第七章――ヨトゥンヘイム⑥――
堅苦しい説教か癇癪ばかりと思った盲目の覡巫との生活は、想像していたより何事もなく静かなものだった。
基本覡巫は好々爺であり、火を熾したり食事をしたりといった身のまわりのことも、介助なく自分でやれていたのだ。身のまわりの世話はほとんど必要なく、フェンリルは自分のことに専念すれば良かった。
不必要にフェンリルを構うでもなく、いないものとして放置するでもない。居候先としての居心地はけして悪いものではなかった。
唯一覡巫が態度を変えるのは、高齢ゆえ剣を振るえない彼に代わってエイナルが剣舞の型を指導しにやってくる時くらいだった。どうも覡巫はエイナルを不出来な息子と扱っており、型を習っている間もああでもないこうでもないとしきりに口をはさんでは杖を振り回していた。
肝心の剣舞のほうはそれほど難しいものではなかった。戦闘や仲間内での手合わせと同じく、相手の動きに合わせて先手をとったり、誘いこんで油断させるのと変わらない。
決まった流れがはじめにあって、それに自分自身を落としこみ手足を合わせて振るうだけであり、一度型を覚えれば教え通りにふるまうのはたやすかった。
「やっぱり覚えが早いな」
練習用の木剣を地に刺して、エイナルが感心の声をもらした。
「身軽で身体のばねも強いし。これは短剣だともったいない」
そういうことで長めの木剣を振るうようになったのだが、この時初めてフェンリルは長剣が好きになれないということに気づいた。長すぎて感覚が狂い、手足の延長として切っ先をとらえきれないのだ。木剣でこれなのだから、本物の長剣では重さにも振り回されかねなかった。
そして剣舞は実戦には向かないということもわかってきた。手足を伸ばし、大きくゆったり動かすという動作が多い。あくまでも人に見せて目を喜ばせるのが目的のわざなのだ。やはり不必要だと思ったが、今回限りのことではあるし至って真面目に取り組んだ。
身体を動かしている間は余計なことを考えずにすむから、熱心だったところもあった。やることもなくなり手持無沙汰になると、初日に起きたカザドとブラギのやり取りをついつい思い返さずにはおれなかったのだ。
(何を言われても申し開きできないと言った)
あの時は頭に血が昇っていたが、こうして一人になると疑問ばかりが湧いた。
カザドがフェンリルの成人に妙にこだわっていること。その割に実はそれほど儀式ごとに詳しくないらしいこと。ブラギがカザドを軽蔑していること。そしてそれらの理由を、ケヴァンやエイナルが知っているらしいということ……
規則正しい生活であっても寝起きと寝つきの悪さは変わらなかったので、その日の晩もごろごろと寝返りを打ちながらフェンリルは考えていた。
芝土の長屋は人がいる限り火が絶えない。何故なら炉端でいつまでも覡巫が祈祷しているからであり、フェンリルはついにこのしわがれた老人が自分より先に眠り、遅くに起きる姿を見ることはなかった。
(咎めは自分一人がとも言っていた。……でも、なんの咎めがあるっていうんだ)
初日のブラギの態度を思い返す限り、今さら盗賊業についてどうこうということはないだろう。そうであればそもそもはじめに、受け入れを拒否していたはずだ。
ではいったい何をすれば、少々の不都合は飲みこんでしまいそうなブラギ相手に、犬死にとまで言わしめるのだろう……
これらの答えはフェンリルの中にはなく、蜘蛛の巣のように思考にかぶさってきた。だが実はたやすく解決する方法がひとつだけあった。カザドに直接聞けばいいのだ。答えを持つのはカザドなのだから。
だがそうしてカザドがすべてを明らかにした時、彼らのこれまでが決定的に変わってしまうような、うすら寒い予感がつきまとっていた。
知りたくないと思う気持ちもまた、本当なのだった。
あっという間に日は過ぎて、いよいよ儀式の宴当日。ほとんど日も昇らぬうちからフェンリルはたたき起こされて、いきなり身体を洗うことになった。
ここにきてから毎晩行水していたというのに、今日は瓶に詰めた泥のような石鹸まで使って、頭からつま先まで熱心に洗えと命じられた。やけに泡立つし鼻につく臭いはするし、目にまで入ってフェンリルは地獄を見た。
行水のあとに待っていたのは着替えだった。贅沢にも、真新しいできたての長衣と下穿きが用意され、濃く染めた紺色の毛皮の外套まであった。これまで身につけていた物は、今後は身につけないようにとのことだった。
すべてをまっさらにして、別の新しいものにならなければいけない――そう告げられているようで妙に落ち着かない。
しかし同時に場違いな物も用意されていた。それは額当てだった。
「額当てなんていまさらだ」
もう何年もつけてこないできたものだった。額当ては子供のお守りであり、儀式の際には切り捨てることになるものなのだ。
「今回だけなのに、もったいなくないか」
「それも込みでの儀式だよ」
エイナルは諭す口調だった。
「とびきりの物を作ったと、グズリさんが胸を張っていた。贈り物をつけていると知ればきっと喜ぶだろう」
フェンリルはあらためて、白地に金糸の刺繍が施された見事な額当てを見つめた。これがはらりと地面に落ちるさまを想像すると、やはりもったいないという気がする。
「惜しむならばなおのことつけておやり。それこそ孝行というものじゃ」
覡巫の追撃もあり、フェンリルは観念することにした。額に巻きつけたちょうどその時、見計らったかのように思わぬ客人がやってきた。
「お、やってるな」
現れたのはブラギだった。
彼は挨拶もほとんどないまま長屋に入り込み、じろじろと無遠慮にフェンリルを眺めたおした。そして満足げに、にっと口角をあげた。
「よしよし、見違えたな。いかにもヨトゥンの若者という風情になったじゃないか。顔色も良い。儀式は滞りなく行えそうだな」
そのまま気安く肩を叩いてきそうだったので、フェンリルはそれとなく距離をとった。
「さて、当日ということでいくつか要件がある。まずはこいつだ」
ブラギがフェンリルに差し出したのは、長さの異なる二振りの剣だった。
「カザド殿から預かってきたものだ」
どちらの剣も見覚えがあった。
一方はブラギと成人の儀について問答を交わした日に見た狼の意匠のある短剣で、もう一方はもうずっと、なじみがある古い長剣。カザドが常に腰に差して持ち歩いていたものだった。