第七章――ヨトゥンヘイム⑦――
「短剣はそのまま受け取っておくとして、長剣については一時貸してやるとのことだ。どうも剣舞の件を気にされているらしい」
フェンリルは短剣よりも先に、カザドの長剣を受け取った。
子供らを残してどこかへ――今思えば市へ――戦利品をさばきに行ったカザドの帰りを待つ時、彼と共に思い出すのがこの剣だった。
カザドは鞘の代わりに布きれを巻き付けただけの、この切れ味の悪そうな剣で、いくつもの死線をくぐり抜け時には子供らを守った。そう言う意味でよく知る物だが、手にするのは初めてのことだった。
布地をほどくとでこぼこと穿ったようなへこみのある、鈍い輝きの刀身が顕わになった。見た目よりも重量があり、ずしりとした重みが腕から全身へと伝わる。
もう一方の短剣も受け取り鞘から引き抜くと、刃こぼれ一つない真新しい刀身が現れた。冷ややかな湖の底のように艶のあるそれを、手元で二、三度振ってみる。
初めて持ったにしては、狼の短剣は吸いつくようにフェンリルの手によくなじんだ。重さも長さも申し分ない。悪くなかった。
「こちらとしては剣舞にどちらを使っても構わんぞ。どうする?」
ブラギに問われて、フェンリルは少しだけ考えたのちに答えた。
「じゃあこっちの長剣を使う」
神経質な老人を安心させてやろうという気持ちだった。
「あいわかった。次の要件はもっと大事だぞ。フェンリルよ、お前ヴァナヘイムの出身だそうだな」
ブラギの指摘に、フェンリルは渋い顔をした。
「何故隠す。生来のヴァナヘイムの者と名乗りをあげないのは、どういう訳だ」
「……べつに隠してたわけじゃない」
カザドが教えたのだろうか。なんにせよ面倒くさい気配がした。フェンリルは口の中で、聞こえない程度に舌打ちした。
「養い親と同じ名を名乗るのが、妥当だと思っただけだ。ヴァナヘイムはもう無いし、妙な勘ぐりをつけてくる輩もいたからな。――あんたみたいに」
一瞬ブラギを捉えるまなざしが青白く閃いた。
だがまなざしを受けてブラギが揺らいだのはほんのわずかのことであり、片眉を跳ね上げて泰然とした態度で腕を組んだ。
「手厳しいな。しかしお前さんが気に食わなかったとしても、あの問答は意味があることだったぞ。おかげで気難しい子供が同じ名を名乗りたがる程度には、懐かれるお人らしいと理解できたしな」
「おれも、あんたの目が曇っているのが本当らしいとわかってよかった。敬わなくてすむ」
「――はっ」
今度こそ完全に虚を突かれて、ブラギは目をぎらつかせた。
だが立ち昇らせた表情は無礼な若者への憤怒ではなく、どう相手を驚かせてやろうかといたずらを企む子供のような笑顔だった。
「そこまで」
エイナルがひとつ手を打った。
「ブラギ殿、あんまり人をからかうものじゃありません。これでは話が進まない」
するとブラギは組んでいた腕をほどき、降参とでも言いたげに掲げた。
「いやなに。相手が誰であれ物怖じしないところが気にいってなあ。若い頃を思い出す」
「フェンリルも。長である以上、ブラギ殿は厳しい決断を下さなければならない立場の人だ。時に自ら進んで、憎まれ役を買ってでなければならないこともある。それはわかるね」
フェンリルは不服そうに顔をゆがめたが、小さく頷いた。この数日でエイナルと覡巫と接しているうちに彼らの人となりがわかるようになり、生来の素直さを見せるようになっていた。
「もっと援護してくれエイナル。これ以上嫌われると今後にさしさわる」
「それなら意地悪をひかえることです。あんまり調子に乗っているとグズリさんに言いつけますよ」
エイナルの脅しは効果的だった。ブラギはすぐさま表情を改め、ひとつ咳払いをした。
「でだ。儀式では生来の名を名乗るのが道理だが、お前さんの場合は新たに命名するのが良いと思ってな。何かいい名前はないか?」
「いい名前?」
「成人したのにふさわしい、新たな名だ。面倒なら単にヨトゥンヘイムの者と名乗るでもいい。男親の名前を頂くのでもいいんだぞ」
促がされてふいに、思いつくものがあった。
「それなら、カザドで」
気づけば思いつきのまま、フェンリルは言葉に発していた。
「――カザドと名乗りたい」
「ほーぉ?」
にやりとするブラギを見てフェンリルはしまったと思った。
この案が採用された場合、じいさん子めとトルヴァに野次られるだろうと気づいたのだ。
「まあ良いだろう。だが養い親ばかりを優先してばかりでは、ご尊父に立つ瀬が無い。フェンリル、お前のご尊父の名は?」
「ディアス」
「ディアス? ――まさかヴァナシア=ウル=ディアスか」
ブラギが驚きで目を見開かせた。きちんと名乗りをあげる時にしか使わない父の名を言い当てたことをフェンリルが訝しんでいると、ブラギはさらに続けて言った。
「ディアスのせがれはとっくに成人済みのはずだろう――あそこは兄と妹の二人だけだった」
「どうして」
知っているのかと問う前に、覡巫があの夢見る口調で語りだした。
「かつてヴァナヘイムより、五つの氏族が仲間をともない旅立った。彼らはそれぞれ各地へと散らばり、氏族のひとつはここ、ヨトゥンヘイムに辿りついた」
「なんだって?」
今度はフェンリルが驚く番だった。
「この地に住まう者は、ヴァナヘイムの流れを汲んでおるのだよ。皆が皆ではないがな。この場で言えば、わしを含めブラギの一族も、元はヴァナヘイムの出身よ。もう十五年は前になる。お前さんははたして、生まれておったかどうか――」
覡巫が過去に遠く思いを馳せ、深くため息を吐いた。
「我らのことを知らぬのも無理はない。旅立ちはおろか、道中は困難を極めた。数多の苦労と別れは、出会いよりも多かったのだ――我らは辿りついたこの地でこうして、新たな生活を築き上げることができたが、ヴァナヘイムとはそれきりだった。共に旅立った他の氏族で、交流があるのは今やただひとつのみじゃ……よもや。よもやこうして、ヴァナヘイムの遺児が、生きて我らの元へ辿りつこうとは」
覡巫の目が眩しそうに細められた。
盲たはずの潤んだ目がフェンリルを捉え、さまよう手が彼の手をさするようにとる。かさついたその手には熱がこもっていた。
「カザディア=フェンリル――今後はそう名乗るとよい。ご尊父の響きも入る、良き名じゃ」
「ディアスとはあまり似てないな。奥方に似たか」
ブラギが口を開いた。
「当時俺たちは開拓に必死でな。ヴァナヘイムの訃報は何年もあとに知った。……生き延びた者の話を聞くことはなかった」
フェンリルは思わず胸元に手を這わせた。何かのおりにつけ、服の下の腕輪に触れるのがもうすっかりくせになっていた。
せり上がるものが喉元を塞いで張り付き、やっと一言だけもらした。
「じいさんは、このことを知っているのか?」
「知っているよ」
答えたのはエイナルだった。
「ヨトゥンヘイムができた経緯については、はじめに話した。その時に子供たちのことと――ヴァナヘイム出身の君について聞かされて、移住を求められたんだ。そこで私とケヴァン殿で君らを出迎えに行こうと決めた」
「俺は完全に入れ違いだったな。お前さんが誰の子かを知っていれば今少し、態度を改めもしたものだが」
そうは言うが変わらずの不敵な態度で、ブラギは唸った。
フェンリルは戸惑いを隠せなかった。あの日からすべてを失った気で今日まで来たのだ。
「……ヴァナヘイムは、終わってないのか」
「終わるものか」
かすれた呟きを聞き、ブラギが笑みをより一層深くぎらつかせた。
「無かったことになどさせん。たとえ奴らが我々をいない者として扱おうとも、踏みにじられようとも、終わってやるものか。何度でもやるぞ。女神と地の民が、これは敵わんと音をあげるまで。雑草の如く、何度でもだ」
ブラギの瞳に宿るのは屈辱で燻る復讐ではなく、活力の炎だった。その炎が燃え移り、灯った者たちでヨトゥンヘイムを築き上げてきたのだ。
ヴァナヘイムは終わっていない。フェンリルの知らぬところで形を変えて、息づいてきたのだ――
「ところでフェンリルよ、実はうちには娘が三人いてな。ほら、お前も初日に会っただろう?」
「なんだ急に」
おもむろにブラギが切りだしたので、フェンリルは感傷に浸る間が無かった。確かに初日、ブラギの家に招かれた際に彼の妻と娘たちに歓迎された。
だが一人一人の顔までは覚えていない。努力してみてやっと、皆集落の女性らしく働き者だったという感想を持てる程度だ。
「娘たちは皆、気だても良く働き者で健康だ。親のひいき目だが、器量良しでもある。おかげで上の娘たちの嫁入りには苦労しなくてな」
「――何が言いたい」
フェンリルはこのブラギという男がいかに不遜で怖い者知らずで、野心家であるかを思い知った。
ブラギはにやりとした。
「お前、俺の娘の入り婿になれ。どの娘が良いかは選ばせてやる。今はなきヴァナヘイムとヨトゥンヘイムの長の子らが繋がれば、より良い絆になる。――どうだ、悪い話じゃないだろう?」