「じゃあつもる話は、オレらの席でってことで」
「――抜け出せってのか?」
トルヴァはにっと、ちゃめっ気たっぷりに笑みを深めて頷いた。
「まさかこのままお行儀よく、酔いつぶされるつもりじゃないだろ?」
フェンリルは周囲の人々を改めて見渡した。皆歌ったり、騒いだり一様にすっかり浮かれており、誰の為の儀式だったかわかったものではない。
「……確かに。動くなら今かもな」
「そうそう! 大丈夫だって、みんな気づきゃしないよ」
トルヴァが楽観的なので、フェンリルもなんでもないことのような気がしてきた。むしろこれだって、通過儀礼の一種に違いない。
何せ若者というのは、連れだってはおとなしくしてられないものなのだから。
「もしも問い詰められたら、一緒に怒られろよ」
「嫌だね」
フェンリルは笑みをこぼして立ち上がった。宴の喧騒はフェンリルのことも抜かりなく浮かれさせていたのだった。
その翌日、日がすっかり高くなった頃にフェンリルは最悪の気分で目を覚ました。
夢すら見ない深い眠りだった――にも関わらず、一度開いた瞼は重く、身体はだるい。眠気が残っている感覚なのに、激しい吐き気と眼窩の奥を刺されるような頭痛に襲われて、再び寝つくことすらままならない。完全な二日酔いだった。
そんな前後不覚な状態だったので、目覚めるなりうなだれてえずくフェンリルの背をさすってくれた相手が、ヘルガだと気づくまでに時間がかかった。何せヘルガも例外なく装いが変わっていたのだ。
細い額当てにしゃらりと揺れる耳飾り。櫛を丁寧にとおした金髪は、艶を帯び光をはじいている。森星の花の刺繍が施された長衣を纏ったヘルガは、身内のひいき目を抜きにしても大変かわいらしかった。
「……ヘルガか?」
「ほかに誰がいるの?」
自信なくたずねると、鋭い声が返ってきた。
「いや、一瞬誰かわからなくて」
「――長殿の娘の誰かとでも、間違えたんじゃない」
「なに?」
低く言い放つと突然ヘルガは立ち上がった。きびきびとした動作で、水差しと湯飲みのほかにいくつかの食べ物が乗った盆を、フェンリルの側に置いていく。
彼女から滲みでるいらだつ気配に、フェンリルは困惑した。
「あ、起きてる」
そこへトルヴァがやってきた。乱れた頭を掻きながらあくびをする様から、こちらもつい今まで寝ていたのだとわかる。
ヘルガは盆を指さし言った。
「酔い冷めの薬湯、そこに置いたから飲みなよ」
「オレいらね。へーき」
「飲、み、な、よ」
「えー?」
手をひらひらさせて答えるトルヴァの肩を軽くはたき、ヘルガは一字ずつ区切りながら念押しした。そして最後に、険しい表情でフェンリルを横目に睨んできた。
「……フェンリルさ。酒癖悪いよ」
「え?」
「もう飲んじゃだめ」
そうして素早く立ち去るヘルガに代わり、トルヴァが盆の湯飲みをとりながら口を開いた。
「フェンリル、酒弱かったのな。するする飲むから平気なんだと思ってた」
そんなトルヴァは確かに本人の言うとおり、酔い冷めなど不要に見えるほどけろりとしていた。
瞼は今にも閉じそうで、普段の歯切れ良い口調とは異なる間延びしたしゃべり方だが、少なくとも、フェンリルよりは断然しっかりしている。
「酒癖ってなんだ」
トルヴァの顔を見ているうちに、上座の席を抜け出したあと二人で競って飲んだことはぼんやりと思い出せた。しかしそれ以外の一切を覚えていなかった。
記憶が断片的に抜け落ちている。嫌な予感がした。
「まさか、ヘルガに何かしたんじゃないだろうな」
「覚えてないのか?」
フェンリルはいよいよ青冷めた。
「おれは何をしでかしたんだ……」
「いや? しでかすってほどじゃあないけど。お前さ、花輪なんて作れたんだな」
「花輪?」
トルヴァはけだるそうに首をもたげて、薄く笑った。
「そう、花輪。何杯目だったかな、突然ルクーをかわいいかわいいって卓の花で飾りだしてさ……ヘルガにものっけてたかな。それを見た女の子たちが寄ってきてさ、ねだられるまま作ってたぜ。ちょっとした行列ができたよ。鼻歌歌って、ずっとにこにこしてて……まぁ、かなりご機嫌だったな」
「誰なんだそいつは」
「いやお前だよ」
フェンリルは金輪際、宴の席で酒は飲むまいと誓った。
その日は結局何ひとつできずに、寝込んだままだった。彼らが使ったその家はケヴァンが持つ離れのひとつだったのだが、彼ももれなく寝込んでいた。
グズリやヘルガは、そんな彼らを優しく放っておいてくれた。
二日酔いに苦しむ人々は宴の次の日にはよく見られるものであり、グズリは酔っ払いの相手を良く心得ていたのだ。だがしかし、ヘルガの不機嫌のわけだけはよくわからないままだった。
そのような体たらくだったので、フェンリルはカザドの不在に気づけなかった。
カザドは宴の最中に姿を消していた――誰にも何も告げずひとりでヨトゥンヘイムを立ち去っており、その行方を知る者はいなかった。
彼らはちいさいうちからお酒を飲む習慣がありますが、子供のは度数がかなり低いです。2~3%くらいで家畜の乳を発酵させたヤツとかです。