第七章――ヨトゥンヘイム⑧――
日が昇りきってからフェンリルは、ヨトゥンヘイム中を隅から隅まで歩かされた。馬の鞍に跨りはしたものの、駆けだしはせずゆっくりと歩を進めて里の者たちに成人する若者が誰かを知らしめる。ヨトゥンヘイムは広く、一周するだけでも時間がかかるのに、なんと三週もまわらされた。
しかもまわるたびに後を追う野次馬が増えていく。老人はありがたがってほめそやし、若者はやいのやいのとはやし立て、子供は歓声をあげてフェンリルのあとを追い越していく。宴の様式に誰しもが心浮かれているのだった。
それだけでも充分見せものになった気分なのに、宴の主催場である長の家で待っていたのは、見せものの極みである剣舞のお披露目だった。
「これより新たな若者が、いとたかき天におわす天王の御許よりこの地に出で立つ。心せよ。我らは立ち合い人である」
ブラギのよく通る声を合図に、笛と太鼓の音が鳴り響く。フェンリルは喧騒が静まりだすのを待ってから、一歩足を踏み出して剣を突き出した。
覡巫の元で耳にしたのは笛だけだったが、太鼓の音と合わさるとより身体を動かしやすかった。どこで薙ぎ払い、どこで振りかえって手足を運べばいいのかがよくわかる。
あれほどこだわったからには、カザドがどこかで見ているに違いないと思った。彼だけではなく、トルヴァやヘルガも。しかしこちらに注目する人々の中からはついに、見知った顔を見つけることはできなかった。
何より予想した通りカザドの剣は重く、油断すれば簡単に重心が傾いたのでまわりに集中してばかりもいられなかった。自ら意思を持ってあたりの空気を裂くような剣に、必死に食らいつく。
簡単に汗が滲み息が上がった。ここで無様にふらつけば、剣を貸したカザドにも格好がつかない。力任せな躍動に、身をまかせたかったところもある。
カザドに聞きたかった。なぜ。どうして。なんでそこまで。聞かずともわかりそうな思いもあった。
最後の人さしを舞い終え息を切らすフェンリルの元に、トネリコの冠を被った覡巫が進みでて、儀式の前に預けたヘイルの腕輪を掲げてやってきた。
フェンリルはならった通りにその場で片膝をついて、新たに銀の鎖を通された腕輪が頭をくぐり、胸元に落ちてくるまでを待った。視線の先で揺れる腕輪は覡巫の元にいた間、丁寧に磨いていたおかげで艶を取り戻し、月輪のように光の筋をつくっている。
続いて下げたままの後頭部に覡巫の手が添えられ、額当てと頭の隙間に小刀が入る冷たい感触を感じた。いくらもせずはらりと、切り放された布地が落ちてきた。
「今、星空の彼方より若者が舞い戻った。これなる者の名はカザディア=フェンリル。健やかたれ。天王の息吹よあれ」
顔をあげたフェンリルは、珍しいものを見た。喝采をあげる人々よりもはるか遠くの空をゆく天王の翼の群れだ。
遠く、空を切り滑るように飛び去る白銀の翼が照り映える。群れは世界の支柱の座する方角へと向かっていた。そこから伸びているはずの光の柱は、見はるかす晴天に融けて今はわからない。
アースガルドはこの空そのものになったのだと、エイナルが言っていたのを思い出す。そうなのかもしれない。見えなくなっただけで、本当はまだ何も、失われていないのかもしれない。
ここで新たな望みを持って生きろと、送り出されている気がした。
* * *
剣舞が終わると宴もたけなわだった。骨がついたままの羊肉の煮込みや、じっくり煮込まれた内臓のスープ。チーズや瓶詰めだけではなく、市で手に入れたと思しき木の実や贅沢な揚げ菓子まで並んでいた。
そして世界の支柱の周囲でも見かけた白詰草や森星の花、白や赤のアネモネなどが色とりどりに飾ってあり、目にも耳にも鮮やかだった。
主役であるフェンリルは宴の主催である長の食卓の上座に座り、酒を飲まされていた。
成人を迎えた若者の元には各々の家の家長と思しき客人が挨拶にきて、角の杯に酒を注いでいくのだが、注がれた酒は飲み干さなければならない。何故なら角の杯は湾曲であり、そのまま置けば中の酒はこぼれてしまう。本来支えを使うものだが、成人の儀において使用は禁じられていた。
つまりこれは断ってはならない祝い酒。主役が酔いつぶれるまで終わらない通過儀礼なのだった。
「一向に顔色が変わらんな」
ブラギが何度目になるかわからない酒を注いできた。
「若者がその体たらくでは可愛げが無いぞ。せめて美味いとか不味いとか、感想くらいないのか」
そういうブラギとて、辛い酒を水のようにすいすいと平らげている。フェンリルはひと息に杯を傾けて彼をねめつけた。
「酒の味なんてわからない。正直もういらない」
主役だけに席から離れてはならず動かないまま酒を煽っていたので、さすがに腹が膨れてきていた。目の前にある脂身も汁物も魅力を感じない。席についてからずっと、これまで口にしたきたこともないような味の酒をあおり、塩だけを舐め続けている。
ブラギは大仰にため息をついた。
「若造の呂律が回らなくなる様を、つまみに飲むのが醍醐味だと言うのに。実につまらん。そこそこ酔わせて、娘にねんごろに介抱させようと思っていたのに」
末恐ろしい計画をぼそりと言い捨てて、ブラギは立ち去った。浮かれて賑わう人々に混ざろうというのだろう。ぽつねんと一人残されたフェンリルは、側に置いていたカザドの剣を手にとった。
挨拶に来る大人たちの中にも、カザドの姿はなかった。おそらく喧騒から離れた場所で何かつまんでいるのだろう。できるならフェンリルもそうしたかった。賑やかしいのが嫌いという訳ではないが、その中心にいて注目されるよりも、少し離れたところで眺めるくらいがずっと好ましい。
手慰みに剣を弄んでいると近づいてくる客人の気配がした。またかという思いで顔をあげて杯を掲げると、相手は酒の代わりに骨つき肉を突き出してきた。
「いよっ、お兄さん」
「トルヴァ――」
驚くフェンリルの口元に、トルヴァは無理やり肉を押しこんできた。こうでもしないと相手が食べないことを知っているのだ。仕方なしに口内の肉を噛みちぎり飲み込むフェンリルの隣に、トルヴァがそのまま腰を降ろした。
「うわ、なんだよ。未だかつてないくらい清潔な身なりじゃんか」
そういうトルヴァのほうも、額当てをしめて真新しい長衣を纏ってと、装いがすっかり新しく変わっていた。
変化が無いのは明るい気質の声や表情くらいだったが、フェンリルなどよりずっと、ヨトゥンヘイムに馴染んだ雰囲気を放っている。そのせいか、顔を合わせるのが随分と久しぶりな気がした。
「そっちこそ。額当てなんて何年ぶりだ?」
フェンリルは指で額をこつこつと叩いた。
「これな、グズリさんがくれたんだよ。オレたち全員の分を用意してくれてたらしい。さすが五人も育てたおっかさんは違うね」
トルヴァは自身の額当てに触れて口角をあげた。
「つくなりばらばらになったから、どうしてるかと思ったけど元気そうで良かったよ。これで名実ともに、ヨトゥンヘイムの仲間入りって感じだしな。ていうかフェンリル。カザディアってなんだよおい」
予想通りトルヴァに野次られたが、その話題を続ける気はなかった。フェンリルは素早く言い返した。
「それよりも、みんなはどうしてるんだ」
「元気にしてるよ。とりあえず、ケヴァンのおっちゃん家で世話になってる。じいさんだけは、どこで寝泊まりしてるか謎だね。そういやさっき見かけたな……呼んできてやろうか?」
「やめろ」
にやにやとするトルヴァを小突きながら、フェンリルはカザドがきちんと宴に参加していたのなら、先程の名乗りも聞いたに違いないと気づいた。
ひょっとしたらフェンリルは、とんでもなく恥ずかしいことをしたのかもしれない――。一度気づくともうだめだった。
「ヘルガなんか見ものだぜ。ずっと女の子たち数人に、ついてまわられててさ」
フェンリルはその様子を想像して、思わずくっと喉を鳴らした。
「なんだそりゃ」
「なんかおねえさまって呼ばれてるよ。フェンリルのことも話題になってたぜ。ちらほら、女の子の野次馬がきてただろ」
「知らないよ」
「何隠してんだよ。正直に言ってみろって」
「べつに隠してない」
トルヴァの指摘通り、剣舞をやってると遠巻きに人の気配がして集中できないことがたびたびあった。
大概が二、三人で徒党を組んだ少女たちであり、フェンリルが何かするたび、目線をそちらに向けるたび、きゃあきゃあ声をたてるのでたまったものではなく、儀式中は誰とも会わないのではなかったかと、エイナルに抗議したこともあったのだ。
「興味を持たれてるんだよ。かわいらしいじゃないか。手のひとつも、ふってあげればいい」
このような調子で真剣に取り合ってはくれなかったので、フェンリル自ら少女らを追いつめどういうつもりなのか問い詰めると、今度は泣かれる始末だった。
向こうが勝手に騒いでいるのに、泣かせるものじゃないとエイナルには叱られるしで、女の子の集団にはほとほと困り果てたのだ。
「気になる娘とできたか? どうなんだよ?」
「なんでもいいだろ。しつこいぞ」